私が看護師の保健室をはじめた訳

このノートでは私の自己紹介と共に、私がどうして保健室を始めたのかと、私の看護師挫折経験について語っています。
看護師の方はもちろん、こういう看護師もいるんだなーって感じで看護師ではない方にも読んでいただけると嬉しいです。

※現在は保健室をお休みしていますが、当時を覚えておくためにも残させてください。以下の文での名前等は現在とは異なりますのでご了承ください。

ありぃの紹介

はじめましての方もフォロワーさんもこんにちは。
ありぃと申します。

Twitterでは ありぃ@看護師のための保健室 という名前で発信しています。

看護師として生きるのが辛いという人が前に進めるように、必要な時に自分を守れるように日々発信を続けています。

患者さんのために一生懸命な看護師。
色んな環境があるとは思いますが、基本的には命と隣り合わせ。
知識に基づく様々な観察力と判断力、そして体力が必要で、とっても大変です。
人間関係も、そこそこ(かなり)大変だと思います。

もしも、人間関係めっちゃいいよーという方がいらっしゃいましたら、恵まれてます!羨ましい!実は結構レアですよ!と言わせてください。

そんな看護師の中で、今後について悩んでいる人たちがちょっと心を休める場所になりたいと思って、保健室を名乗っています。

これからについてのお悩み相談をして、ゆるく休んで、自分の行く道を決めたら出ていく。

そんな所を目指しています。

そんな感じでツイートしていたところ、内容少し重いから、noteに書いてみたらいいんじゃないかな?と、友人兼私のTwitter師匠のはなちゃんに言われたので、思いの丈をnoteにぶつけることにしました。

長くなってしまいましたが、読んでいただけると嬉しいです。

私の看護師プロフィール

入職~休職まで


私は都内のとある大学病院で、7年近く消化器外科看護師として勤務していました。
院内で一番怖いと言われる病棟で、1年目からなかなかなパワーハラスメントを受けてきたと思います。
少し挙げれば、

〇常に否定される
〇方言禁止
〇先輩が知らないことを知らなくて怒られる
〇インシデントで濡れ衣を着せられて、関係ない先輩からめちゃくちゃ怒られる
〇できない子とレッテルを貼られる
〇あれこれ理由をつけて、過剰に受け持ちを制限→かと思えば突然重症患者のみの受け持ち

という感じでした。
これが、1年半近く続きました。
(その後もこの時のレッテルは残りました)

毎日泣きながら、必死に勉強して日々を過ごしました。
何度も辞めたいと師長に泣きつき、その度に「外に行ったらうちよりもっと大変。せっかくここまで頑張ったんだから」と説得されてなんとか続けていました。

当時私には教育担当(プリセプターみたいなもの)がいたのですが、親身になって話を聞いてくれて、本当に助けられたのを覚えています。
勤務終わりにごはんに行って、泣きながら慰めてもらっていました。

合わない同期がいましたがそれも乗り越えました。

やりたいと希望したことも全部叶わず、まったくやりたくない委員会を数年間やらされましたが、それも耐えました。

辛かったけど、私にとって看護師は天職でした。

患者さんと日々接するのが本当に楽しかった。

自分のすべてを使って、入院期間を一日も無駄なく過ごしてもらいたい。
死を迎える方には、できる限り心穏やかに過ごしてほしい。

時には認知症患者さんの暴力暴言もありましたが、それが嫌で辞めたいと思ったことは一度もありませんでした。

年数が上がってからは、居心地は悪くないけど良くもない、という状態でした。
看護の質としては、かなり良いものを提供している自負はありましたが、
職場環境の悪化により、思ったように看護できないのもストレスでした。

やりたいこともやらせてもらえないし、もういいかなと思って、7年目の夏前に退職願を出しました。
(前職は年度末にしか辞められず、夏前に退職表明をしないといけませんでした。一般的にはおかしいけど、病院では普通です)

そんな感じで気持ち的にはのんびりと日々が過ぎていきました。

残りの月数が片手で数えられる、とある夜勤の日でした。
うっかり見つけた1冊のノート。

それは、私が新人の頃の「教育担当者ノート」でした。

もうすでに辞める気だったし、後輩教育もしていたので興味が沸いて開いてみました。

内容は、なかなかひどいものでした。
基本的には人格否定。
できてないことの羅列。

そして、信頼していた教育担当の一言。

「この子に問題があると思います」

さらに、そのノートは1年目の途中で終わっていました。
私の教育は2年目まで続いたのに。

やったこと、やってないことが共有されていないし、突然受け持ち患者の重症度は変わるし、いつまで経っても独り立ちさせてもらえないと新人の頃思っていました。

なにも記録が残ってなかったからか。

力が抜けました。
その時は涙も出なかったような気がします。
あまりその後の記憶はありません。

次の日、友達とランチして泣いて、「ああ、もう無理だな」と自覚しました。

普通に看護師として生活して、幸せな人生を望んだだけだったのに。

どこで歯車が狂ってしまったのか、私にはわかりませんでした。

次の日の勤務は、吐き気と涙との戦いでした。
なんとか早退をもぎとり、早退しました。

そしてもう、病棟に戻ることはありませんでした。

休職

そんな感じで休職期間が始まりました。

すでに結婚していましたが、この頃家事は何もできませんでした。
何かを選ぶ、という行為ができなくて、メニューも考えられないので料理も作れず……。
これ以前から恐らく限界を迎えていました。教育担当ノートは単なる引き金だったようです。

