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蘇我倉山田石川麻呂 (そがのくらやまだいしかわまろ) 自害 (大化5年3月25日 [ 649年5月15日 ])

蘇我倉山田石川麻呂 (そがのくらやまだいしかわまろ) 自害  (大化5年3月25日 [ 649年5月15日 ])

📖 本ブログ内関連記事「薬師寺金銅仏」

(年代推定の基準作として) 上リンク先記事で述べた「山田寺仏頭」(国宝。冒頭画像は近鉄奈良駅ビルで撮影 [19年6月20日] した模造。[本記事下部▽にもリンク有り]) は、
蘇我倉山田石川麻呂が飛鳥北東の地に創建した氏寺の山田寺 (やまだでら) の講堂本尊として、蘇我倉山田石川麻呂を追善するために鋳造され685年に完成した金銅仏の残欠に当たります (残欠でも国宝という価値の高さ)。
同年に天武天皇と皇后の鸕野讃良皇女 (うののさららのひめみこ。後の持統天皇) が山田寺を訪れたと日本書紀にあり、
丈六 (一丈六尺 4.85メートル。仏の身長とされる) の大規模な金銅 (銅造鍍金) 仏である講堂本尊 (薬師三尊像) の造立が、
蘇我倉山田石川麻呂を外祖父 (母 [遠智娘 おちのいらつめ] の父) とする鸕野讃良皇后の縁故により国家的規模で営まれたと見られています。   

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里中満智子作の劇画「天上の虹」では、幼少時の鸕野讃良皇女が蘇我倉山田石川麻呂に「おじいちゃま」と寄り添う平和的な情景が描かれますが、
649年、遠智娘の懇願にも関わらず中大兄皇子 (鸕野讃良皇女の父。後の天智天皇) が命じた軍勢に囲まれた蘇我倉山田石川麻呂が自害し、
遠智娘と幼い鸕野讃良皇女と姉の大田皇女は抱きあっておびえ、
やがて遠智娘が正気を失う描写となっています。  

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[関連記事]

🔍 興福寺公式ページ「旧山田寺仏頭」


🔍 飛鳥資料館公式ページ 「山田寺」


🔍 ウィキペディア「蘇我倉山田石川麻呂」

🔍 同「仏陀寺古墳」(伝蘇我倉山田石川麻呂の墓の一つ) /📝 蘇我馬子の墓説がある石舞台古墳同様に石室 (石槨部 この古墳は石棺式石室と言われる) の屋根がむき出しになっている。 築造時期は7世紀中葉から後期と見られ、蘇我倉山田石川麻呂の年代とほぼ重なる。

/🎞GoogleMapStreetView (仏陀寺古墳のある仏陀寺門前 [北門の前]) 東が奈良県との境の二上山に連なる山脈で西への見晴らしが良い地勢。古墳は下の貼出画像の左の樹々の辺り。南から古墳を見ると数メートルの崖上に位置している。 

/🌐 GoogleMap. 仏陀寺古墳。 西北西の叡福寺は聖徳太子の墓所。右端の点線が大阪府と奈良県 (右) の境界線。仏陀寺古墳の東北東が二上山の山頂 (貼出地図には表記が出てませんが) 。その東南東に當麻寺があります (奈良県。貼出地図の右外)。  


🔍 ウィキペディア「伝蘇我倉山田石川麻呂の墓」(岐阜県各務原市蘇原宮塚町) 

/🎞 GoogleMapStreetView (伝蘇我倉山田石川麻呂の墓 [上述。岐阜県] の東側の画像)  


🔍 ウィキペディア「山田寺」(「山田寺跡」として国指定特別史跡 [国宝と同格])

/🎞 GoogleMapStreetView (山田寺塔跡土壇の東側面。画像の右端に金堂跡土壇がすこし見えています。南北に中門・塔・金堂・講堂が並ぶ伽藍配置。※1.)

/🌐 GoogleMap. 山田寺跡。こちらも要衝の地と言われます。


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※1.
この配置から山田寺は以前は四天王寺式伽藍と呼ばれましたが、金堂講堂間に東西に回廊が通っている事が発掘調査で明らかとなった為、今は山田寺式伽藍と呼ばれています。


(15日16日6月22年1月23年12月更新)

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