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[批評]二種類の幽霊、二種類の霊媒(メディア)―― 揺動メディアとしての映画論|佐々木友輔

佐々木友輔|SASAKI Yusuke
映像作家・企画者。1985年神戸生まれ。映画制作を中心に、展覧会 企画や執筆など様々な領域を横断して活動している。イメージフォーラム・ フェスティバル2003一般公募部門大賞。主な上映に「夢ばかり、眠りは ない」UPLINK FACTORY、「新景カサネガフチ」イメージフォーラム・ シネマテーク、「アトモスフィア」新宿眼科画廊、「土瀝青 asphalt」 KINEATTIC、主な著作に『floating view “郊外”からうまれるアート』(編著、トポフィル)がある。


映画の「盲域」について書く。日々膨大な数の映画が撮られ、研究や批評が書かれていても、なぜか多くの場合見落とされているか、軽視されているか、無視されている領域について。まだほとんど手つかずのその場所は、限りなく広くて深い。奥に進むためにはきっと長い時間が掛かる。だから本稿では、あなたを盲域の入口まで案内する。道標となるのは「主観ショット」と呼ばれる不穏さを孕んだ撮影技法。この言葉のうちには、まったく異なる思想を背景に持つ二種類の幽霊が住み着いている。まずは、しばしば混同され、「同じもの」として扱われがちなその二つをしっかりと区別することから始めよう。


(1)二種類の幽霊

カメラが物語の登場人物と視座を合わせることで、あたかもその人物が経験している場所、見ている風景を観客が追体験するかのような効果を得ること。ひとまずはそれが主観ショットの企みであると言って良い。たとえば世界で初めて全編を主観ショットで構成した野心作『湖中の女』(1947年)では、観客はロバート・モンゴメリーが演じる私立探偵と視座を合わせることになる。彼と共に死体を発見し、ミステリアスな女と出会い、謎の男に襲われ、やがては公開時のコピーにあるように「あなたとロバート・モンゴメリーが殺人の謎を解き明かす!」のである。

しかしこの試みの結果は、決して成功とは言えないものであった。最大の問題はぎこちないカメラワークだ。登場人物の眼差しを模倣するのであれば当然、撮影者とカメラもまた出演者であり、俳優であることが求められるはずである。ところが終始ギクシャクとした動きで私立探偵の視点を模倣する『湖中の女』のカメラワークは、言わば大根役者であった。その拙い演技は、観客にカメラという装置の介在を強く意識させ、映画世界に没入することを阻み、主観ショットという技法の不自然さ―選択可能な構図が極端に限定されることの不自由さや、観客が自らの意思で見るものを選ぶことができないことによる視点の拘束性―を強調する方向に作用してしまう。

その後、全編主観ショットによる映画の流行こそなかったものの、主観ショットは映画における主要な撮影技法のひとつとして広く普及し、改良が進められていく。中でももっとも大きな技術革新として挙げられるのがステディカムだ。『ウディ・ガスリー/わが心のふるさと』(1976年)で初めて用いられ、『シャイニング』(1980年)で一躍脚光を浴びたこの新技術は、とりわけ主観ショットにとって欠かせない装置として重宝された。撮影者の身体とカメラのあいだにつながれたスプリングアームが振動を吸収することで、段差や起伏のある所でもブレのない移動撮影を可能にするステディカムは、『湖中の女』がなし得なかった滑らかな主観ショットを実現したのだ。

ところが、自由自在な移動撮影によってカメラワークのぎこちなさを取り除き、構図選択の不自由さや視点の拘束性をも緩和してみせたはずのステディカムによる主観ショットでも、観客の感じる不自然さや違和感は消えなかった。しかもそれは、これまでとは異なる種類の不自然さであり違和感であった。このことは、ステディカムが効果的に用いられた例としてすぐさま思い浮かぶのが、『ハロウィン』(1978年)や『エンター・ザ・ボイド』(2009年)のような常軌を逸した殺人鬼や幽霊に視座を合わせた主観ショット、あるいは『シャイニング』や『エレファント』(2003年)のような客観ショットであるはずなのに何者かの主観的な眼差しを強く感じさせる不穏な映像であることからも明らかであろう。

では、なぜステディカムが記録する映像は、まるでこの世のものではないような非人間的で奇妙な眼差しの印象を観る者に与えるのか。それは、その映像に「足」がないからである。

