【アニメ】アイドルマスター シャイニーカラーズ 第1章について【劇場先行上映】
本記事はアニメ『アイドルマスター シャイニーカラーズ』劇場先行上映第1章についてのノートです。各話の筋書きではなく、コンセプトや表現に注目します。既に視聴した人に向けて書きます。
ネタバレを含みます。
また、本記事は記憶に頼って書いています。特に台詞やサブタイトルといった具体性の高いものについては誤った記述である可能性が高いことにご注意ください。
概要
シャニマスがアニメになった。おめでとう!
……ただ、内容の情報のほとんどが伏せられており、先のミリアニの成功もあり、先行きが不安なところだった
ようやく迎えた公開日であったが、案の定SNSでの評判は賛否両論といった印象で、物議を醸している。実際に観に行ったところ、いずれの評判も理解できる内容だった。
独創性が強く、尖った作品になっている。
本記事では、未だ全編が公開されていないことからもとにかく混乱しがちな現状において、解釈の一助となることを目し、各話についてのまとめと感想を書いていきたい。
特に、ゲーム版では制約のある三次元的な映像表現やジェスチャーよりも大きな動作、モブの描写、用いられた物質的モチーフについても触れたい。
各話について
第1話:一人分の空、一枚の羽
第1話では、作品世界と作品での表現を紹介している。
分かりやすいもので言えば、キャラクターデザイン、人物の動作等における個性の存在、ユニットの紹介、天候の描写を通した画面の彩度の振り幅、基調となるリアリティラインなどがある。
第1話では冒頭の作品導入と、櫻木真乃を代表として描かれる少女がアイドルとなる経緯、作品進行のための最低限のシナリオラインの提示、登場人物の紹介を除いては、全ての時間がこのアニメ作品自体の紹介に費やされていた。
サブタイトルなどのフォントがそうであるように、シナリオの作り込みについては非常に簡素であり、演出についても、表現に必要な範囲を越えた派手な演出は志向していないようだ。一般的なアニメ作品の第1話では、いわゆる尺や視聴者の集中力などといった限られたリソースのほとんど傾けられるることさえあるものであるが、本作ではそれらが表現そのものに充てられているらしい。そして、その表現の作り込みと、特に独創性が強い。
例えば、表現手法における写実主義と理想主義の混在を提示していることなどは他アニメ作品に類例を見ない。
ところで、写実主義や理想主義は概ね上記のように定義されている。
アニメ──美術領域における高度の発達と、運動描写の実現を特徴としたこの総合芸術作品群──において、写実主義と理想主義は、それぞれ俗語として「リアル」や「アニメ的」などと呼ばれている。これらはいわゆる「実在性」というものと密接に関係しているが、これについては今後機会があれば触れたい。
櫻木真乃の加入を機に映し出される各ユニットの紹介シーンにおいては、アルストロメリアの大崎甘奈が大崎甜花の寝顔に言及している。
ここでは両者とも顔が画面に向いているのだが、大崎甜花が手前、大崎甘奈は奥にいる。当然、大崎甘奈は大崎甜花の背中を見ているはずである。しかしながら明らかに見えるはずのないにも関わらず「寝顔が相変わらず可愛い」と述べるのである。このときの彼女らの位置関係からは理想主義の手法が覗かれる。
またその直後、引き続く放課後クライマックスガールズのランニング風景では、走った人間の表現として特に猥雑で写実的な「汗に張りつく髪」を省略せずに描写する。
これら各ユニットでの表現は、それぞれ反復、並立累加のレトリックによって、さらにはこれらのシーンを連続させることによって構成の上でも強調することを狙っているようだ。
以上のような大胆な表現の連続を経過し迎える第1話のエンディングは、事務所の屋上、画面下部の強烈な街の光に照らされ、なお満天の星々が瞬く空を見上げるイルミネーションスターズで締めくくられる。
第2話:ウタという炎
第2話では、ユニットアンティーカのみに集中して制作されており、第4話まで連続する各ユニットに焦点を当てていく構成を暗示している。これからの各話では「色」としてユニットとしての個性を強調していることにも注目したい。