常に体が重くて、眠くて眠くて仕方がありませんでした。
1日に何度か、発作のように先輩たちに怒られた情景とか、笑われている情景がフラッシュバックして、泣きました。
自分が不甲斐なくて悲しくて、悔しくて、泣き叫びました。
眠るとうなされて、目が覚めました。

この時は母と夫にかなり助けてもらいました。

母は泣き叫ぶ私を抱きしめてくれました。
一緒に泣いてくれて、病院に電話をかけるだけで不整脈が出て過呼吸になる私の代わりに、手続きを行ってくれました。

夫は、家で日々眠って過ごす私を一度も怒ることはなく、「休みたいだけ休んだらいいよ」と言ってくれました。
「その代わり、ハゲて太って臭くなっても、捨てないでね」
そう言われて、久しぶりに笑いました。

冬だけど、「植物を育てたらいい」と母が言いました。
ふたりで小さな鉢と種と観葉植物を買ってきて、室内で育てました。
芽が出て大きくなるのが、本当に嬉しかった。

ようやく外に出て、散歩をするだけの体力が戻ってきました。
今まで家と病院の往復だったので、近所でも知らないところがたくさんありました。

冬の日差しが、とても暖かかった。

時折父から電話があって、ゆっくりと話をしたりもしました。

そうやって、少しずつ日常を取り戻していきました。

退職まで

休職し始めてから1か月くらい経った頃、同期から会えないかと連絡が来ました。
かなり元気になっていたと思っていたので、了承しましたが、会う日が近づくにつれ、フラッシュバックがひどくなり、状態が悪化しました。
結局会うのは辞めました。

それからさらにひと月後、また同期と会うことになりました。
今度こそ大丈夫、と思って私から誘ったのですが、教育担当から「大丈夫~?」という軽い連絡があり、症状悪化。
再び断念しました。

元々申請していた退職月になり、送別会のお誘いもありましたが今度は断りました。(学んだ)

退職までは日々鬱々としていて、退職するまでは自由なんてないと思っていました。
外食することでさえ罪のように思えて息苦しくて仕方ありませんでした。

退職してから

なにも考えず外に出られることが幸せでした。

誰にも気兼ねすることなく、外食に行けました。

好きなことをすると決めて、たくさん好きなことをしました。

昔から乗ってみたかったバイクの免許を取りに行ったり、行きつけのお店を作ってみたり。
Twitterを始めてみたり、オンラインサロンに勇気を出して入って、オンラインで知り合った人と初めて会ってみたり。

再就職は少し手間取りましたが、ご縁があって今は一般企業で働いています。
本当に、ありがたい話です。

看護師を支えたいと思った

休職する前から、看護師の労働環境を疑問に思っていましたが、この頃には看護師を支えたいという意思が明確になっていました。

私のように、自分を責めて、他人を恨んで、人生に絶望する苦しみを味わう人をなくしたい。

私は看護師が天職だと思っていました。
でも、続けることはできませんでした。

だからこそ、臨床で頑張る看護師を支えたいと思いました。

看護師が「看護師として生きていて幸せ」とそう笑える世界をつくりたい。

それが今の私の夢です。

看護師は外の世界を知った方が良い

普通の人にも看護師の現状を知ってもらわないといけないと思ったのもあり、Twitterで発信を始めました。

私の例は特別ひどいわけではありません。
自分が特殊な経験をしたのかと思っていましたが、何人もの看護師が同じような環境にいることを外に出て知りました。
そして、看護師の世界がとても特殊であることも、知りました。

看護師はもっと、外の世界を知った方がいい。
そうすることで、より良い環境を目指していけるから。
悪いものと比べるのではなく、良いものと比べて取り入れていけばいいと思います。

例えばですが、医療安全は航空安全を基にしているそうです。
CAさんは乗客の命を守る保安員として勤務時間の規定があり、4日勤務2日休みのシフトをベースに動いているそうです。
勤務時間の規定や休日規定もされているようです。

そういうことを看護師が知っていくことが大切だと、私は思うのです。

おわりに

長い文章をここまで読んでいただき、ありがとうございました。
ここまでさらけ出すのも恥ずかしいとは思ったのですが、書くのもなかなかおもしろかったです。

休職中で、今後に不安や焦りを持っている、という方からご連絡を頂くことも増えました。
読んでいただいてわかると思いますが、心の回復って、結構時間がかかります。
私も結局1年近くかかってしまいました。
必要な人が休むための制度はたくさんあります。
ゆっくり休んで、段階を追って戻ることが大切です。

看護師ではない方の中には、ドロドロさにびっくりされた方もいらっしゃるとは思いますが、これが看護師の現状の一つであることを覚えていてくださるとうれしいです。

今後noteを書くかは未定ですが、Twitterには住んでいるので、何かあればこちらまでどうぞ。

ここまでお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

Special Thanks
私のTwitter師匠。note書いたらと言ってくれた人。いつもありがとう♡


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