夏の終わり、世界の端(4)

 松本駅で特急を降りて、電光掲示板で次の電車の発車時刻を確認する。記された時間は30分後となっていた。

 ホームに下りると、目的の車両は既にドアを開けて賢人を待っていた。中にはちらほらと乗客の姿が見える。賢人は近くのドアから乗り込んで、空いていた座席に腰を下ろした。

 10時半を回った松本の町は、明るい日差しを受けて輝いて見えた。天気予報で確認してきた通り、快晴の空が広がっている。大学に入ってから毎年訪れているが、遠く離れた町に来たこの高揚感は、色褪せることはなかった。

 2回目に安曇野のあの場所を訪れたときも、今日のように快晴だった。

 初めて見たときと同じような光景が広がっていた。見たことのある景色だったのに、初めて見たときの感覚が蘇ってきて、2回目ではないような気さえした。

 解放感と自由は、何も変わらなかったのだ。賢人が求めていたものは、依然としてそこにあり続けた。

 隣にいた陽介と何かを話した。この場所が好きだと彼は言った。そして笑った。彼はよく笑う。あの場所で、いつも通りの笑顔を見せた。

『世界は広くて、俺は自由なんだよ』

 そのときの陽介の言葉が、何故だか心に残った。

 意味がよくわからなかった。どういうことだよ、と賢人が尋ねても陽介は誤魔化すように笑うばかりで、その意味を教えようとはしなかった。何故だかはわからない。でもきっと何かを思って、そのときは教えようとしなかったのだろう。

 翌日は別行動だった。賢人は1人で松本の町を歩いた。そして帰りの電車の時間になって、賢人は住み慣れた町へと帰った。

 陽介の言葉の意味がわからないまま、賢人は日常へと戻っていった。

 その言葉の意味を理解できたのは、1年後のことだった。



 3回目は、陽介からの誘いだった。

 アルバイトを終えた、夜の帰り道のことだった。大学に入って3回目の春が終わって、初夏を迎えたころのこと。

「賢人、また、9月にあそこ行こう。安曇野」

 相変わらず毎日のようにシフトに入っている陽介は、やっぱり眠そうな顔をしていた。

 学年が上がっても彼は頻繁に旅に出て、あっちへフラフラこっちへフラフラ、国内外を回っていた。陽介の携帯電話にはあちこちの風景の写真が収められている。フランスのエッフェル塔や、オランダの運河、インドの町並みに、名前も知らないどこかの国のどこかの町。

 賢人はそんな陽介の姿を見ながら、相変わらずなんとなくの日々を過ごして、気がついたら3年で、大学を出た後の将来が存在感を増し始めていた。焦りと不安、そして恐怖に近いものが頭の中に広がる。

 変わらない毎日の中で、自分は何をしてきたのか。意味もないような時間がただ流れたような気がしていた。ぼんやりとしていて、どこか息苦しかった。

 あるとき、賢人はふらりと町の外に出た。なんだかよくわからない閉塞感を振り払うようにして電車に乗って飛び出した。目的地も決めず、最低限の荷物を持って歩き出した。気がついたら目の前には海が広がっていて、波の音が聞こえていた。

 旅とは呼べないような、そんな行動を取った理由はいまいちわかっていない。でもきっと、どこかへ行きたかったのだろう。ここではない、どこかへ。息苦しさも閉塞感もない、自由だけが存在するどこかへ。

「……うん、行こう」

 やった、と陽介は笑う。

 賢人にとってあの場所は特別だった。きっと陽介にとっても、何かがあるのだ。毎年訪れるだけの何かが、世界中を飛び回っているような彼が、わざわざ足を運ぶ何かがある。

 そしてその時間に、わざわざ賢人を誘う。2年前に初めて訪れたのも、陽介の誘いに乗ったからだった。陽介があの日、長野に行こうなんて言わなければ、賢人はきっと一生あの景色を見ることがなかった。知らないままの世界だった。

 隣を歩く陽介の横顔を窺う。自炊に失敗した話をしていた。肉じゃがを煮込み過ぎて、ジャガイモがペースト状になったことで具が鍋の形に固まったらしい。くだらない話をする陽介は本当に楽しそうだ。