ここで言う「足」とは、カメラを持つ身体が地上に立つことを支えるものである。ステディカムがカメラワークのぎこちなさや映像の揺動を取り去ったとき、カメラを持つ撮影者と大地との接点たる「足」も同時にどこかへ消えてしまった。両足を上げ下げして揺れ歩く撮影者の「足」を消去した映像は、何にも支えられず、眼差しだけの存在となって宙に浮かぶ。このような身体不在の浮遊感はもちろん、ステディカムを用いた映像すべてに大なり小なり認められるものであるが、登場人物の身体が背後にあることを装っているはずの主観ショットでは、その印象は一層強調される。何者かの見ている主観的風景であるにも関わらず、その眼差しを支える身体を、何よりも「足」を欠いて漂う不穏な映像。それをひとまず「浮遊霊の映像」と呼んでみることにしよう。ここでステディカムは、映画というメディアに浮遊霊を呼び込み住まわせるための装置として機能しているのである。

しかし私たちは、幽霊と呼ばれるものがすべて浮遊霊ではないと知っているのと同じように、すべての主観ショットがみな「足」を失ったわけではないことを知っている。

たとえばいま、主観ショットをもっとも効果的かつあからさまに用いているジャンルとして挙げられるのはフェイクドキュメンタリーであろう。『ブレアウィッチ・プロジェクト』(1999年)や『REC/レック』(2007年)といった作品は、『湖中の女』のように人間の視覚を直接模倣することはしないが、代わりにある人物が8mmフィルムカメラのファインダーやホームビデオの液晶モニタを通して経験した場所や風景を観客が追体験することを目指している。また、それらの作品が参照元とするドキュメンタリーやホームムービー、個人映画といったもの自体がそもそも主観ショット的である。とりわけジョナス・メカスやマヤ・デレン、原一男や原將人といった作家たちは、撮影者であるそのひと自身が身を置いた状況や状態が作品の主題や主張と直結した映画制作を行うことに特徴がある。彼らは自覚的かつ意図的に、極めて主観的な撮影のスタイルを選択しているのである。

ここに挙げた作品や作家に共通するのは、三脚にもステディカムにも頼ることのない、手持ちカメラによる手ぶれ映像である。彼らは滑らかなカメラワークを自明のものとしていない。カメラの介在を隠蔽することなく、むしろ積極的に開示してみせる。揺れることを厭わないどころか、ときには自ら揺動をつくりだしたり、揺動に身を委ねてみることもあるだろう。

もちろん、手持ちカメラで撮影したからと言って、それで撮影者の身体がそのまま映像に埋め込まれるわけではない。撮影が行われた時点で、カメラの後ろにあったはずの肉体は失われ、主観ショットは否応無く幽霊的な不気味さを帯び始めるだろう。けれどもその映像には、ある身体が周囲の環境と関わり合っていた痕跡が確かに残されている。地面を踏みしめた身体が、強風に吹かれ身構えた身体が、機動隊に圧されよろめいた身体が、恐怖に身を震わせた身体が、そこには「揺動」として刻み付けられているのだ。これらの映画においては、揺動こそが「足」の存在を保証する。そしてそれはまた、地面や強風や機動隊や恐怖が撮影者とカメラを揺り動かしたことの記録でもある。映像化されて肉体を失っても自らの死を受け入れられず、生前に関わり合った土地と共に揺動として映画に住み着く幽霊。それをここでは、浮遊霊の映像に対して「地縛霊の映像」と呼ぶことにしよう。


(2)二種類の霊媒(メディア)

浮遊霊の映像と地縛霊の映像。両者の違いは、単なる撮影技法の違いであるに留まらない。それぞれの映像の背景にある思想の違いを読み取る必要がある。

私たちが映画について語るための言葉はみな、暗黙裡に三脚に固定されたカメラを基本形とみなしている。このことは、パンやティルトといった基本的なカメラワークのほとんどが、実はカメラではなく三脚の機構に基づいた運動の分類であることからも窺えるだろう。はじめに固定されたカメラありき。そこでは移動撮影も、三脚の上に設置され、水平が保たれ、静止した状態のカメラをいかに滑らかに動かすかという思考のもとに実践される。このようなかたちで語られる映画やつくられる映画のことを、私は〈固定されたカメラ〉の映画と呼んでいる。

