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【母方ルーツ#15】羽咋編⑥  助っ人現る!


いつもご覧頂きありがとうございます。
羽咋編の6回目です。

彼の地への想像を膨らませながら、Mさんとの交流はブログ内で現在進行形の状態公開されておりました。

そんな時・・・

強力助っ人現る

ここで新たな登場人物が現れます。
Mさんのもとに、メールが入ったというのです。

札幌に住むYさんはドンピシャ「長濱」さん。
Mさん自身も最初は初めて聞く名前だったそうですが、90代のお母様に確認したところ、すぐに関係性を明確にすることができたとのことでした。
MさんとYさんは曽祖父久松を共通とする二従兄弟という関係だそうです。

Yさんは、私たちよりもずっと前から長濱ルーツに関して調査してきたそうで、
様々な情報を共有してくださいます。
なんという頼もしい助っ人を得たことか!!

それまで想像を膨らませながら推測、迷走していたことも、あまりにも呆気なく答え合わせされていきました。

しかし「久松とイヨの関係性を探っていきましょう」という目標は、相変わらずヒントは得られぬまま時が過ぎていたのでした。


鴨葱か!棚ぼたか!


MさんとYさんののやり取りを眺めながら、私の調査は休眠状態となっていたある日、レターパックが届きます。
それはYさんが持つ資料、過去帳集のコピーでした。

過去帳というのは、菩提寺に保管される檀家の先祖代々の名前と戒名、没年などの記録です。
それは現代へも受け継がれるものではありますが、戸籍が作られるより以前の江戸時代には単に先祖供養のための記録ではなく、菩提寺により檀家管理を行うことで「戸籍」のような役割も担っていたのです。

先祖探しをする者は、いくつかのステップを踏みながら調査をすることになります。
まずは戸籍収集による調査。
それにより明治初期から江戸時代後期の記録まで知ることができます。
これは事務的な手続きさえすれば取り寄せられるので誰でも可能なステップです。
そこから、掘り下げて調査するには宗門人別帳や菩提寺の過去帳調査、郷土史などを紐解いていくことになるのですが、私はこれまで戸籍調査と僅かな郷土調査までしか経験がありませんでした。

しかも、過去帳は菩提寺に行けば見せてもらえるなんて簡単なものではありません。
火災などが原因で残っていないこともあるし、あっても個人情報を理由に開示してもらえない場合もあるため、それなりにハードルの高い調査となるのです。

それなのに、どうでしょう。
不思議なご縁で、向こうから飛び込んでくることになったのです。

鴨がネギを背負ってくるなんてレベルではありません。
棚ぼたもいいところです。

それにしても、過去帳は自分の先祖のものしか見ることはできないはずなのに、
なぜYさんの元に過去帳の記録があるのでしょうか。

送られてきたのは過去帳集。「集」なのです。

届いたレターパックはどっしり重く、資料の充実ぶりを想像させました。
表紙には「善住寺祖霊抄」と書かれています。

1984年(昭和59年)発行との記載があり、(実際はその2年後?)
「善住寺」の檀家の過去帳に記載された内容が整理されているというのです。
(おや?妙成寺ではないのかい?)

送っていただいた資料は「はじめに」から、「各家の戒名履歴」「編集後記」まで順に綴られており、原本はA4版、360ページにわたるとの記載がありました。

この資料編纂のきっかけとなったのは、明治期に滝谷集落から北海道移住3世の方々が昭和59年に滝谷へ集団墓参した際に、先祖のルーツを調べようという話が出たことから動き出したプロジェクトだったようです。

御住職、檀家、郷土史家によって善住寺開創以来400年ほどの期間の戒名を家ごとに分類し、滝谷集落だけで60家、他の集落も含め90家の大調査を行い、それは2年にも及ぶ大作業であったそうです。

先祖の屋号がわかった

家ごとにまとめられたというものの、この集落はとにかく長濱が多いのです。
そのため、苗字を名乗らなかった時代から代々使われた「屋号」により「家」を区別し、その屋号ごとに祖霊抄も整理されていました。

そこで判明したのは、
MさんとYさん(久松系)は屋号「万右衛門」であること、
私、イヨ(十助系)は屋号「安兵衛新宅」であること。

ちなみに「安兵衛新宅」は「安兵衛さ」の家から分家したとのこと。
つまり、私のルーツの本家は「安兵衛さ」であるということがわかりました。

これは大大大収穫です!!

屋号万右衛門 1616年 
なんと400年以上前!!!
屋号安兵衛さ 1720年
「さ」には本家という意味があるそう
屋号安兵衛新宅 1825年
十助も重助も混在している


塔頭、善住寺とは

ところで突然登場した善住寺。
祖霊抄の冒頭によると、1610年に妙成寺の善住坊(居住寺)として創建され、開山した日淳上人は加賀百万石の第三代前田利常公の叔父生母寿福院の兄)であるとのことでした。
その系譜から赤い朱塗り門で、前田家の梅鉢の家紋も見られます。
大寺の寺内寺院のことを塔頭(たっちゅう)というそうで、この善住寺も塔頭の一つです。

我々の祖先は皆、妙成寺ではなく塔頭である善住寺の檀家であったことから、このような奇跡の過去帳集に出会うことができたのです。

1610年に寺が開山され、1616年には当時の万右衛門家の一人が亡くなり戒名記録を残すこととなったのでしょう。
それだけ古くから、この地に暮らしていたことが伺えるのです。

1600年より以前からここに土着していたのか、それとも寺の発展とともにここへやってきたのか、それはこれから考察を深めていく必要がありそうです。

それを調査するには、もう現地へ行くしかありません。
いざ羽咋へ!!


本日もここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

次回は羽咋旅日記でお会いしましょう。

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