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迎春萬歳!

朝7時、長女が母に話し掛けている。「おばあちゃん、骨粗しょう症の治療のために足の運動をしないといけないんだけど、整形外科の先生が今日、リハビリに行って欲しいんだって。」.......... 「あらっ、じゃあ支度しなくちゃ!」 整形外科の先生特別に紹介してくれた所、と“特別”を強調する。

朝7時に突然、こんなことを言われている不自然には思いが及んでいない。実は昨夜、今日のデイサービスのキャンセルを伝えていないことに気がついて、ぶっつけで行くか、否かに掛けてみようと言うことになっていたのだ。とりあえずは成功みたいだ。で、起き上がって急いで朝食の用意をした。支度の途中で何で行くんだろう?という気配を感じたので、お母さんにあった治療をするから最近の状態を知りたいんだって、と言ってみる。一部は本当のことで、来月の治療のために血液検査を済ませている。整形外科の先生は毎回、とにかく歩いてくださいね。家で足踏みするだけでもいいですから、と繰り返し言うので、それは少し記憶に残っているらしい。

急いで担当者宛に手紙を書いた。今日は上記のような理由で行くということ。歩け歩け!はやめて、骨を丈夫にする運動とすること。それから、外向けの良い顔と家族向けの顔がまったく違うということも少し書いた。母の豹変する姿についてはとても伝え切れない。言い過ぎるとただの愚痴になってしまう。愚痴はユーモアに変えないと人には伝わらない、そのユーモアが凍り付いたような日々が続いているのだ。

8:20分、迎えにきた担当の女性のことを覚えているのだろうか。とにかく出掛けて行った。オフの娘はいつもの朝より大変だったはずだ。お茶でも飲もうかと一服したものの、その後は、母のベッド回りを中心に掃除と洗濯。あっという間に午前中は過ぎて行く。でも、ふたりでいることで救われる。ベランダからの日差しに心が緩む。

12:30分、母帰宅。何をしたの? と聞くといつものように「なんにもしないわよ。ただ行っただけ。」毎回のこの第一声にはどんな意味があるのだろう。とにかくお昼にしよう。少しすると、「輪っかがあったわ。」..........何かを思い出したらしい。椅子に座って両手で輪を掴んで引っ張る。その運動をしたこと、でも他には何もしていないと言う。つまりは思い出せない、もしくは説明できないことは無かったことなのだ。母の足の様子を数値化したグラフ資料を貰ったので、これを整形外科の先生に持っていくね、と言う。娘が、だんだん嘘が上手くなるね、と呟いた。昼食後、娘が散歩に連れ出した。やっと神社へ初詣。2日のデイサービスには行かない宣言から2週間、やっと少し風穴が空いた感じだが、明日のことは分からない。

気づいたことがある。母にとって歩く練習とは、外を散歩することなのだ。足のリハビリの為にデイサービスに行くことと、歩くことは一致していない。デイケアでは街一望の屋上で歩く練習をする。でもそれは散歩ではないから、何もしなかったということになるのだ。散歩から戻ると、「あ〜、よく歩いたわ!」と第一声。それほどの距離ではなかったのだけれど、歩く=散歩、それ以外のフィットネスは母には預かり知らないことなのだ。そりゃそうだろう、93歳になってはじめて見るマシーンの数々、何のためにするのかなんて説明しても分からない、だからすぐに忘れる。

こんなことが?ということの多くを母はもう理解出来ない。それに慣れなくてはいけない。もっと知らなければならない。母の頭の中で起こっていることを。母の心の奥底を。次なる作戦は、デイサービスwithランチ。成功したらここに記すことにしよう。



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