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アートと生きた、女性の戦士たち。ミラノ編 n.5。 立て直し
。

ブレラ美術館の再建。

長く厳しい迫害の時を経て、モディリアーニ元館長も戻ってきた。再び二人三脚でブレラ美術館の仕事をするようになった二人。

ブレラ美術館の再建は街の復興シンボルのひとつになります。

フェルナンダは復帰してすぐに、美術館の修復は緊急事項であり、直ちに着手しなければならないと書き記した文書を、文化庁へ送った。

爆撃を免れたわずかな部屋を修復しながら再建するのではなく、建物全体を再建し、ブレラ美術館の所蔵作品に相応しい空間と展示表現で新生することを目的とします。

彼女の斬新で革新的なアイデアは、のちにイタリアの美術館の展示方法に大きな影響を与えることになる。

もともと意思の強い物言いのはっきりしたフェルナンダであったが、刑務所での経験は、さらに彼女を強固にした。

ミラノ市長へも再建の緊急性を訴える。そのときの市長の言葉が残されている。

ヴィットゲンス館長の執拗な要求には、文化庁の官僚達も戦々恐々としている。

わたしの部屋に入ってきたフェルナンダ・ヴィットゲンスは、真っ向から訴える。

「ブレラを再建しなければなりません。それから、スフォルツェスコ城、ポルディ・ペッツォーリ美術館、その他いろいろあります。」

わたしは抵抗することができず、力を尽くすことを約束した。

ピエロ・ポルタルッピ。戦前にもブレラ美術館の改装に携わった建築家である。1943年8月の爆撃で大打撃を受けたブレラ美術館の前に立っていた。

国からの支援を待っていたら倒壊する可能性ありと判断したポルタルッピは、建物の損傷を調べ、わずかな作業員を呼び寄せ、無償で応急処置を施していた。

ブレラ美術館は、幅が7メートル以上もある、高価な額縁に飾られた作品を何点か所蔵している。

ヴェロネーゼ作「シモンの家の晩餐」
275 cm × 710 cm
ジェンティーレ&ジョヴァンニ・ベッリーニ作
アレクサンドリアでの聖マルコの説教
347 cm × 770 cm

額縁と作品は別々に避難させていたが、額縁を避難させていた建物が燃え半数以上が焼失してしまった。少なくとも400面は作り直さなければならない。

珠玉の作品を額縁なしで展示するのは、洋服を着てないのと同じである。そんなことは決してあってはならない。

モディリアーニ元館長は、ローマの文化庁へ赴いて、ブレラ美術館の現状と再建の緊急性を訴え、再建に必要な費用と、額縁の再製作と修復にかかる費用の両方の資金を求める。

1946年にミラノの公共事業省は、潤沢な資金を得ることができる。

さて、ようやくブレラも。と立ちあがろうとするも、とんでもないことが発覚する。

なんと、戦争で被害を被ったモニュメントと美術館のリストから、ブレラ美術館が漏れていたのだ!

ヴィットゲンス館長は烈火のごとき怒り、いままで送り続けてきた書類を再度文化庁へ送り抗議する。

文化庁からは何の音沙汰もない。無の1年間を過ごすことになる。

その間、ヴィットゲンス館長が、返事を大人しく待つことはなかった。1947年にメキシコで開催された国際博物館会議(International Council of Museums=ICOM)にて再建の必要性を発表し、同時に国際的に重要な人物ともコンタクトを取るようになる。

例として、ボストン美術館の絵画学芸員ウイリアム・ジョージ・コンスターブル、ニューヨーク近代美術館の初代館長アルフレッド・ハミルトン・バーJr。政治的な繋がりも広げ、アメリカの国務省、アメリカの銀行家で実業家そして慈善家でもあったデイヴィッド・ロックフェラーとも交流を図る。

そんな折、1947年6月22日。ブレラ美術館とともに生きたエットーレ・モディリアーニ館長が肺炎をこじらせて永眠する。

モディリアーニの意思を受け継いだヴィットゲンス館長は、再建に集中する。

1948年12月の時点で、破壊された34部屋を含めた、建物全体の補強を終えていた。内装においては、自然の光が室内全体に行き渡るように考えられ、照明、空調、暖房、非常ベル、電気系統、美術館に関わるあらゆる指示は、ヴィットゲンス館長が文章で細かく指示している。