浮遊霊の映像もまた〈固定されたカメラ〉の映画に属する。そして〈固定されたカメラ〉の映画は浮遊霊の映像を住まわせたがる。確かにハンディカムによる自在な移動撮影は、三脚の機構に基づいたカメラワークの分類をなし崩しにしたけれども、揺れやブレをノイズとして排除すべきだとする思想は、あくまでそれが〈固定されたカメラ〉の延長線上にある技術であることを示している。言い換えればステディカムは、依って立つべき地面がなくとも―三脚を用いずとも―〈固定されたカメラ〉の映画であることを可能にするための装置なのだ。そして三脚は、その名に反して映像の「足」とはなり得ず、むしろ
カメラが水平に固定されることを遵守することによって、地面の起伏や感触を消去して、映像から「足」を失わせる装置なのである。

これに対して地縛霊の映像は、手持ちカメラによる手ぶれ映像なのだから当然、三脚の機構には依拠していない。そのカメラワークは、胴の回転や腕の可動域など撮影者の身体の構造に基づいた動きを見せるのである。さらに、地縛霊の映像にとっては、カメラが固定されていることは前提でも何でもなく、むしろ例外的な状態であるとさえ言えるだろう。はじめに揺れ動くカメラありき。そこには、世界は決して静止することなく、この地面は常に既に揺れ動き続けているのだという確信から出発する思想がある。地縛霊の映像は〈揺れ動くカメラ〉の映画に住まうのだ。

そして、ここに映画の「盲域」がある。私たちはまだ〈揺れ動くカメラ〉の映画を語るために必要な言葉を持っていない。現在の映画を巡る言説において支配的である〈固定されたカメラ〉の映画という見方では、揺動を揺れているか揺れていないかの二項対立としてしか扱い得ないからだ。そこでは、手持ちカメラによる手ぶれ映像は単なるノイズとして処理されるか、あるいは「臨場感」や「リアリティ」を喚起させるお手軽で軽薄なテクニック(安易な手ぶれ映像!)として利用されるのみである。私たちはこれまで、揺動を映画にとって本質的な要素であるとは考えてこなかったのだ。

私は、こうした状況が映画の持つ可能性をひどく狭めているという問題意識から、手持ちカメラによる手ぶれ映像を用いた映画を「視覚メディア」としてではなく「揺動メディア」として読み解くことを提案した(『映画による場所論―〈郊外的環境〉を捉えるために』東京芸術大学大学院博士課程学位論文、2013年)。揺動をノイズや逸脱ではなく前提条件として捉えること。その上で、〈揺れ動くカメラ〉によって撮られる映像が〈固定されたカメラ〉による映像とどのような点で異なっているかを検討し、さらに詳細な分析を行うための道具立てとして、手ぶれ映像の揺動を便宜的に六つの運動と三つの画面状態とに分類する作業を行った[list.01]。住み着いている幽霊の種類が異なるのであれば、それを受け入れる霊媒=メディアの種類もまた異なっていて然るべきなのだ。

ナガレ カメラを持つ腕の運動や、徒歩、交通メディアによる移動によって、映像が上下左右前後に「流れ」ていく運動。
ズレ  カメラにある方向から何らかの力が加わって、映像が撮影者の想定していた構図から「ずれ」る運動。その運動は基本的に直線的で単発的である。
ユレ  撮影者とカメラに何らかの衝撃や強い振動が伝わって、映像が「揺れ」る運動。
フルエ 撮影者とカメラに何らかの振動が伝わって、映像が「震え」る運動。ユレと比較して揺れ幅が小さく、継続的な運動である。
安定  カメラを手に持った状態で、なるべく揺動を起こさないように身体を「安定」させること。揺動を完全に消去できるわけではなく、微細なユレやフルエなどが必ず含まれる。
固定  カメラを三脚に設置するなどして「固定」し、揺動を消去する非・運動。
ブレ  揺動に伴って映像が「ぶれ」た状態。カメラの種類や記録媒体に応じて、ブレの質や発生条件は変化する。
ボケ  ピントが合わずに映像が「ぼけ」た状態。
アレ  映像の一部もしくは全体が「荒れ」たり、乱れて表示された状態。