いわゆる「アンティーカ回」となる本話では、「暗から明へ」や主題提示とその再現というような、ロマン派寄りの交響曲を意識したような構成が取られている。登場した初期衣装である「『シンフォニック』スチーム」もフィーチャーしているのだろうか。
構成上自由度のある作品前半を中心に、いわゆる「Pラブ警察(※2)」や「Pカッパー(※3)御用達の品々」など、猥雑なものから生まれたもののオマージュが詰め込まれており、いわゆる「お色気回」と呼ばれるものの要素も織り込んでいる。
※2 いわゆる「Pラブ警察」は、桑山千雪があまりに「いい女」だった衝撃から生まれたと思しき定型。主にアイドルたちからプロデューサーへの恋愛感情の有無を、月岡恋鐘の口調で判定する。なおこの一連の過程では、桑山千雪のそれを除き、ほとんどの恋愛感情の存在は「通ってよか!」とおおむね看過される。
──【シャニマス】こがたん監修による令和4年最新版の卑しかランキングはどうなってますか? - シャニマス・シャニソン攻略最新まとめ | GAMEΩ【最強攻略】ゲーマーのためのサイト (gameo.jp)
※3 「Pカッパー」は(ゲーム版イベント「プロデューサーズカップ」参加者への敬称である。彼らのうち特に真剣なプレイヤーたちは、Pカップでの上位入賞を目指しゲームの内外関わらず様々な努力を行う。プロデュースモードである「W.I.N.G.」での効率的なプレーを実現するために処理機能に優れたタブレット端末(通称「板」)を購入する様子や、ライト層には使用機会の乏しいゲーム内スタミナ回復アイテム(通称「赤ソーダ」「緑ソーダ」)などを濫用する様子はその一例である。ちなみに他にも『「アミノバイタル®」ゼリードリンクガッツギア®』(味の素社)がリアルスタミナ回復アイテムとしての重宝されていることや、「じゃがりこ®」(カルビー社)が効率的な栄養食品と見なされていることなど、独自の文化が醸成されているのが観察される。
さて、本編に戻り、構成について注目しよう。
前述の通り、本話では、ロマン派交響曲の作品群における「暗から明へ」の流れを、より現代らしい哲学的な知見に基づき「個別的具体物から全体的一般観念、特に機能への純化へ」と解釈し表現しているように思われる。
実際の話の流れでは、月岡恋鐘の一声からアンティーカはミュージックビデオの撮影に取り組むこととなる。猥雑な様相で物語は進行し、撮影は「高宮克洋」という具体名を持つ監督によって行われていった。彼の教育訓練における承認者としての父権を描写しつつ、終盤では、リーダーである月岡恋鐘によって動機に準じた目的の再確認と共有、そして行為のための号令が行われることとなる。また、外部との交渉を担うプロデューサーや、指導的立場を兼任していた撮影監督からリーダーの地位が移譲されており、ここでは月岡恋鐘のリーダーシップにより、それぞれが「見せたいミュージックビデオの撮影」を目標の中心に機能へと純化されていくのが描かれた。
本話では、シナリオ進行に照応した衣装が象徴的だった。
本話冒頭では、「摩美々がアシンメトリーのソックスを履く」、「三峰唯華が眼鏡を掛ける」、「白瀬咲耶が髪を結わえる」、月岡恋鐘がミュージックビデオの作成についての声を上げ、その裏では、「幽谷霧子がガーゼで膝を覆う」。ここでは個人個人に限られた身支度が描かれている。さらにこれらの装身具は必ずしも彼女らの絶対の象徴ではないことにも含意があるように見える。
また、ミュージックビデオ撮影開始時点では、ゲーム版で個人について描かれる「GRAD編」時期のユニット衣装「ブライクシリーズ」を彷彿とさせる外見や設定を伴っている。これは個別の設定をにじませつつ色調とダークな世界観によって統一性を持たせる衣装だ。
本話のミュージックビデオでは、「ブライクシリーズ」の統一性を毀釈している。また「絶対的リーダーかつセンター」として強調される月岡恋鐘の衣装については、特に設定のコンセプトから全く別物に変更された。(ここには「リーダー」についての考え方が覗かれる。)
