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愛知用水と愛知海道の開発思想-愛知用水通水60周年に寄せて-

歩く仲間 柴田英知 連絡先:E-mail. bxf00517@nifty.com

※こちらのスライド集もご参照ください。
https://note.com/arukunakama/n/n874fdbda3d4b?


1.愛知用水と愛知海道をとり上げる理由

日本の第二次世界大戦の戦後初の地域総合開発事業である愛知用水は1961年9月30日の通水記念日より、今年で60周年を迎える。愛知用水は、世界開発銀行の借款を受けており、日本政府とりわけ農林水産省、愛知県、岐阜県、長野県のみならず、木曽川流域と用水路の沿線の多くの地方自治体(市町村)と住民を広く巻き込んだ国家プロジェクトであった。

1955年の愛知用水公団設立後、わずか6年という短期間で、牧尾ダムや調整池に加えて約112kmの幹線水路と約1,200kmの支線用水路を建設し、発電、上水道、工業用水、農業用水などの社会基盤整備をおこなった。その後、引き続き愛知用水の発起人の久野庄太郎らにより姉妹事業といわれた「愛知海道=第二東海道」計画が進められていた。

愛知海道計画は、その後、伊勢湾岸道と国道23号線バイパスとして、60年をかけて実現化しつつあるが、その経緯は忘れられたままである。愛知用水と愛知海道をあわせてみることで、ひとつの土着の草の根からの「地域開発思想」が浮かび上がってくる。ここにSDGsのパートナーシップを考えるヒントが隠されている。

2.文化運動としての愛知用水:「水と共に文化を流さん」を合言葉に

農民から起こった愛知用水期成運動は、愛知県安城農林学校初代校長の農民指導者の山崎延吉と農林大臣を歴任した石黒忠篤という当時の日本の農業界のトップリーダーの指導を受けて、愛知県の桑原幹根知事や地方自治体の首長、農業関係団体、町内会、婦人会、青年団、小学校などと協調して、それぞれの分野で愛知用水受け入れの下準備をおこなった。

重要なキーワードとして、「水と共に文化を流さん」、「日本デンマーク」、「TVA開発思想」、「草の根民主主義」などがあげられる。とりわけ官民をあげての合言葉は「水と共に文化を流さん」であった。地元の農民、住民らの建設推進運動が、地方自治体、愛知県、国家、宮家そして世界銀行を動かしたのである。

愛知用水の建設を久野庄太郎が発起したことは事実である。しかし、久野が当初より師匠の山崎延吉ら地元の有識者や仲間の農民グループらを巻き込み、彼ら彼女らの助言やアドバイスを広く取り入れることにより、結果として「みんなの愛知用水」となった。

特に、中央政界の吉田茂元首相や中央官僚の石黒忠篤元農林大臣などを巻き込むことができたのは、久野が戦中に愛知県一の篤農家として天皇陛下に謁見するほどまでに広く知られていたこともあるが、山崎延吉ら中央官庁に通じた有識者や仲間の口添えがあってのことである。

久野ら期成会のメンバーは、自分たちの地縁・血縁などあらゆる伝手をたどって地元政治家や、受益地の農民や住民に対して啓蒙活動をおこなった。啓蒙にあたって農民や住民がイメージできる具体的な例として、日本デンマークとTVA開発思想をかかげた。

「日本デンマーク」とは、既に愛知県が実現していた大正から昭和初期の農村振興の経験である。「TVA開発思想」とは、アメリカのルーズベルト大統領が広域な地域開発の権限を一元化するために設立したテネシー川流域開発公社(TVA)による河川などの天然資源の一元管理や、タウンミーティングなどによる草の根民主主義による地域開発思想である。

日本デンマークの礎をつくった山崎延吉とTVA開発思想を中央官庁で研究していた石黒忠篤らの指導を受けた期成会は、はやくから「水と共に文化を流さん」という官民一体となれるスローガンを打ちだした。これは農林省が世界銀行の借款を受け入れるにあたって設立した愛知用水公団と後継の水資源機構にも引き継がれている。

3.愛知用水の縦糸、流域間連結をする愛知海道を横糸とする面としての地域開発思想

久野は愛知用水完成後、用水の便益を得られないのに愛知県会で賛成してくれた三河地方の県会議員の恩に報いるために、知多と西三河の地方自治体を巻き込んで東三河の河合陸郎豊橋市長が進めていた愛知海道(のちの第二東海道)の建設推進運動に「小使い」として参画する。

愛知海道計画は、同時期に建設が決まった東名高速道路と機能が競合していたため、なかなか事業化にいたらなかった。期成会は、愛知県、三重県、静岡県と道路沿線の地方自治体を巻き込んで国に陳情したが、愛知用水みたいに同時着工にはならず、結局、約60年かけて、伊勢湾岸道、国道23号線の複数のバイパス区間ごとに五月雨式に工事がなされた。

社会情勢の変化により、当初の計画路線とは異なってしまったが、一部の区間は、ほぼ愛知海道の路線と重なっている。特に西三河地域は自動車産業などの工場の立地が多いが、すべてこの国道23号線バイパスや伊勢湾岸道に簡単に接続できるように道路の配置がされている。

それは当初から、愛知や名古屋の経済産業界や地方自治体や地元の地権者が、愛知海道の建設を見越して土地利用と地域開発について協議を重ねており基本合意をしていたからである。

こんにちでは、「愛知海道」や「第二東海道」という言葉を聞くことは全くない。しかし、これは約60年前に愛知用水をつくった人たちが残したわれわれへの遺産なのである。

愛知用水を縦糸とすれば、愛知海道は横糸にあたる。久野ら計画者は、愛知用水による木曽川の上下流連携と、愛知海道による3つの河川流域の連結(木曽川の愛知用水、矢作川の明治用水、豊川の豊川用水)により、水資源などの再配分と地域開発の面への展開をはかろうとした。

なお、久野の情熱の裏には、二宮尊徳の報恩の思想や西田天香の下座の思想、実践人である森信三など、在野の実践家や思想家たちの影響があったことが明らかになりつつある。

<参考資料>

柴田英知、2019、『一人雑誌『躬行者』と「愛知用水の久野庄太郎」-忘れられたままの愛知海道(第二東海道)-』、名古屋市立大学大学院人間文化研究科修士論文
高崎哲郎、2010、『水の思想土の理想世紀の大事業愛知用水』、鹿島出版会
筒井栄太郎編著、1969、『手弁当人生-愛知用水と久野庄太郎』、黎明書房
久田健吉、2020、『大欲の菩薩道に生き、哲学者として生きた愛知用水の父 久野庄太郎-知多の哲学者シリーズ⑦-』、ほっとブックス新栄

※中部ESD拠点SDGsフォーラム2021 2021年2月6日(土) オンライン開催 【第2部】SDGs地域課題・活動発表セッション A会場(経済1) A-2 にて報告。同資料集  p23-24に収録。

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