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#きおくをつなごう

TBSの戦後76年企画「#きおくをつなごう」に賛同して、父方の祖父から聞いた話を書かせて頂きます。

小学生の時おじいちゃん子だった私は、祖父の膝の上に座りテレビを見るのが大好きでした。特に夕方になると相撲を一緒に見て、千代の富士を一緒に応援していました。

ある日、父から「お前、おじいちゃんから戦争の話聞いたことあるか?おじいちゃんは戦争の話はしないんだよ。」と言われ、何日かして父から言われた事を思い出し、祖父に戦争の事を聞いてみました。

30歳を過ぎてるのに赤紙が届いたこと、訓練で馬の扱いが上手かったおかげで上等兵になったこと、釜山から上陸して中国へ出兵したこと、銃弾が貫通した傷痕やかすった痕まで、あっさりと教えてくれました。ここまでのことは親族には話していたそうです。

戦争の事をあっさりと教えてくれた後、少しの間沈黙があり、遠くを見つめながら悲惨な出来事を話してくれました。あの時の祖父の表情は今でも覚えています。

祖父が所属していた部隊が、戦闘後に敵を3名捕らえ捕虜にしたそうです。そして、祖父と他2名が上官に呼び出され銃剣で捕虜を殺す様命じられ、命令通り祖父は捕虜を銃剣で殺したそうです。

銃撃戦で相手を撃ち殺したとしても銃を撃った感触しか残らないし、本当に自分が撃った銃弾で死んだのか定かではいけど、銃剣で刺して殺すという事は人を刺す感触もあるし、確実に自分が殺した事が分かる方法で未だにあの感触が残っていると言っていました。

軍隊というのは、上官の命令は絶対です。特に当時の日本軍は味方であっても命令に反く者は容赦なく殺すか、ボコボコに殴り続けられ、結果それが原因で死んだとしても「軟弱者」だとか「命令に反いたやつが悪い」という扱いを受けたそうです。

もちろん、祖父含め他2名の方も捕虜を殺す事は戦争犯罪であり、いくら戦争とは言えやってはいけない事だというのはわかっていましたが、上官の命令に背けば自分達が殺されていたかもしれないと言っていました。

この話をしてくれた時に祖父の目から涙が流れていました。後にも先にも祖父が泣いている所は見たことはありませんでした。

また、少し黙った後に、いつもの話し声に戻り、こんな話もしてくれました。

祖父が負傷し、野戦病院へ暫く入院していた時に母方の祖父と会っていたそうです。父と母が結婚する時に両家顔合わせで「あれ?」とお互いに思い、色々な話しをする中で「やっぱり」となったそうです。

母からは、母方の祖父は負傷ではなく病気で野戦病院へ入院していて、診てくれていた軍医さんが祖父と同じ軍医さんだったと聞いた事はありましたが、まさか祖父2人が野戦病院で出会い、会話までしていた事には驚きました。

父と母は戦後生まれですので、不思議な縁だなと思います。

祖父は私が小学5年生で亡くなりましたが、祖父が亡くなり何年かしてから母方の祖父に「おじいちゃんと戦争中に野戦病院で会ってたって本当?」と聞いたら「本当はな」と一言答え、その他の事は何も言いませんでした。

なぜ、私にだけ悲惨な戦争体験を話てくれたのか、なぜ、2人の祖父は戦争中に同じ野戦病院で出会い、会話までしていたのに会っていなかったとしたのか、今では聞く事もできませんが、祖父が話てくれたことで戦争について考え、勉強する機会が増えたことは間違いありません。

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