そうして現れた、統一性を欠く、月岡恋鐘、田中摩美々、白瀬昨耶、三峰結華、幽谷霧子の個人個人たちは、また初めから「バベルシティ」を舞台とした一つの物語に生きることとなる。そして、物語を締めくくる雷雨の振り出したのちには、セントエルモの火の下に集った彼女らが、今度はアンティーカとして目標を見据えて撮影を決行するのであった。
第3話:未来への憧れ
第3話はアルストロメリア回だった。
この回に関して言えば表現が会話の形式のなかでのやりとりや、モチーフでの示唆に依存している。前者は正確な内容が曖昧なので、本記事では後者について取り上げたい。
第2話でのゲーム版からの引用要素から一転、「三人でアルストロメリア」を素直に喜ぶと足元を掬われる。常住坐臥、危険な一話であった。
ゲーム版のアルストロメリアと同様に、ironicalでlogicalなニュアンスがあり、雰囲気から感じられる印象と書かれている内容の乖離が激しい。
表現としての実現度は高く、特に映像化による空間的情報の拡張と表示できるモチーフの増加から、苦しく複雑な印象を導くための手段が豊富になった。特に、第1話で強調されたカメラアングルによる表現を前提に、ここでは対蹠的な写実描写によっていびつな画面と人物描写を作ることまでしている。
また花のモチーフが随所に散りばめられていたのも目立つ。
いずれも含意が多いが、まずは大崎甘奈のマグカップにプリントされたデザインの「花」である。これには時事的な要素がある。
本図案は、今年度の始まりごろに小さく流行し、服飾デザインなどで散見されたものの一類型である。
ところで、花自体の美点に準じた抽象が行われれば、幾何学パターンとして明確な形式を伴いつつ、その形象によっていずれの花であるかが自明に示される。本邦においてはそうして生まれた優れた図案が数多く存在する。
また、「印象」についてより想像されやすいところでは、いわゆる印象派などがある。絵画一般の例に漏れず、印象派の画家たちもよく花を描いた。
その成立過程に写実主義への対立を含み、多くは目の前の輪郭を光の印象に閑却した画家たちであるが、彼らの描く花は、しかしながら依然として花の名前を持っている。ゴッホの「ひまわり」やモネの「睡蓮の池」などといった、当時の彼らの感動を今に伝える連作群で描かれるのは、やはり今もなお「ひまわり」であり「睡蓮」だ。
本話のマグカップにプリントされたデザインにおいては、花であるという印象が伝わる。しかし一方で花の種類は思い浮かばない。これは気付かれにくいものの特筆するべきデザインだ。このデザインは想定されるべき理念を抹消した「名前のない花」の企みだと言える。
ところで、このデザインは失敗に終わっている。少なくとも私がこれらに「アホの目印」と名付けたからだ。
大崎甘奈は流行を取り入れ、筋の悪いがしかし「お洒落、あるいは可愛い」はずのマグカップを採用している。ここで暗喩されているものは上記の通り豊かである。
言わぬが花であろう、これについての紹介は控えるが、不機嫌な少年に笑顔の花を「咲かせた」赤い花にも、斑の入っているのを忘れてはならないだろう
また、本話は初夏の話である。エンディングに向かうシーンでは、植込みに咲いた花が、夕陽のなかでその香りとともに瑞々しく雨粒を弾いている。(2023/11/3 削除)
プロデューサーははこの写真を背負うアルストロメリアの写真を撮った。三人の笑顔は強い光に照らされて明るいものだった。
この無垢な純白の花弁こそは、激しい光に照らされることでその身を散らすこともできずに醜い姿で枯れていく花であることを、桑山千雪だけは既に知っていたのかもしれない。
最後に映る小花はブライダルベール、花言葉は「幸福」。
楽曲『アルストロメリア』の「幸福論」を引用しており、現在の「幸福」と「未来への憧れ」を踏まえている。
確かに「幸福」の方が第3話から第4話への流れが綺麗だろう。
第4話:本当のヒーロー
第4話では放クラ回である。
第2、3話とは異なり、ユニットの「色」には、あらかじめ幸福な時間がある。そこで「放クラらしさ」というものは必ずしもシナリオの中心に据えられてはいないよう思われる。
簡素な筋書きの第一幕だが、第4話はなおのこと基礎的な構成となっている。奇を衒わずに、簡明な作りで最初から最後まで進行する。
