ディベート甲子園

教員、顧問の視点から見た、ディベート甲子園ジャッジの講評の聞き方、活かし方

ディベート甲子園2019も幕を閉じました。実は今回ジャッジを対象に主審セミナーも実施されました。選手が真剣に戦う中、ジャッジもより良いジャッジをするために真剣勝負をしていました。
 AOAでは、選手ではなく顧問の先生がどのようにディベート甲子園を見ているのかという点に着目した原稿をお届けします。教員、顧問の先生はディベート教育の立場からジャッジの講評をどのように見て、活用しているのでしょうか。
 今回の記事は、第2回大会より数々の素晴らしい指導をされてきた顧問の先生である、東北支部「福島県立ふたば未来学園中学校」の樫村弘一郎先生にお願いして寄稿していただきました。既にディベート教育に携わっている方はもちろん、これからディベート教育をしようかと思っている教員の皆様は必読です。

1 はじめに

 ディベート甲子園の立ち上げに多大な貢献をなさった瀧本哲史氏のご逝去に心から哀悼の意を表します。氏の著書「武器としての決断思考」を読んで感銘を受け、ディベートの世界に足を踏み入れた中学生に贈りはじめたのが2012年。それ以来毎年ディベートに足を踏み入れた新入生に贈り続けています。生徒には、判断に迷ったときには「武器決」を開いてみるように伝えてきました。ディベートの教育的意義を体現し続けた氏の存在の大きさを、今更ながら強く感じています。ご冥福をお祈りいたします。

2 私とディベート甲子園、そしてジャッジの講評との関わり

 私がはじめてディベート甲子園の全国大会に生徒を引率して出場したのは、第2回大会です。当時はディベート教育が注目されはじめた時期で、私は市販の入門書を購入して貪るように読み、生徒とともに体験講座で学んで、議論の準備を進めました。地方と都市部の情報格差は大きく、またディベートそのものに関する情報量が絶対的に不足していました。

 そんな私にとって、ジャッジからの講評は、聞く度に目から鱗が落ちるものであり、新書1冊分以上の価値があったと言えるでしょう。そこで、全国大会を前に、当時はまだ行われていた甲信越大会を見るために夜通し車を走らせて長野県に行ったり、東海大会を見るために大垣行きの夜行列車に飛び乗って金城学院大学に行ったりしていました。

 試合を見るというよりは、ジャッジの言葉を聞きに行っていました。つまり私は、ジャッジの講評から、ディベートとは何かを学んできたと言っても過言ではありません。よってジャッジの講評をよく聞くことが、ディベート理解の近道であることは間違いないと思います。

 最近も、はじめて大会の引率をして判定講評を聞いたという顧問の先生と話す機会がありましたが、「講評を聞いて、とても感心した。なるほどと思った。」とおっしゃっていました。また、「ディベートの教育的な意義がよく分かった」ともおっしゃっていました。よって情報格差が縮小した現在でも、顧問にとって、ジャッジの講評が学びの場として機能することは間違いないでしょう。

3 ジャッジの講評から学んでいること

 以上のようにジャッジの講評から学び、生徒の指導に生かしてきた私にとって、講評はディベートそのものの学びであり、また論題というフィルターを通して社会そのものを勉強するツールでもあり、さらに上手な話し方を学ぶ場でもあります。そして、ここに書くまでもありませんが、そのシーズンの試合で「どのような議論が有効とされる(取られる)のか」を学ぶ場でもあります。

 しかし勝負がかかっていますから、すべての講評について落ち着いた心で学べているわけではありません。実は、勝ったときの講評は比較的忘れてしまうのですが、負けたときの講評はいつまでも覚えています。もしかしたら、講評は本質的に敗戦チームのためにあるのかもしれないとも思います。私の経験では、「データの使い方が悪い」と言われて敗れた翌年、徹底的にデータにこだわったことがあります。生徒にもデータの使い方ばかり指摘した結果、試合で相手チームの主張に反論せずに、相手チームが使っていたデータの信憑性の低さだけを指摘し続け、結果として敗戦を喫するという苦い思いも味わっています。

