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マグナス・ミルズ『鑑識レコード倶楽部』の訳者あとがきを一部公開します

2022年4月15日発売した最新刊、マグナス・ミルズ『鑑識レコード倶楽部』には、訳者の柴田元幸さんがすばらしいあとがきを書いてくださっています。なにしろこの作品は、シングル盤マニアたちが主役のおたく色の強い設定ですが、“「何があるか」よりも「何がないか」を語る方がずっと楽”(柴田)という、かなり変わった、ヘンな、あるいはとんがった小説で、さまざまな読み込み方のできる奥行きをもっています。通読したあとに、柴田さんのあとがきを読んでからもう一度読み通すと、味わいが増すことはまちがいありません。ぜひ再読、三読にトライしてみてください。(鈴木)

訳者あとがき  柴田元幸

 男たちが集まって、持ち寄ったレコードを順番にかけ、みんなで聴く。細かい変化はあるが、基本的には、それだけの話である。レコードを聴く以外、この男たちが何をしているのか、いっさい何も書いていない。仕事はしているのか。家族はいるのか。不明。
 パブが主たる舞台だが(パブの奥の部屋を借りてレコードを聴くのだ)、その描写も大変そっけなく、場所を描くにせよ人物の外見を伝えるにせよ、凝った比喩などはひとつもない。というか、凝っていない比喩さえひとつもない。作家は普通、as if ...とか like ... とかいった言い方を駆使して小説世界に奥行き・広がりを加えるものだが、この書き手はそういう慣習を徹底的に拒む。
 「比喩ってやつが我慢できないんだ」と、かつて作者本人にインタビューしたとき、彼は配達用のバンのハンドルを切りながら言った(当時マグナス・ミルズは作家をしながら配達の仕事をしていて、インタビューの時間が足りなくなり、配達に同行してバンの中で続きを聞いたのだった)。「シェークスピアが比喩使うんならいいけど、僕には向かない」(『スカイワード』2004年11月号)。というわけで、そこにあるものはただそこにあるものとして語られ、世界と何か有意義に、あるいは美しく、または宿命的に、結びついているような気配はいっさいない。
 ストーリーに関しても、生死を左右するドラマチックな展開もなければ、熱烈なロマンスがくり広げられたりもしない。大団円やカタルシスに行きつくわけでもない。その中で、音楽に対する作者と登場人物の熱い想いだけはひしひしと伝わって……くることも特になく、レコードがかかるたびに曲名が律儀に報告されるのみである。一番最初に「キース」「ロジャー」という名が出てきて、ひょっとしてあのバンドかな、と思うものの、以後いっさいミュージシャン名もなし。
 長篇小説ともなれば、過去の回想なども適宜織り込まれて、人物の背景がだんだん見えてきたりするものだが、それもない。語り手について言えば、ずっと昔ビートルズの(とも書いてないわけだが)「ベイビー・ユーアー・ア・リッチ・マン」のシングル盤(つまり「愛こそはすべて」のB面)を買ってきて16回ぶっつづけでかけて父親にどなられた、という記憶が語られる程度である。だいたいこの小説、章立てというものがまったくなく、何の切れ目もないまま、最初から最後まで淡々と続く。いや、「淡々」という言葉が示唆する渋さ、枯れた味わいもない。もっと即物的である。

──というわけでこの小説、「何があるか」よりも「何がないか」を語る方がずっと楽なのだが、マグナス・ミルズの作風を知る読者にとって、実はこれはおなじみの事態である。この『鑑識レコード倶楽部』はミルズ9冊目の長篇だが、「バスの運転手が書いたブッカー賞候補作」として話題になった第1作The Restraint of Beasts(邦題『フェンス』)以来、ミルズはつねに、この作品と同じ徹底的な「ないないづくし」スタイルを貫いて、柵を作る人々、物流業に携わる人々、テントを立てる人々等々をとことん即物的に描いてきた。それが今回は、ほとんどたまたまという感じに、レコードを聴く人々を取り上げたわけだ。
 人物の過去も背景も示さず、ほかに何をやっているかも伝えず、ひたすらひとつの営みに携わるさまを、比喩などのレトリックにも頼らず描く。そうやって自主的に素材を貧しくすることを通して、この作家ならではの、オフビートな可笑し味が生まれてくる。無表情で可笑しいことを言ったりすることを英語ではdeadpanと呼ぶが、マグナス・ミルズほどdeadpan humourに長けた書き手もそうザラにいない(ほかに思いつくのは、ミルズといい勝負のノー・ナンセンス英語でスコットランドの労働階級のしょぼい生活を描くアグネス・オーエンズである)。
 唐突な物言いになるが、ミルズの描く人々は、あたかもこの世ではなく、来世を生きているように感じられる。誰もがひたすら柵を作る来世、ひたすら物品を運ぶ来世、ひたすらレコードを聴く来世……それらの営みは、未来永劫終わらないマイルドな罰のようにも思える。むろんその罰は読者にとって他人事(ひとごと)であるわけだが、それがいつしか、自分も何か似たような罰を日々受けているような思いを読者も抱きはじめる。このあたりに目立たないながらミルズの凄味がある。
 携わる営みはそれぞれ違っても、ミルズの小説の主人公は、最初は一人でその営みに携わっていたのが、だんだん組織のようなものに巻き込まれていって、なんだかよくわからない権力関係のなかにいつの間にか取り込まれている。取り込まれはしても、その権力の網の全貌はけっして見えず、時にその暴力が主人公を不意討ちする。比喩によって世界と有意につながることもない個人の、丸裸の心細さが、仲間と思っていた人間からのちょっとした冷ややかな言葉で一気に浮かび上がったりする。こうなるともう「可笑し味」で話は済まず、「不条理」といったような言葉を持ち出したり、マグナス・ミルズをカフカとつなげて考えたりしたくなってくる。
 『ガーディアン』紙に書評を寄せた作家トービー・リットは、この本はロシア革命、宗教改革、スンニ派とシーア派の対立など、人間同士のさまざまな大きな不和の偽装した語り直しとして読める、と評している。「人が何らかの『私たち』を築くとたん、それに応えて『彼ら』が形成されることをミルズは示唆している。この意味で、『鑑識レコード倶楽部』は〔ジョージ・オーウェルの〕 『動物農場』の豚を人間に置き換えたような本である ただし歌はこっちの方がずっといいが」。まったくそのとおりである。あえて野暮に付け足せば、ロシア革命等々の「大きな不和」の寓話として読めると同時に、職場、学校、その他多くの人にとってもっとも身近な場の寓話としても同じくらい有効に思えるところが、この『鑑識レコード倶楽部』の一番の強みではないだろうか。(……続く)

                            柴田元幸

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