特に注目するとすればヒーローショーだろう。ショーとしてのヒーローショーの一般構成と双方向性の参加を促す定型表現など、体系を感じさせる様子が実現されていた。ヒーローショーについて勉強の時間をよくかけられように見える。
放クラの「色」が見える点があるとすれば、仕事を終え、河川敷で話している風景にあった。あの画面のどれ、というのではなく、空気のように漂っていたものがそうなのだろう。
感想
面白い。
他に名前がないから「アニメ」を名乗っているような雰囲気がある。これまでテレビで放映されてきた「アニメ」というものではないといってもよいかと思う。
個人的にはこのような現代作品に通ずる作風のことを好ましく思わないが、映像制作における3DCGの特性と「実在性」への興味の中でこのような作品にまとまっていったのは面白く感じる。
さすがに難しいかと思うのは、挑戦している表現を視聴者が楽しむ以前に理解できるかというところに集約される。特に、リアリティラインが大きく変動するアルストロメリアのシーン一般は厳しいよう感じる。機序は割愛するとして、今回のように現実と理想を一つところに混在させるのはかなり危険だ。イルミネーションスターズの足元からの光と星空に気付かないまま、背後から寝顔に言及する大崎甘奈に文句を言うのが現在における一般水準のアニメ視聴者だからだ。初見の「違和感のある画面」に対して、「クオリティが低い」あるいは「下手クソ」とキャプションを付けるのが期待するべき普通程度の様子なのだろう。
そのため、否定的な彼らの意見には大いに頷けるところがある。
ただし、特に第3話前後のリアリティラインの変動処理などで言えば、同一作品内に多角的な表現が実現される革新があったし、難しいことそれ自体も黙契特有の面白さを含めて楽しい試みだと思う。さらに、アニメ放映時には各話が時間的に分断されるため、劇場で見るほどの「悪さ」は感じないようにも考える。
またカメラワークや光に関する表現と言った画面の効果は上記の難しい表現部分以外にも作り込まれており、各話のまとめには記述していない一般映像表現についても話し甲斐のある内容だった。
個人的には、つま先や指先に弾かれていく水滴による動作の描写やパフォーマンス終了を待たず落ちる桃色の照明など、ライブシーンの前後すら表現の余地として活かされていて楽しそうに見えた。
音楽面では、フィルムスコアリングを行ったということで、普段のゲーム版や一般的なアニメ作品とは異なる管弦楽曲的な音作りになっていた。これについては僕が嬉しい。実際には作曲も作話も構成も難しいだろうが、より交響曲の構成に寄せたもっと楽劇的な話も見てみたいと思った。
あと何より動作が素晴らしかった。あまりにも言葉を尽くす必要があるので本記事では説明しないが、今作の色々な美点のうち、最も注目したいのはと問われればここだと答えるだろう。
例えば、劇場公開日に行われた舞台挨拶(※4)では、シリーズ総合プロデューサーである高山祐介から「監督が高めの椅子から降りるとき、こういう(つまづくような)動きをするんです。そこがなんか可愛いし、あの細かいこだわりは何だろうって思いました(笑)」と、非常にあざといコメントもあった。癪だが、素晴らしい作り込みだと思う。めっちゃ良かったね。
※4【シャニアニ】アニメ「アイドルマスター シャイニーカラーズ」第1章初日舞台挨拶レポート 公開! | 【公式】アイドルマスター ポータル(アイマス) (idolmaster-official.jp)
最後に、各表現領域でのintroductionの性格が強い第1話は別として、総合が上手くいっているのも良かった。
制作担当のポリゴン・ピクチュアズによる3DCGアニメーションの制作進行がどのように行われているのかは知らないが、内容についてはかなり任されている様子なのとシナリオをシンプルにまとめたのとで、いい感じになっていそうだ。
今後、本格的にストーリーが動き始めたときにどのようになっているのかはまだ分からないが、引き続き期待している。
終わりに
早く次が見たい。第2章の公開日が11月24日(金)なのには笑ったね。明日を11月24日にしろ高山ァ!