 このことから、ジャッジの講評から顧問や生徒が何を学ぶかは顧問や生徒に任されている部分が大きいことが分かります。教育界ではよく、「生徒は教えたようには学ばない」と言われますが、これはディベートの講評でも同じ部分があるのかもしれません。
 

 なお、この話は本題からは外れますが、以前、ある試合で3対0で敗れ、予選リーグ敗退が決まったときのことです。試合後にアドバイスシートを選手に渡した副審の方に(予選リーグで敗退したことが分かっている中で、それでも敢えて)、「本当に惜しい試合であって、~の論点が~という意味で成り立つと説明があれば投票できた」などと熱い説明をしていただいたことがあります。その姿を見て、「確かに主審は接戦だと言っていたけれど、本当にすごい接戦で、お一人お一人が悩んで判定を出した結果として、3対0だったんだな」と思うことができました。顧問としても、生徒たちがそのときは敗戦のショックから立ち直れていなくても、後になって、「ほら、副審の方が、もう敗退が決定していることが分かっている中でも、あんなに熱心に、どれだけ惜しい試合であったかを説明してくださっていたでしょう。それだけ、審判の心を動かす議論ができたんだよ」と、慰めることができました。これは、ジャッジの方から講評だけでなく、試合後の選手への接し方についても学ぶことができた事例として、挙げさせていただきました。

4 ジャッジとして生かせると思うこと

 改めて書くまでもありませんが、ディベート甲子園におけるジャッジの判定は、極めて重いものです。半年間もの間、生徒によっては寝食を忘れて没頭してきた議論について白黒付ける行為なのですから、軽いはずがありません。だからこそ、判定に付随する講評は極めて重要です。私も若い頃は、講評に勇気づけられて翌年も頑張ろうと思ったときもあれば、一度だけですが、判定の際の主審の方のコメントに疑問を持ち、説明を求めたこともあります(相当前のことで、私の思い込みに由来するもので、今でも思い出すと恥ずかしくなります・・・)。最近でこそ明鏡止水の境地に達し、判定も心穏やかに聞けるようになりましたが(ウソです)、顧問、そして生徒にとって判定の持つ意味が極めて重いことに鑑みると、とにかく言えることは「判定理由を丁寧に説明してしすぎることはない」ということです。

 その点から特に注意しなくてはならないと思うことは、できる限り議論に触れるということです。触れることによって、少なくとも議論が試合の判定で考慮されたということだけは、明らかになります。今回の講座(筆者註、2019年に開催された主審セミナーの事)で久保先生から出たたくさんのお話の中でも、私がもっとも重要だと感じたところは、講評で「できるだけ議論に触れる」という部分でした。

 特に、ジャッジとしては判定にはあまり影響を与えなかったものの、「何度も繰り返し主張している議論には必ず触れる」というお話には、強く共感しました。ジャッジにとっては、繰り返し登場したその議論は「ズレた」議論だったのかもしれないのですが、チームにとっては「大切に育ててきた」議論なのです。

 そういった論点について試合で触れられなくても、試合終了後に、選手がジャッジに直接聞きに行けばいいのではないかと思われるかもしれませんが、その試合の敗戦が、事実上シーズンの終戦を告げるものであった場合、いくらジャッジからコメントを得たとしても、次の試合に生かすこともできず、また満身創痍となっている状況では聞きに行く気力はわかず、さらに、いくら質問とは言え、負けて判定にクレームをつけている見苦しい人たちと思われるようなことはしにくいのです。よって、私が顧問として最もして欲しいことである「議論に触れる」ということを、自分自身がジャッジをする際は心がけるように努めています。