美術館に暖房や空調設備などがないことが普通とされたいた当時としては、かなり時代に先駆けた計画であった。

照明は、自然光のみ、照明のみ、どちらも使うなど、部屋の作りや作品の展示方法により整え、さらには、夜間拝観を見据えて夜用の照明も備えさせた。

モザイク模様の大理石の床、壁の腰の部分に張る羽目板、織物壁紙、展示する作品に相応しい装飾家具など、ひとつひとつ丁寧に選んでいく。

美術館の建築と内装は、作品を引き立たせるものであり、決して作品の前に出てはいけません。ですが、いまの時代の美術館の建築は、それ自体が主張しすぎて、本来の「装飾要素」としの機能を果たしていません。

ブレラ美術館では、床の大理石、壁と床の境目に取り付ける巾木、ドア枠など、細部に至るまで、作品と調和した空間を作り、空間全体が作品の額縁になるような環境に整えます。

1943年8月の爆撃で全36部屋のうち24部屋が破壊されたブレラ美術館。戦後すぐに復興のシンボルにするべく、フェルナンダ・ヴィットゲンスと故人エットーレ・モディリアーニは、困難な道を一歩一歩、前進していった。

参照:artshapes
ブレラ美術館の館内の様子

文化庁への再三に渡る資金の催促、外交交渉、新設する館内の内装、電気系統、展示方法、微に入り細に入り、美術館の隅から隅までを研究し尽くした4年間。

辛く厳しい時を経て、1950年6月9日に、新ブレラ美術館が開館する。

開館を祝して、当時の所有者であったレナート&ルイジ・パッサルディが、礼拝堂に描かれてあった1300年代のフレスコ画を寄贈したことをはじめ、各方面からも数点の作品が寄贈され、ブレラ美術館のコレクション入りする。

寄贈された
ポーリ・モッキローロ礼拝堂
の1300年代のフレスコ画

開館を祝しての、ヴィットゲンス館長の短い言葉。

技術者、職人、現場作業員、再建に関わる人達の日々の作業により、たった4年間という短い年月で奇跡的に開館することができました。エットーレ・モディリアーニに追悼を捧げ、彼の功績を讃えます。

グイド・ゴネッラ首相と握手する
ヴィットゲンス館長
参照:artshapes
(Archivio Publifoto)

ブレラ美術館の再建中、ミラノでは破壊された中心街のモニュメントや作品の再建も同時進行で行われるが、ここでも、ブレラ美術館ヴィットゲンス館長は活躍することになる。

次回へつづく。


前回まで連載していた「解放されたアートと勇士たち。」の続編「女性の戦士たち」をお届けしています。

もとは、こちらの展示会に足を運んだのがきっかけです。まさか、自分でもこんなに長く書き続けるとは思ってもみませんでした。

参照:『ARTE LIBERATA 1937-1947』 
ローマのクイリナーレ宮殿の美術館で開催された展示会「救われたアート 1937年〜1947年」。

ミラノでも残念ながら知っている人が少ない彼女の存在ですが、2023年1月にイタリアのテレビ局Raiでフェルナンダ・ヴィットゲンスの物語が放映され、ようやく、彼女の一端が知られることになりました。イタリア在住の方でご覧になられた方もいるでしょう。

創作大賞にも応募しています。ぜひ応援をお願いします。

最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。

参考資料:
"Sono Fernanda Wittgens" una vita per Brera  di Giovanna GinexBiblioteca d'Arte Skia出版

https://pinacotecabrera.org/
https://riviste.unimi.it/index.php/concorso/article/view/5108/5167
https://www.elle.com/it/magazine/storie-di-donne/a22513576/fernanda-wittgens-biografia/

音声&映像の参考資料
https://www.youtube.com/watch?v=A5Tjq8XgiMM
https://it.gariwo.net/storie-di-giusti-24456.html#wittgens
https://www.raiplaysound.it/audio/2023/03/Il-pescatore-di-perle-del-25032023-a7a6618f-a6fb-4404-9825-81f31b25264c.html
https://www.youtube.com/@UnioneFemminileNazionale/search?query=fernanda
https://www.youtube.com/watch?v=u9DwfvCvGHQ


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