list.01 手ぶれ映像における六つの運動と三つの画面状態


(3)揺動分析

それでは具体的に、揺動メディアとして映画を読み解いてみよう。取り上げるのは、先ほども挙げたフェイクドキュメンタリーの傑作『ブレアウィッチ・プロジェクト』である。この映画は、低予算ながらインターネットやテレビなどを利用した巧みな広報戦略によって大ヒットを記録した一方で、公開当初から『スナッフ』(1976年)や『食人族』(1980年)などとの類似が指摘され、表現としては何ら新しさがないという批判や揶揄も少なくなかった。けれども、『ブレアウィッチ』をそれらの作品群と同一視してしまうことこそがまさに、〈固定されたカメラ〉を前提とする映画論の限界を示しているのだ。揺動メディアとして分析を行えば、『ブレアウィッチ』のまったく別の姿が見えてくる。

大学の映画学科に通う学生のヘザーとジョシュアとマイケルが、魔女伝説の伝わる森へドキュメンタリーを撮りに行く。三人は森で消息を断ち、その後彼らが撮影したフィルムだけが発見される。その映像を編集したのがこの『ブレアウィッチ』という映画である(という設定になっている)。しかしそこに記録されているのは一見したところ、他の森と比べてこれと言った特徴があるとも思われない「ただの森」である。風景論的に言い換えるならば、三人の学生はこれまで「見るもの」として扱われていなかった「ただの森」を、映画を撮る行為を通じて対象化(風景化)すべく、撮影に向かったのだ。従って彼らは、基本的に三脚を立てる(固定)ことをせず、手持ちカメラで対象を捉えようとする(安定)。撮るべき対象を逃さず記録するためには、いつでも瞬時に対象にカメラを向ける必要があるからだ。

ところがその森には、三人の期待とは裏腹に、驚くほどに「見るもの」がない。対象化して撮るべきものがない。恐ろしい幽霊や殺人鬼はおろか、特異な風景や伝説の謎を解く手がかりすらもほとんど見つけることができないのである。

はじめのうちはまだ映像は安定している。釣りをする地元住民、小川のせせらぎ、ネズミの死骸……森へ入ったばかりの三人にとっては何もかもが新鮮で、撮ることの対象に成り得るのだ。しかし最初の好奇心が薄れ、道に迷い、地図を失ったあたりから、彼らは何を撮れば良いのか分からなくなる。それは脚本や演出に帰せられる問題ではない。起伏が少なく平坦で、目印となるものが無く、木々に阻まれて遠方を見通せず、四方八方どこを見ても同じような景色が広がるブレアウィッチの森そのものが、迷い込んだ者の方向感覚を狂わせ、対象化を拒む性質を持っているのだ。一定の方向・位置に目を留める(安定させる)ことができないカメラは、ただただ撮るべきものを探し求めてナガレ続ける。

どれだけおそろしい幽霊や怪物であっても、ひとたび対象化してしまえば安心感がうまれる。対象化とは、見るものと見られるものとのあいだの距離を明らかにする行為だからだ。けれどもブレアウィッチの森は、撮影者に、カメラに、観客である私たちとのあいだにべったりと貼り付いて、引き離すことができない。何も起こらないこと。何も対象化できないこと。これこそが『ブレアウィッチ』の恐怖の源泉である。食人や殺人という「決定的瞬間」を目撃することを売りにした『スナッフ』や『食人族』とは、この点が決定的に異なっている。

とは言え『ブレアウィッチ』でも、最後までまったく何も起こらないわけではない。彼らは撮影を続ける中で、魔女伝説にも記述のある岩石や朽ちかけた廃墟、何者かが積み上げた小石や小枝、血の付着した小袋といったものを発見する。いずれもホラー映画としてはささやかすぎる仕掛けだが、撮るべきものを渇望する三人にとってはこうした他愛のないものがとてつもなく貴重である。彼らは逃げない。一見すると恐怖に怯えているようでいて、実は恐怖を対象化できるのではないかという期待を抱き、積極的にカメラを向けようとするのだ。

