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父は旅が好きだったのだろうか。父といった4回の旅とジェットコースターな人生

先日、「山小屋」の展示ディスプレーに使うために、父が使っていた古いトランクを実家から出してきた。革製のトランクで、いまでは映画の中か、ショップのディスプレーでした見ないようなもの。かなり味がありカッコいいので、小さなマンションでも捨てられることなく生き残ってきた。トランクを開けてみると、ほんのりとカビの匂いがして、父の古いパスポートが入ってた。若い父が写真に写り、たくさんのスタンプがおされている。

父は旅が好きだったんだろうか?

若い頃、父はよくこのトランクを下げて、ブラジルに行っていた。小さな会社を経営していたので、新しいビジネスのネタを探しにいっていたらしい。

当時ブラジルに行くには36時間もかかったため、一度いくと1ヶ月は帰ってこなかった。幼稚園児の私と父はときどきハガキを送りあった。(父はひどい悪筆で、子供には何が書いてあるのかさっぱりわからなかった) 

子供ごころながらに、父はとても遠くを旅してる、というのは理解していた。ブラジルから帰ってくるとき、父は毎回とんでもない量のお土産を抱えていた。例えば牛の革でできた巨大な敷物。宝石の原石にインカ帝国の紋章が入ったお皿。それはもうシルクロードのキャラバンみたいだった。あるときなど、謎の女性を連れてかえってきた。確か、ロサという名前で「あとは頼む」といったまま、父はまたどこかに行ってしまい、私たち家族とロサはしばらく一緒に暮らした。私たちの共通の言葉は「オブリガード」(ありがとう)しかなかった。しばらくすると、ロサは「オブリガード」と言い、またブラジルに帰っていった。

最終的に、父は事業パートナーのブラジル人に騙されて全てを失い、ほうほうのていでブラジルから撤退。しかし、漁師の家に生まれ、ほとんど教育も受けられないままに都会に出てきた父にとっては、ブラジルの日々は冒険だったことだろう。

父はたくさんの旅をしたようだが、一緒に旅行にいったのは、一泊レベルのものを含めても、たったの4回だけだ。

1度目は、私が小学校6年生の時のことだ。
一泊で福島県の郡山と猪苗代にいった。家族旅行といっても、父の趣味のついでだけど。父がアマチュアの囲碁の大会に出ることになり、家族もついでに連れていったのだ。

父の囲碁へののめり込み方はハンパなかった。週末になるとほとんどの時間を囲碁クラブで過ごしていた。夕方になると母に「夕飯をどうするのかお父さんに聞いてみて」と頼まれ、私はたびたび黒い電話帳を開き、囲碁クラブに電話をかけ、「お父さんはいますか」と聞いたものだ。父が「いまから帰る」と答える日は、たいてい父の好物のカレーになった。

猪苗代にいったあとは、家族で旅をした記憶はない。父が家族旅行に一切興味を示さなかったのだ。とはいえ、寂しかったという記憶もない。母がとても社交的だったので、近所の人や友人家族と一緒になって、スキーや山荘や海外など、いろんなところを旅していた。

高校生になった私は、「ベルサイユの薔薇」にめちゃくちゃ感動し、パリにいきたくてしょうがなかった。その頃、父の会社はバブル景気の恩恵に預かっていて、父はやたら羽振りがよかった。
「フランスに連れていって」
と父に頼むと「わかった。お前が20歳になったら一緒に行こう」という。
結局20歳になっても連れていってくれる気配はまるでなく、私は友だちと一緒にアメリカに行った。私はその頃から、将来はアメリカで暮らそうと決めていた。

その2年後のこと。私が大学を卒業するときに「卒業旅行に一緒に行く予定がない」とこぼすと、「じゃあ、お父さんと一緒に行こう」と言いだし、本当にタヒチに連れていってくれた。タヒチを選んだのは父で、その目的はゴルフだった。父はいつの頃からすさまじいゴルフ狂になっていて、週に3回も4回もゴルフ場に通っていた。背が低く、お腹が出て、ガニ股な父のフォームは、「華麗」とは真逆で、周囲のゴルファーの笑いを誘うほどだったが、そのわりにはけっこういいセンいっていたのか、一度はホールインワンを出し、記念にテレホンカードを作ったりしていた。

タヒチにはゴルフ場が一箇所しかなく、雑草だらけで、プレーしている人は全くいなかった。父は、私のあまりの下手さっぷりにうんざりしたようで、ひとりでカートに飛び乗り、「やーい、やーい、ついてこれるもんならついてこーい!」と言いさっさと先のホールに行ってしまった。頭にきた私はゴルフクラブを振り回しながら、父を追いかけた。父は私の形相に本気で怖くなったのか、ゴルフカートのアクセルを全速力で踏んだ。そして、カートごと池におっこちた。

父が池から上がってくるなり、「どうするの、このカート。弁償しろっていわれるよ、きっと!」と私が冷たく言うと、「二人で引き上げよう」という。私たちは渾身の力でカートを引き上げた。その瞬間父の腰に何かがおこったようだ。その後、父は「腰が痛くてプレーできない」と言い出したが、私は「なんと無責任な。最後までやる!」と父をけしかけ、9ホールまでプレー。その後、父は微動だにできなくなってしまった。気の毒に。ぎっくり腰だった。(おかげでカート代は請求されなかった。

父は旅が好きだったんだろうか?

