[論考]転形期の思考|小林哲也

生の構築は目下のところ、確信の力ではなく、もっぱら事実の力にかかっている。それも、いまだどこでも確信の基盤になったことなどないような事実の力に。こうした状況において、真に文学的な活動は、文学的枠組みのなかでの進行など要求することはできない。………社会的な生活の巨大機構にとって、意見というものは、機械にとっての油のようなものだ。タービンの前には立つものではない。機械に注ぐのは機械油。隠れたリベットや継ぎ目へ吹きかけるのはそのうち少しで十分。人はこの目立たない部分について知らねばならぬ。――ヴァルター・ベンヤミン『一方通行路』


はじめに


現在、日本も世界も時代の変わり目にあるらしい。「変化」「転換」「脱」といった言葉が、マスメディア上に毎日のように散見する。何かを変えなければならない、何か変わらなければ私たちの今の暮らしはなくなってしまうかもしれず、「持続可能」な方向へと向わないと恐ろしいことになるかもしれない――そんな気分がなんとなく蔓延している。だが、何をどう脱するのか、何を「持続」させ、何を「変える」のか、そのためにはどうするのか、「気分」に見合うような大きなヴィジョンはなかなか描き出されない。もしかしたら人が必要としているのは実のところ「気分」の「転換」だけであって、「気分」が変われば現実の「変化」など求めないのかもしれない。旧態然と「安心」を訴える声も相変わらず聞こえてくる。実際そんなに悪くはないのだ、と。こうした中途半端な意見の相克に振り回されつつ、人は自分だけは騙されないぞ、と強がってみせるが、どうにもグラグラしてしまう。そしてまた気分は変わる。

「気分」の問題とは別に、現在、われわれは転換期に立っている。個人の生や社会、世界が大きく形を変えていくような転形期に立っている。「気分」を転換しようがしまいが、構造は変動し出している。「気分」はこの変動を感じて、動揺しているのだ。この動揺がしかしどう転ぶのか、それは、構造の大きな変動を、そして或る構造が変わろうが変わらない条件を、いかに見据えられるかにかかっている。動くものと動かないもの――これは部分部分を見ていてはわからないし、おおざっぱな気分に流されれば見落とすこと確実である。いわば動体視力をともなうような思考であってはじめて、何が動き、何が変わらずに重要なのかを感ずることができるだろう。

人は、今起こっていることには敏感に反応するが、少し前の過去についてはすっかり忘れている。為替相場の微妙な変動を見て一喜一憂しつつ、長期的な趨勢を分析しない人が見るのは「今」だけである。近々の事件や報道についてのネット空間での荒らしや「祭り」に明け暮れ、一段落すれば次の事件をきっかけに「祭り」に突入するのを繰り返すときに存在するのは「今」の気分だけである。「今を生きる」健忘症に対しては敢えて逆らって、少し前の過去を振り返らねばならない。もちろん皆が「今」を見ているわけではない。昔も今も何も変わりやしないという悟りじみた言葉を吐く人びとも存在する。彼らに対しては、起こりうることの可能性の条件の変化をつきつけなければならない。信念や確信はそれだけで通用するものではない。そして、新たな変化に魅了されきってしまう人びと。彼らに対しては、表面的には時代が変化するように見えるにもかかわらず変わらないものを突きつけないといけない。

今の気分も、昔も今も変わらない真理も、あるいは未来の展望のどれもが、それぞれの正しさをそれなりに持ち合わせてはいる。それゆえ、どれか1 つに特権を与えることではなく、それらを相争わせる中で見えてくるもの、感じられるもの、これに注意を払うことが必要である。以下では、少し前の過去を振り返り、現在との状況の変化を見てみよう。それにもかかわらず、依然としてわれわれを規定しているものが何なのかを見据えよう。そして、そのような中で、現実の何が変化しうるのか、その変化にいかに関わりうるのか、考えてみたい。



1 20 世紀末の「物語」


「歴史の終り」


前世紀の終り頃には、様々なものの「終り」が語られた。例えばフランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールは『ポスト・モダンの条件』(1979 年)の中で、社会主義やマルクス主義などに代表される「大きな物語」が普遍的な正しさを担保する時代が終わっていると指摘し、ソ連や東欧諸国の解体前後にはアメリカの政治学者フランシス・フクヤマが「歴史の終り」という仮説を提示した。フクヤマが言ったのは、社会主義などのイデオロギーが消えた後、世界には市場経済と民主主義という理念が残っているのみで、もはや新たな理念が歴史に現れることはないということであった。

ともにイデオロギー(マルクス主義)の終焉を語る、リオタールとフクヤマは、一見同じことを言っているように見える。だが実際のところ向いている方向はかなり違う。リオタールは、マルクス主義のみならず「人類の解放」や「国民の繁栄」といった「大きな物語」一般が凋落しつつあると見ていた。それに対し、フクヤマは、逆にリベラルな民主主義に向かっての進歩という「大きな物語」の正当性を高らかに宣言したのだった。「自由」の実現に向かって駆動されてきた「歴史」は、イデオロギー対立の終焉とともに終局=目的に至った、とフクヤマは考えた。

今日では、現状よりはるかにすばらしい世界など想像しがたいし、本質的に民主主義的でも資本主義的でもない未来を思い浮かべるのは困難だ。(フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』)

これがフクヤマのテーゼである。いかにも凡庸ではある。しかし、現在われわれはこれに対するアンチテーゼを、確信をもって打立てることができるだろうか?


「終りなき日常」


「批判的知識人」の多くは、フクヤマ的楽観を当時から批判していた[note.01]。たしかに彼らが言うようにフクヤマの考えは冷戦後のアメリカ発のイデオロギーであった。だが、単にアメリカのイデオロギーであるのみならず、もう少し大きな規模まで浸透していったことは、一昔前の日本で「自由」と「民主主義」が、なんだかよくわからないままに無批判に錦の御旗にされていたことを思えば否定できない。自由と民主主義が本当に「理念的」かどうかはおくとしても、資本主義と民主主義をうまく調整して現実のプロセスをすすめていく他ないのではないかという漠然とした見方は、現在でも一般的である。

[note.01]例えば次のものを参照。浅田彰『「歴史の終り」と世紀末の世界』(小学館 1994 年)。

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