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そうだ!東海道五十三次歩いてみよう。 (episode0 過去〜出発前夜編)

これから語られる物語は全て、実際に2018年5月に僕が挑戦した11日間-約700kmの東海道五十三次制覇を含む歩き旅の記録である。

今回はその11日間から少し時計の針を巻き戻してみようと思う。

全ての始まりは大学1年生の冬だった。当時1年生だった僕はサークルの先輩であり、同じ千葉県南部に実家があるTさんと約80kmをかけて自分の家から早稲田大学が徒歩圏内かどうかを検証することになった。結果、前日の17時に家を出れば3限の授業には余裕に間に合うことがわかった。(言うまでもなく3限の授業は爆睡であった。)

そこから僕とTさんの徒歩感覚は完全に麻痺をし始めた。毎年5月に早稲田大学で開催される、「本庄ー早稲田100キロハイク」(埼玉県本庄市にある早稲田大学本庄高等学校から約100キロをかけて新宿区の早稲田大学をめざして歩く伝統あるイベント、作家の朝井リョウさんも過去に参加経験あり。)にも当然の如く参加。大学2年時には「人生を歩もう」をテーマにこの100キロハイクの3日前から、自身の幼稚園、小学校、中学校、高校を徒歩で順番に巡り、さらに早稲田大学を経由して100ハイの出発地である本庄高校まで歩いてからイベントに参加した。この通称"人生ハイク"では約360kmの距離を歩いた。またTさんを含む先輩方からのとある一言で下駄で歩いたのだった。

そして月日が流れ、大学3年生の100キロハイク。Tさんは当然の如く大学5年生として早稲田に在学していた。そしてTさんはその年、"日本海-太平洋縦断ハイク"と銘打ち山越えを含む約400kmの距離に挑戦し、見事に100キロハイクも含めて完歩を達成された。他方でその頃、僕は100キロハイクを運営する早稲田精神昂揚会の公式縛りプレイヤーに選出され、「100kgの樽を100km運ぶ」というミッションを課されていた。しかし、この100kgという重さに耐え切れず運搬用の神輿が約300m歩いた時点で大破し、縛りプレイは失敗となった。今までの培ってきた歩行経験が打ち砕かれた瞬間だった。失敗にもかかわらず、つまらない自身のプライドから樽から水を抜き約25kgの樽を100kmかけて早稲田に運び、一応は完歩となった。しかし失敗には変わりはなかった。自分の肉体、精神力の弱さを本当に恨み、来年強い漢になって早稲田に帰ってくることを誓い頭を丸めた。

そして、この時の尊敬するTさんの言葉に僕は駆り立てられたのであった。

「数年前京都から東京まで歩いてから100ハイに参加した人がいる。もう雅人がやるしかないんじゃない?化け物になれよ。100ハイに伝説を残せ。」

それから1年間は瞬く間に過ぎ去っていった。ゼミ。サークルの引退。就職活動。夏頃の就活ではなぜ坊主頭なのかを質問され、度々回答に詰まらされた。(就活を始めようとしている3年生は間違ってもノリで坊主にしてはいけない。覚悟を決めてバリカンを手に持とう。) 

そして、無事に4月の頭に就職活動を終えた。まるで去年のリベンジをしろと言わんばかりのタイミングだった。その晩に僕は「東海道五十三次」を歩くことを宣言し、京都行きのバスのチケットを予約した。それから約1か月、自分の歩きを知ってもらうためにtwitterアカウントの立ち上げや広報用動画の編集をしたり、行程表の作成や装備品を充実させることに終始した。

そして、きたる5月2日。京都前夜入りのバスの出発日。パンパンのリュックにでかでかとボードを携えて東京駅八重洲口に向かった。その時点で旅好きのお兄さんに頑張れと声をかけられたり、バスで隣に座ったおばあちゃんから、「これで熱中症にならんようにアイスでも買いなさい。」と500円玉を手渡され、涙が出そうになった。   

バスに揺られること約8時間。辿り着いた京都駅。この挑戦を知っていたサークルの同期のTちゃんがたまたま京都にいるということで、わざわざ京都駅まで駆けつけてくれて缶に詰まった飴玉をくれた。節子に「これはおはじきじゃないんやぞ。」と言って分けてあげたくなるような飴玉だった。Tちゃんと別れてからの時間は、早く出発したいと疼くワクワクする心と一人ぼっちでガチな困難に打ち勝てるのかという不安で訳のわからないゾワゾワとした感情になった。そして居ても立ってもいられず、そしてせっかくだしということで京都観光をした。(もちろん徒歩で。) まず東海道五十三次の出発地とされる三条大橋を下見し、有名なラーメン店で舌鼓を打ち、京都タワーも見るというこてこてのプランだ。それでも時間があり余った僕は夜中に伏見稲荷大社に向かった。

夜の誰もいない境内はとても神聖な雰囲気だった。(お化けが出そうで本気でびびっていた。) その空間で改めてなぜ、東海道五十三次(500km)+早稲田-本庄往復(200km)の"東海道五十三次ハイク"(700km)に挑戦するかを考えた。それは単なるリベンジの思いだけではなかった。これについては最終話で綴ることにしよう。そんなこんなで伏見稲荷大社を後にし、僕はTさんからの

「化け物になれ、100ハイに伝説を残せ。」

この言葉を思い出しては、はやる気持ちを抑えて出発地である三条大橋近くの24時間営業のマクドナルドで仮眠を取り、出発の朝を迎えるのであった。

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出発前のいわゆるepisode0はこれでおしまい。ここからが本当の"東海道五十三次ハイク"のはじまりはじまり。

この歩き旅から半年経った今だから語れる馬鹿話、苦労話まぁそこそこありますよね、そりゃ。全10話くらいで書き切りたいなと思ってるので、なんとなく読んでみたいなと思う人、また旅の装備品などにも触れるので一人旅したいけど知識がないし勇気が出ないという人、もともと東海道五十三次ハイク知ってて、もっと知りたかった!という貴重なフォロワーの皆さん、暇なときにゆるっと読んでください。

次回episode1「最初の関門鈴鹿峠、初日編」


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