5 今回のディベート甲子園をサンプルにすると

 今回のディベート甲子園ではチームを引率していないため、顧問としての立場で判定を聞いておらず、顧問の立場から講評についてコメントをするのはなかなか難しいため、先日、昨年まで顧問を務めていた某中学校の試合記録を聞かせて頂き、顧問になったつもりで主審の方の講評を聞いてみました。顧問だったらどう学び、今後に生かすかを書いてみます。


 この試合、準々決勝で、そのうえ3対2で割れた試合です。主審の先生の判定は見事なものでした。まず、時間的制約を見越して、前置きは極めて短く、議論の中身に入りました。さらに、立論の内容に深入りせず、反駁との比較で議論の中身について講評しています。準々決勝まで来た試合だからこそ、選手、そして会場の聴衆も、これまで何度も議論を聞いてきたことを想定し、だからこそすべての議論に触れるのではなく、争点となったところを中心に判定・講評を進めるというご判断だったのだろうと思います。見習うべきと思いました。
 

 そしてこの講評から、私が最も学んだことは、「講評から深い教養が滲み出ると、言葉の説得力が増す」ということです。深い教養に裏打ちされたジャッジが精一杯論理的思考を働かせ、そのうえで判定したのだということが滲み出ると、多くの人は納得しやすくなるのです。この試合で主審の方は、孫子の有名な一説を引きつつ、「『彼を知り己を知れば百戦殆うからず』の後に『彼を知らずして己を知れば一勝一敗す』とあるのです。つまり、自らの議論の本当の強みを知り、それを生かせば勝率は半分まで高めることができるのですよ。ではみなさんは、自分たちの議論の本当の強みを試合で生かせたのですか?」と、お話されたのです。その話を聞いて私は「すごい。この喩えを使うことで、議論をきちんと理解したうえで、敗れた肯定側に、自分たちの強みを生かせなかったので投票できなかったのだと伝えたのだ。」と、軽い感動を覚えました。

 単に「自分たちの議論の強みを生かせていませんでした」といわれるより、孫子から引いたうえで話されたことで、納得の度合いが違うのです。また、「ジャッジとしては、皆さんが自分たちの議論の強みを生かせれば、勝ち筋はあったのですよ。」と、立論段階からよく議論を理解した上で判定を下してくださったのだと、深く納得できました。本当に、講評からは多くのことを学ぶことができます。この試合の判定講評からは、そのことを再確認することができました。

6 最後に

 地方の公立中に勤めていて感じるのは、一流の方から知的なフィードバックをいただく機会が少ないため、生徒が本来持っている力を引き出しきれない面があるということです。そんな中、ディベート甲子園では自分たちが考えたことに、ジャッジの方から高い水準で知的なフィードバックを得ることができます。結果として、試合に向けた準備、そして大会を通して、生徒の能力が飛躍的に向上する姿を見続けてきました。

 こうした教育的に極めて高い価値を持つ「ディベート甲子園」をボランティアとして支えてくださるジャッジの皆様がいなければ、大会は存続しません。また、我々顧問も、ジャッジの方々のコメントにもっと深く学んでいく必要があると思います。

 末筆ながら改めまして、ジャッジの皆様に深く感謝申し上げます。


 樫村先生、この度はご寄稿いただきました、まことにありがとうございました。AOA主宰としては「ジャッジの講評から顧問や生徒が何を学ぶかは顧問や生徒に任されている部分が大きいことが分かります。教育界ではよく、「生徒は教えたようには学ばない」と言われますが、これはディベートの講評でも同じ部分があるのかもしれません。」という部分が心に残りました。

 新しく顧問になられた先生も、ディベート甲子園は敷居が高いが教室ディベートを実践しようと思っている先生方も、ぜひ一度大会に足を運ばれて、ジャッジの講評を聞いてみてください。また、はじめてディベートを見る方で試合を見てもなかなか理解できないという方は、ぜひジャッジの講評だけでもご覧ください。議論の面白さを感じることができると思います。 

 youtubeでは今年も大会もアップされておりますので、ご関心ある方はぜひ以下をクリックください。
ディベート甲子園公式チャンネル

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?