さらにその1年半後が、3回目の旅である。
私が23歳の時に、家族全員でハワイ旅行に出かけた。父がバブルの頃に友人にそそのかされて買い求めた怪しげなリゾート会員権があり、それはタイムシェアで世界の高級リゾートにただで泊まれるというものだった。父がその会員権にいったいいくらのお金つぎ込んだのかは知らないが、とんでもない額なのではないかと思う(最終的には二束三文になった)。とにかく、それを使ってハワイに行こうということになった。

当時、私はアメリカの大学院に進学していた。父の影響もあったのだろう、研究対象は南米だった。その日、母、妹、父は日本からハワイに飛び、私はアメリカから飛行機に乗り空港で合流した。今だからわかることは、この頃、すでに父は多額の借金に苦しんでいたことだ。それでも、父はなんとか私を希望の大学院に送り、家族をハワイに連れていった。そして、相変わらずみんなでゴルフをして、ドライブし、夜になると贅沢なご馳走を食べた。父は常に食べきれない量の料理を頼んで私をイラつかせた。一度は「そんなに頼まないでよー」と私が怒りながら言うと、父は悲しそうな顔をした。父は、まだ羽振りの良いふりを続けたかったのだ。

父との最後の旅は、そこからさらに8年後、31歳の夏のことだった。この時には、父の借金問題は家族全員を苦しめていた。この頃には、もはや家族で旅行にいく余裕など全くなかった。父は一発逆転を狙って色々な事業に手を出しては失敗し、逆ににっちもさっちもいかない状況に陥っていた。「10月までに300万円借りられなかったらもう終わりだ」というようなことを呟いていて、寝られない日が続いているようだった。そういう父を見るのとこっちまで具合が悪くなってくるので、あまり真剣に見ないようにしていたと思う。私はとにかく仕事に精を出していた。夜中まで報告書を書き、海外出張に行き、ボロボロになるまで頑張っていた。

そんなある日、父はのんびりした口調でいった。
「おいおい、お前、ずっと勤め人でいるつもりなのか。そんな人生つまらないぞ」
驚いた。父の生き方はあまりにもジェットコースターだった。しかも、いままさにその生き方のせいで、家族全員が日夜苦しんでいた。それなのに、父は自分の生き方を後悔していなかった。それどころか、心のどこかで、これで良かったと思っているようなのだ。しかし、父みたいなジェットコースターみたいな生き方なんて絶対にイヤだった。ますます仕事に精をだし、努力を重ね、国連の面接も受けていた。とても安定した仕事である。

この当時、お金はあればあっただけ借金という闇の中に消えていった。私は父に大学院の留学費用を返し、私が返済したお金は、そのまま借金の返済に当てられた。なによりも辛いのは、全てのお金が「利子」という名の巨大なスポンジに吸い取られ、借金問題の解決には全く糸口がないことだった。それでも、日々、ただ暗くなってばかりだったわけでもない。母も妹も私も仲が良く、よく笑っていた。だから、外からみたら私たちがどんだけ苦しんでいたなんてきっと分からなかったと思う。

4回目の旅は、福井県若狭湾にある大島半島、父の実家だ。父がとても久しぶりにおばあちゃんに会いにいくというので、私も一緒にいくことにした。その年の4月に私は例の激務の会社を辞め、2ヶ月後には国連に転職するためにフランスに引っ越すことになっていた。初めて二人で新幹線に乗り、父の故郷の若狭湾に海につくなり、一緒に海に飛び込んだ。そこは、私がまだ幼い頃に、「ホテルを建てる」といって父が衝動買いした土地だ。浜辺に続く夕日が美しい土地だったが、買ったあとになって国定公園のなかだということが発覚し、結局ホテルは立てられなかった。その後も開発されることもなく、ひとたび海に潜ればたくさんの魚や貝がとれた。父は漁師のもとに育っただけあり、素潜りがが得意だった。そして父が泳ぐ理由はただひとつ。ウニやサザエなどの海産物を取るためだ。

「サザエとり競争をしよう!」と父は言い、いっせいのせで一緒に潜り始めた。しかし、競争にはならなかった。私は1時間かかってたった1個取れただけだったが、父はあっという間に20個くらいとった。そして、「ほら、ここにあるよ」と行って、気まぐれに一つを私の手に握らされてくれた。まったく歯が立たない競争にイラついた私は、浜辺で本を読み始めた。気がつくと父はまだ潜り続けている。そして、夕方までかかって、なんと父は100個のサザエを採った。「えー! こんなにとってどうすんの?」と私は呆れ、父は「てへへ」と照れたように笑った。「これを売ったらすごいお金になるぞ」と父は冗談を言い、最後はふたりでせっせと海に戻した。
そうか! と私は合点がいった。父は漁師の元に育ったから、いつも一攫千金を求めていたのかなあ。2ヶ月後、私は国連に勤めるため、フランスに移り住んだ。

果たして、父は旅が好きだったのだろうか? 
わからない。

その翌年の春、父は亡くなった。61歳だった。

父の遺骨は、その福井の静かな海岸にまいた。
私はその後国連をやめ、まさにジェットコースターのような日々を生きている。ほんの4回だけだけど、父と旅ができてよかったと思う。




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