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逆再生する瞬間の福音 スペースノットブランク「セイ」をみた

「スペースノットブランク」は、二人組の舞台作家である小野彩加と中澤陽のコレクティブである。既成概念に捉われず、新しい仕組みを研究開発しながら舞台芸術の在り方と価値を探究している。環境や関係により生じるコミュニケーションを創作の根源とし、作品ごとに異なるアーティストとのコラボレーションを積極的に行なっている。「セイ」は、原作をゆうめい主宰である池田亮が担当する「メグハギサーガ」3部作の三作目。私自身は、前作2作を見ていないため、シリーズ全体のつながりを知らない。断片的な理解であることを前提として置いたうえで、「セイ」を7月2日に目撃して、私自身感じていたことをふりかえりここに残してみる。

神奈川青少年センターのスタジオに踏み入れるとまず目に入るのは真ん中に置かれたステージ。奥にはドラムセット、ステージの上にはマイクがおいてある。観客に話しかける男性。取り囲むような2画面の大きなモニター。ライブ会場をイメージしてもらえば大体間違いない。

くばられるパンフレットには、役所の申請書の様式などになぞらえた「一般再出生AI事業許可申請書」の文字。どうやらなにかのAIの事業の許可をもらったらしい。ここで、頭の中に「再出生AI」とはなに?と疑問が浮かぶ。再出力ではなく「再出生」。考えている間に、観客に「朝ご飯何食べてきました?」と聞いていた男性がギターを抱えて歌いだし、演劇、いや、ライブがはじまる。

叫ぶような男性の歌とアコギの音を聞きながら、歌は生きているその瞬間を出力したものなのだなとふと思う。演者が音楽を演奏し、観客が聞く場を「ライブ」と呼ぶのは、まさにそうで、歌は生きているその瞬間なのだ。その人が生きている熱量やエネルギーみたいなものが、喉という装置を通して声として出力されて誰かに届く。「セイ」のうちのひとつの「生」をここにみつける。

「みゃみゃみゃみゃみゃみゃみゃみゃみゃーん」
「みゃみゃみゃみゃみゃみゃみゃみゃみゃーん」

男性の歌う歌詞は背後のモニターに映し出される。

歌が生きている瞬間を身体を通して出力したものだとしたら、モニターに写される歌詞は「痕跡」、つまり、過去になるんだろう。今この瞬間だって、私も私の頭の中で考えたことを指を動かしてキーボードで打ち、言葉として出力している。私の打ち込んだ言葉は、頭の中から出力されて、言葉として画面に残った瞬間に過去になっていく。

舞台に戻ろう。男性の歌から場面は変わっていく。ほかの俳優がまざってくる。語りも入っていく。休憩もはさみながら、言葉が語られ続ける。その瞬間の生が、体を通して出力され続ける。モニターは、その瞬間の過去の痕跡を文字として出力し、写し続けていく。瞬間が出力されて、過去になる。

ふと、モニターの言葉のずれに気づく。予測変換がおかしい。言葉が正しく残されていかない。ちゃんと言葉が受け取られない。業を煮やした俳優の語りの中に、モニターに映し出される変換への文句が混ざってくる。

「違うんだよ、そうじゃねえよ」「ちゃんと受け取ってくれよ」
(ちょっとセリフあやふや)

音声を書き起こすときにAIを使うことがある。だいたい精度は7割程度。現在のAIの能力では、すべての言葉は正しく受け取られない。正しく過去として残されない。生きた瞬間は、ちゃんと残らない。AIによって、ずらされて、ほんの少し取り違えられて、残っていく。

だけど希望もある。終盤の俳優の言葉だ。

「音声録音した「セイ」を逆再生するとイエスに聞こえる」

そして、終盤、すべてのセリフが、高速で逆再生されて、モニターに映し出された。抒情的な歌をバックに、終わりから最初に向かって、逆再生される言葉。

瞬間は録音してはじめて逆再生できる。「セイ」を逆再生して、はじめてそこに私たちは「イエス」を見つけられる。私の生きているこの瞬間は、出力され、逆再生するなかに、イエスを見出すことができる。

「再出生AI」の再出生という言葉がもう一度頭に浮かぶ。この瞬間が記録されて、逆再生されるなかで、もしかしたら私は私の瞬間をもう一度生きなおすことができるのかもしれない。私がキーボードで打った文字が、いまこれを読むあなたに届いているように。生きている瞬間は、装置を通して再出力(再出生)されることによって、命を持ち、そして動き出す。

結局なんだかよくわからない。いまもわからないまま書いている。だけど、ラストシーン。ライブのラスト曲に合わせて、充足感に包まれスマホのライトを振っている私がいた。わからない。だけど、生きていこうと思った。福音はそこにあった。それで十分なのだと思う。私にとっては、「セイ」を見た瞬間はそういう時間だったのだ。

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