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そしてヒトがたりの時代へ【プリンシパル①】

モノ・コト消費、つまりモノの消費からコト(あるいは物語)の消費への移行がいわれるようになって、すでに久しい。すべてを消費に結びつけるのもどうかと思われるが、モノそしてコトの次の来るのがヒトそのものではなかろうか。わたしは、そのように考えている。

ところで、漢字に物語という言葉がある。つまり、モノを語ることが物語である。一方、英語にヒストリーつまり歴史という言葉がある。その起源が「彼の物語(He+Story)」であるともいわれているようだ。

英語のヒストリーの語源としてそれが本当に正しいかどうかはわからない。しかし、漢字の「物語」と英語の「ストーリー」それらに共通に言葉(単語)の字面から抜け落ちてしまっていることがある。

つまり、「誰が(誰に)何を語るか」という主語と目的語と語る対象である。もっとも「誰が(誰に)」という部分については不特定の「誰か」であってもかまわないかもしれない。この部分は、語られるコンテクストによって、少なくも当事者にとっては明瞭である可能性があるからだ。

モノがたりは、「誰か」が(「誰か」に)「モノ」について語ること。
コトがたりは、同じく「誰か」が(「誰か」に)「コト」について語ること

では、わたしが提唱する「ヒトがたり」とは何か。それは、どこかの「誰か」ではない、特定の「ヒト」が、「モノ」、「コト」そして「ヒト」について語ること。

語るヒト(主語)と語られるヒト(目的語)を、明示的にしましょうということでもある。どこかの誰かが言った物事は、デマとか噂話とか都市伝説とか、いろいろな言い方があるが、その意味や価値を否定するものではない。

ただ、あまりにどこの誰ともわからないヒトの言説に振り回されていませんか。「客観性」を追求してきた近代的な科学観のパラダイムから、もう一度、ひとりひとりの「主観的な」個人レベルにまで、世界認識のまなざしのレベルを下げる、ひとりひとりの「ヒト」の主体性を取り戻すために。

わたしは、個人の経験や体験が絶対的な真実であるとかすべてだとは思っていない。しかし、それらの経験や体験のすべてを「客観的」な「一般的」なものに「抽象化」して、さらには「構築」したり「脱構築」しなければならないとも思わない。

確かに学問や実社会でも、事実から帰納法的に物事(モノとコト)を抽象的に理解することは必要であるし有用でもある。同様に「演繹法」的に、理論からあるべき物事(モノとコト)を探ることも必要かつ有用であったことも事実である。

ただ、個人のレベルでいれば、正しいであろう「客観的」で「抽象的」な物事(モノとコト)はなんとなくよそよそしいと思いませんか。さらにいえば、同じ物事について語られても、ある人からいわれれば、すぐにわかったりしたがえるのに、別の人からいわれたら、訳がわからないとか言わんとせん事がわかったとしてもそれを聞きたくないとか。

このように、国際共創塾では、「客観的」で「抽象的」な「モノゴト」よりも、誰が誰に何を語るのかという「ヒト」に着目したい。誰(あるヒト)がどのような「モノ」、「コト」さらには「ヒト」について、誰(相手のヒト)に対して「主観的」に「具体的」に語るのか。

あまりにも人間くさい「ヒトがたり」の中にこそ、人間の可能性と未来への希望をつなげたい。そういえば、人という漢字自体、二人の「ヒト」がお互いに支えあっている。人間は、「ヒト」と「ヒト」の間(にしか生きられないこと)を示しているともいわれている。

きわめてあたりまえでオーソドックスな「ヒト」と「ヒト」が語り合う場を国際共創塾では提供したい。ここには「客観的」な事実や真実よりも、メンバーそれぞれが、「主観的」に大切にしている事実や真実を尊重したい。

なぜなら個人個人の「ヒト」の尊重こそが、「モノ」や「コト」とは異なる人間の証であるから。仮に整合性や統一性がないのだとしても、それが、人間社会の多様性(ダイバーシティ)そのものであるからである。

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