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「ブックス海」

生まれ育ったマンションのすぐ目の前に、小さな本屋さんがあった。名前は「ブックス海」。店長はちょっとクマっぽくて髪がボサボサと伸びたおじさんだった。

本屋まで歩いて10秒なんて、今思えばめちゃくちゃ贅沢な環境だが、当時子どもだった私には、電信柱とか野良猫くらいそこにあって当たり前のものだった。

小学校に入った頃から自然に「ブックス海」に入り浸った。立ち読みばかりしてたが、クマ店長は何も言わなかった。最初に好きになったのはドラえもん。父に「ドラえもんを買って」と頼むといきなり「よし!」と言って全巻買ってくれた。

8歳くらいになったある日、ぐうぜん手にした漫画に釘付けになった。「うる星やつら」だ。なんなんだ、この漫画!めちゃくちゃ面白い!

私はうる星やつらの発売日が知りたくてクマ店長に話しかけた。
「つぎのかんいつ出るんですか?」
するとクマ店長は「これ見てごらん」とすべての漫画の発売日が書かれた一覧表を見せてくれた。その紙はものすごい宝物のように光り輝いて見えた。

うる星やつらの他にも、私はたくさんの本を立ち読みした。最初に読破したのは赤川二郎さんの「三毛猫ホームズ」シリーズ。店の角で3時間くらい読み続けたけど、相変わらずクマ店長は何も言わなかった。

中学生になるとコバルト文庫と新井素子さんと栗本薫さんに夢中になった。高校生になると吉本バナナさんと村上春樹さんにJDサリンジャー。

部活もやっていない私の生活の70パーセントはブックス海とともにあった。あまりに長く本屋にいるからだろうか、クマ店長の代わりに店番もこなした。「疲れたな〜」と店長が言うと私がレジに座る。店長は近くにある自宅に帰って休むのだ。

店番をしながらまた本を読む。カッコつけたいとき澁澤龍彦さんにサガン。そして、あいも変わらず心の愛読書は「うる星やつら」。

お客さんが自分が好きな本を買ってくれると嬉しかった。その人と通じ合えたような気分になって、後ろ姿を見送った。

しかし、大学生になったある日、ブックス海のシャッターは閉まってた。そして二度と開かなかった。
シャッターには大きな海の絵が描いてあった。


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