【アートについて】僕たちは本当に、”卑屈な才能”にやさしく寄り添えるのかな。
最近、アートが流行ってる。
論理に囚われない柔軟さや大胆さが、未来を切り開くんだよって。そんなメッセージが社会の最先端で踊ってる。
どうやら、主にアンダーグラウンドに生息してきたアーティスト達の思考が、今ビジネスシーンでもとても注目されているらしいやん。
でもさ、
今まではほとんどのアーティストが社会的、または経済的に優遇されてこなかったわけやんか。それが今になって急に注目されるって、うーんって感じ。
僕も音楽を創って表現している人間だから言えるんだけど、やっぱり彼等が除け者にされてきたのには、充分すぎる理由があるんだよね。
そして、彼等が生きにくいとされているのにも。
アーティストがもっている才能は確かに世の中を切り開く力があると思うよ。しかし一方でそれは、誰かを傷つけてしまいかねない卑屈な才能でもあると思う。
そんな諸刃の剣を持つ芸術的才能について、今日は綴っていこうかなぁと。そして、君にこう問いかけたい。
僕たちは、”卑屈な才能”に本当にやさしく寄り添えるの?
1.圧倒的主観によって生まれる世界観
これは当たり前だけど、彼等の持つ世界観は圧倒的に自分目線によって生まれる。その目に映るものや、その心に映し出される情景を描き、時に拡張して表現することになる。
確かにそれは、私達の心を代弁してくれる。しかしその主観は時に行き過ぎている。いや、ほとんどの場合が行き過ぎている。
だって、彼等は圧倒的な主観の世界観に”感情”という起爆剤を入れ込んでいるから。それは色や形、音として私達の五感の側で爆発するんだよね。
その威力は凄まじく、ある人を肯定すると共に他の誰かをめちゃめちゃ傷つける恐れがある。
それでも僕たちは、彼等にやさしく寄り添えるのかな。
2.すなおでいいやつ
そんなやつが、進んで作品なんて創り続けられないだろうなあ。
どうしてアーティストが、自分の感情や概念を芸術作品にまで昇華することができるんだろう。
それは、彼等の感情の深さにあると思うのね。
創作っていうのは、思ったよりも苦しいもの。しかも続ければ続けるほど、自分という壁が分厚くなってきて、より難しいものになってく。
でも、それでも彼らが創り続けられるのは、そこに根深い感情が存在するからだよ。社会への疑問や恋人への嫉妬、旅立ち、そして何気ない日常の中にでさえ、彼等は深い感情を持つことができて、大きな影響を受けるんだよね。
彼らは苦しみ、喜びを感じ、悲しみに暮れ、心躍り、虚無を感じる。それは時に周りの人たちが理解できない程に。
そして、すなおでいいやつになれない自分と葛藤している人も沢山いる。
だから彼等は創り続けられるし、創らずにはいられない。
それでも、僕たちは彼等にやさしく寄り添えるかな。
以上、彼等の生態系を自分の経験ベースでまとめてみた。こんなふうに、アーティストが持つものは決してキレイで真っ直ぐではない。
どこか曲がってしまった卑屈な才能だよ。
でもね、それは美しいんだ。
彼等は、卑屈を卑屈であると言ってくれる。そして作品の中で、真っ向勝負を挑んでくれる。その姿が、僕たちの心を動かす。
僕たちは、本当に彼等のそばに居てあげられるかな。
彼等が悩むとき、問題を抱えている時、側に座り、肩にそっと手をおき、「だいじょうぶだよ。」といってあげられるかな。
そして、彼等を信じぬくことができるかな。
こんなことを、君と話したいなあと思っています。
アート思考とかいって、流行らせてる場合じゃねえぞって思うんだよな〜。
ま、ゆっくりいこう。
さくら
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