だが結局、それらの仕掛けは恐怖を解消してくれるほどの対象には成り得ないし、魔女伝説の謎や森から生還するための手がかりを与えてもくれない。時間が経つに連れて増していく焦燥感を表すように、カメラの扱いは乱雑になり、歩行の際のユレは大きくなり、交じり込むフルエズレも増えていく。やがては静止した対象を真正面から撮るだけのことすら困難になり、構図がズレて対象はフレームから外れてしまう。ズレた画面に映り込んだ緑の葉が揺れるまぬけなショットは、恐怖のシーンにはあまりにも不釣り合いで、それが一層森の不穏さを引き立てている。ズレは、手ぶれ映像の中でもとりわけノイズとして排除されがちな揺動であるが、ここではそれが見事に恐怖の描写に活かされているのである。

怯える三人が終始頼みの綱とするのが、自分自身と二人の同行者である。同質的な景色が広がる森の中で、人間だけが例外的に「森ではないもの」として存在する。彼らはお互いを撮り合うことで安定を取り戻すことができるのだ。けれども七日目の朝、ジョシュアが忽然と姿を消す。同行した人間さえも森と同化してしまうなら、最後に残るのは自らの身体だけしかない。しかし終盤、ヘザーが自身にカメラを向けて懺悔するあの有名なショットがおそらく固定カメラで撮られていることは、この上なく不吉である。〈固定されたカメラ〉にとって揺動が逸脱であるのと同様に、〈揺れ動くカメラ〉にとっての固定もまた異常事態なのだ。揺動のない映像は間違いなく死を―そして映画の終わりを―暗示している。カメラの代わりにフルエているヘザーの顔だけがまだ彼女が生きていることの証であり、自らを取り込もうとする魔女の森への最後の抵抗なのだ。

このように『ブレアウィッチ』は、森を「見るもの」として一方的に対象化しようとする三人の撮影者と、対象化を拒み、彼らを自らの中に取り込もうとするブレアウィッチの森とのせめぎ合いを、揺動によって伝えるサスペンスである。撮影者の意図的なナガレや自発的な運動を反映したユレが中心となる前半の揺動から、彼らの焦りや恐怖を反映したフルエズレといった、森によって揺らされた結果としての揺動が増大していく後半に掛けての鮮やかな変化。先ほど私は主観ショットの撮影者も俳優としてその演技を見られるべきだと述べたが、ここでは三人の撮影者のみならず、ブレアウィッチの森もまた演技をしていると言うべきだろう。揺動を通じて積極的に映画制作に関わってくる、主演俳優としての森。

人間と森との絡み合いから生じる揺動は、手ぶれ映像を撮影者の主観性や私性とばかり結びつけてきたこれまでの言説に疑問を投げかける。あらためて風景論的に考えるならば、風景とは対象化によって主体と客体とのあいだの距離を明らかにすることによって産出されるものであり、その意味で、撮るものと撮られるものとを切り分けるカメラは風景を産出するための装置である。しかし揺動に距離はない。映画における揺動は、カメラを支える「足」と土地との接地面から生じるのであり、撮影者とカメラが揺れた記録であると同時に土地に揺らされたことの記録である。土地に憑くと同時に土地に憑かれ、主客未然の、両者が渾然一体となった一体的関係を結ぶからこそ、それは地縛霊と呼ばれるのだ。「風景」という概念を乗り越え、実践的に生きられた空間としての「場所」そのものであるような映画――『ブレアウィッチ』には、そのように思わせる瞬間が確かにある。

……このように書くと、〈揺れ動くカメラ〉をあまりに過信していると思われるだろうか。

もちろん私はここで、映画における揺動が必ず「真実」や「現実」を映し出すなどとは思っていない。揺動の分析が可能であるならば、揺動を偽造することもまた可能であるからだ。その意味では〈固定されたカメラ〉の映画も〈揺れ動くカメラ〉の映画も同程度に虚構であり、同程度に――ただし別のかたちで――現実の粒子が含まれている。けれども私がひとつだけ確信しているのは、いつだって世界は映画を揺らしたがっているということだ。カメラを揺らす起伏や段差、走行する大型トラックがアスファルトに伝える振動、地震や強風は、出演者としての土地が見せる演技である。それらをノイズとして排除し、人間が演技するための「舞台」や「背景」、美的に観賞するものとして対象化された「風景」としてのみ土地を利用していて良いのだろうか。人間だけが映画の主演を独占する必然性はどこにもないはずだ。人間と土地とが協働し、共に揺れ合い揺らし合うことでドラマを、ドキュメンタリーを、映画をつくりだすこと。それが揺動が持つ可能性のひとつである。

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