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[投稿|レビュー]「ジョルジョ・モランディ―終わりなき変奏」(東京ステーションギャラリー)|菅原伸也

ほとんど重大な出来事が起こらなかった人生を神秘化する形や、もしくはその作品の「静謐さ」や「精神性」を詩的に礼賛する形で、モランディの絵画群はいまだに語られることが多い。だが、東京ステーションギャラリーで開催されていた「ジョルジョ・モランディ―終わりなき変奏」展は、クロノロジカルにモランディの作品の変遷と人生を追うという、回顧展によくある形式を取らず、彼の絵画におけるシリーズとヴァリエーションというテーマに焦点を当てることによって、あくまでも絵画の画面内部において生じている変化そして変化のなさへと視線を向けるよう観客をいざなう展示となっていた。我々もまたモランディの絵画の内部に留まってそこで起こっていることに注目してみることにしよう。

例えば、ひとつの思考実験として、モランディの典型的な静物画から静物を取り去ってみたら果たしてそれがどう見えるか考えてみることとしよう。彼の多くの静物画では、ただフラットに塗られた二つの大きな色面(それら静物の背景であった)がそこには残されるだろう。すなわち、背景において遠近法的な技法は全く使用されておらず、そこにはいかなる三次元的な空間の暗示も存在していないのである。静物が置かれる以前に絵画面の向こう側にボックス型の三次元空間が先在していると想定することはできないのだ。静物なき背景はあくまでも空間が発生する前の潜在的な場のようなものとしてある。

では、いかにしてモランディの絵画において空間が発生するのか? 言うまでもなくそれはそこに様々な種類の静物が配置されることによってである。例えば、壷が置かれ、その前もしくは後にそれと重なり合うように瓶を配し、それぞれに影を付けることによってそれら二つの物体の間に前後関係が生じ間の空間が誕生して、そこに三次元的空間が発生するのである。そして静物が置かれることによって二つの大きな色面でしかなかったものが、上の色面は壁に、下の色面はテーブル(の天板)になるのである。

《静物》(出品番号17番)、1949年 モランディ美術館(ボローニャ)蔵

《静物》(出品番号73番)、1960年 モランディ美術館(ボローニャ)蔵

だが、モランディの絵画は三次元的空間の誕生を印づけるものに留まることはない。例として、本展の出品作品のひとつ(出品番号17番、1949年)を検討してみよう。この静物画を見たとき、おそらく観者の眼に最初に飛び込んでくるのは、画面向かって左から二番目にある赤い壷であろう。だが、三次元空間の観点から言えば、一番左にある黒い静物よりも、そして左から三番目にある薄茶色の小さい静物よりもそれはテーブル上において奥に存在しているのである。すなわち、それぞれの静物はテーブル上のどこにあるかに関わらず同じ強度で描かれているため、三次元的空間での配置を超越して別の種類の空間を観者にとって形作り始めるのである。さらに他の出品作も見てみることにしよう。この作品(出品番号73番、1960年)では、三次元空間では手前に置かれているネズミ色の箱形の物体が、それよりも奥にあるはずの、ほぼ同じネズミ色の水差しと色彩の類似性によって関係を結び、隣にある白い円柱上の物体とも形態の類似性によって呼応し合う。さらにそのネズミ色の箱は、その上面が、おそらくその背後に配置されている赤茶色の物体の上面との間で、その境界線がもはや消失してひとつの色面となり、三次元空間での前後関係を超えて融合してしまっている。

《静物》(出品番号69番)、1959年 モランディ美術館(ボローニャ)蔵

《静物》(出品番号20番)、1947年 モランディ美術館(ボローニャ)蔵

いま境界線が消えて融合してしまう例を見たが、逆に静物の輪郭線こそがテーブル上の奥行を超えて静物同士を結び付ける役割を果たしている作品もある。例えば、出品番号10番の静物画(1950年)。画面向かって左側には三つ、もしくは四つの静物が重なり合って縦長の長方形にほぼひとつの塊をなしている。その塊の左側の輪郭線は一本の垂直な線となっているのだが、実際には三つの静物の輪郭線が奥行の違いに関わらず繋がり合って画面上では一本の線と見えるものになっているのである。したがって、そこでは、線の次元において一本の線として見るならば、三次元空間における三つの静物の位置の差異は超越されていて、オルタナティブな空間が絵画的に発生しているのだ。モランディにおいて油彩だけでなく水彩とデッサンもまた重要な地位を占めているが、両者はそれぞれ、これまで述べてきた、色彩の次元における呼応、そして線の次元における物体同士の接続を探求したものと考えることができるだろう。さらに、実際の瓶や壷などにモランディが埃や絵具を付着させたという有名なエピソードもまた、物理的な三次元空間とは異なる絵画的次元を実際の三次元空間において発生させるための行為と理解することができる。(したがって、モランディによる「埃の培養」をデュシャン的にエントロピーや時間性に単純に結び付けるのは間違いであり、もし仮にモランディの絵画においてエントロピーを言うことができるとするならば、むしろそれは三次元空間を崩壊させるこの絵画的次元のことであるはずだ。)

したがって、我々がモランディの静物画を見るとき、そこで演じられているのは、潜在的な場における三次元的空間の誕生であり、その一方でそうした三次元的空間が絵画的次元において乗り越えられ崩壊し新たな空間を生じさせる有様である。その二つの空間構成がひとつの画面内において時間的に交互に展開され絵画面が沸き立ちうねるのを我々は目撃することになるのである。「孤高の画家」というイメージを脱神話化するためであろうか、モランディの作品はその同時代の作品や作家との関係性で語られることも近年多い。そうした言説のひとつに、モランディの絵画に「アンフォルメルの先駆」を見るものがある。だが、単なる形式的な類似をもってその共通性を語るのはあまり生産的ではないし恣意的なものにとどまるであろう。もし仮にモランディの絵画に「不定形(アンフォルメル)」を見出すことができるとするならば、それは筆致の激しさといった表層的要素ではなく、むしろ二つの空間構成の間、両者の往還・揺れ動きにこそ存在しているのではないだろうか?



菅原伸也|SUGAWARA Shinya

1974年生まれ。美術批評・理論。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論修士課程修了。主な論文に「百瀬文論/分裂する空間」、「高橋大輔論/絵画と絵画でないもの」(ともに「北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI―交錯する現在―」(展覧会カタログ)。最近の論文に「クロニクル、クロニクル!」展レビュー( http://www.chronicle-chronicle.jp/news/721)がある。現在、美術系サイトArt iTの「質問する」という企画においてアーティストの田中功起氏との往復書簡が進行中。 http://www.art-it.asia/u/admin_columns/etJGv67orU2A4OqHELh1/

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