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意識と意識と意識

科学が「意識」を解明しようと頑張っている。
今はひとまず「人間の意識」なのかな。

そこで、私は自分の意識というものを考えてみたのです。
が、これがよくわからない。

もちろん、横断歩道の信号を見て「赤だなあ」とか思う意識はある。
ところが、どうやって帰ってきたのかわからないが、とにかく帰宅しているときもある。横断歩道を渡ったはずなのに覚えていない。しかし無事に帰宅できている。
そして、私には私以外の意識が外にあるような気がしています。

私は不思議な体験をしたことがあります。
私には未来を言い当てるつもりなんか全くなかったのに、あたかも私が未来を言い当てたかのようになっていることがありました。
そして、それは何度かあるのです。

思い返してみると、私の感覚では、あれは、私が書いた内容を「実現させてみようぜ」という悪戯にも似た意思による結果です。

つまり、意識には3種類あるのではないかと、私は思うのです。
自励的な主意識、非自励の副意識、そして「」です。
「」の中に何を書けばいいのかまるで分りません。

前述では外と書いておりますが、本当に外なのかも自信がありません。
「何か」です。

私がこの「何か」があるなと思うようになったのは、だいぶ年を喰ってからのこと。つまり後天的なものです。ならば、誰にでも「何か」を「する」(どういう動詞が適切なのかもわからないです)方法があるのではないかと思うものの、思い当たるのは墓参りと神社参拝くらい。非科学的で申し訳ないばかりです。

しかも、私は月に2回、少なくとも月に1回の墓参りを始めてだいたい20年たっています。しかも何もかも綺麗に掃除するので、墓参りに長くて5時間くらいかかります。短いと3時間くらいです。

皆さんは10分くらいですよね。
花を供えて、墓石に水をかけて、線香に火をつけて、手を合わせて終わり。

私のようにやれと言うのは簡単ですが、実際にやる人はいないでしょう。
まあ、私と同じようにやっても「何か」を「する」できるようにならないかもしれないので、そういう意味でお薦めができません。
聞くところによると「墓参りはやったもん勝ち」だそうですが。

なんせサンプル数1ですから。
参考にもなりゃしないってね。


読んでくれてありがとうございます。

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