 賢人はこの2年と数ヶ月、楽しそうな陽介の姿しか見たことがなかった。楽しくない時間が、一瞬でもないかのように思えた。そんなことはないとわかっていても、陽介を見ているとそう思えてしまった。そしてそう感じるたびに、自分との差のようなものを思い知らされているようだった。なんとなくの日々で、よくわからない時間を過ごしている自分との、圧倒的な差。

「じゃあ、また9月の始めでいい?」
「おっけ」

 こうしてまた小さな約束をして、あっという間に夏本番を迎えて、気がついたときにはもう終盤に差し掛かっていた。なんとなくの時間のくせに、過ぎ去るのは本当に早い。

 そして9月の始め、夏の終わりを残した季節に、陽介と旅に出た。

 いつもと同じように特急に乗って、松本で乗り換えて小さな駅で降りる。お決まりとなったコインロッカーに大きな荷物を預けて身軽になり、目指すのはあの場所だ。

 空が青い。風が吹き抜ける。視界が開ける。稲穂が揺れる、わずかな音が聞こえる。

 道が、真っ直ぐに伸びていた。

 隣で陽介が、あああああと言い始めた。ぎょっとして隣を見ると、ははは、と笑った。

「なんだよどうしたよ」
「なんか、そんな気分?」
「意味わかんね……」
「わかれよー」

 陽介がひじで賢人を小突いた。わからん、と答えるとまた笑って、そして前を向く。何がそんなに楽しいのか知らないが、陽介が楽しいならそれでいいか、と思えてくる。

「よいしょっと」

 陽介は道端に腰を下ろした。座り込むなんて珍しい。

「そう言いながら座るようになったら終わりだぞ」
「うるさいな。たいしてよいしょって思ってなくても言っちゃうもんだろ」

 賢人を見上げた陽介は、自分の右隣の地面を叩いた。

「さあ賢人。お前も座るんだ。座るがいい」
「何を企んでるんだお前」
「ふふ……俺が何も考えずにお前を誘ったとでも?」

 陽介は悪人面で笑った。面倒くさくなった賢人が素直に腰を下ろすと「なんでホイホイ座るんだよ!」と陽介は大げさに悲しんだ。忙しいやつだ。

「普通さあ、もうちょっとさあ……何かするもんだろ?」
「面倒なやつだな。用件は何ださっさと言え」

 賢人の馬鹿野郎、という声が聞こえたので軽く肩を殴りつけておいた。すると大人しくなったので、そのまま陽介が話し始めるのを待つ。

「この場所、じいちゃんが教えてくれたんだ」

 賢人は隣の陽介に視線を移した。陽介は、目の前に広がる水田を見ている。

「俺、けっこうじいちゃん子だったんだ。親がよく連れて来てくれてたのもあったんだけど、この近くに住んでるじいちゃんの家に1人で泊まりに行くこともあって。ばあちゃんは俺が生まれたばっかのころに死んじゃったから、じいちゃんも寂しかったのかもな。俺が行くと、いっつもすごく嬉しそうに迎えてくれるんだ」

 陽介の横顔からは、いつもの眩しいくらいの笑顔は消えていた。穏やかな、見たことがないくらいの優しい表情で、前を向いて話していた。

「俺、高校生のときに、学校行けなくなったんだよ」

 え、という声が賢人の口から漏れた。それはあれか、いわゆる、不登校というやつ。賢人が中学生のときも高校生のときも、学年で1人か2人はいた。しかし普段の陽介の、馬鹿みたいに明るくてよく笑って、楽観的な姿からはイメージできなかった。

「部活もきつかったし、進学校だから勉強もしんどかった。課題もめっちゃ出されてさ、紙の無駄って思うくらい。あとはクラスの雰囲気に馴染めなかったんだ。俺、クラスって苦手なんだよなあ、あそこだけで世界が完結してるみたいな感じが。そこに上手く入れなかったやつはどうなんのーって感じ」

 前を見たまま、陽介は少し困ったように笑った。横顔に浮かんだそんな笑顔は、今までに見たことがなかった。

「部活は朝練行って、昼休みも練習して、放課後も。そのあとフラフラになって勉強して課題とか、次の日の予習とかやってたな。4時間くらい寝て、また朝練。そんなふうに頑張っても、死にそうなりながら学校行っても、勉強も部活もいまいち結果は出ないし、クラスには馴染めない。それでもそんなふうに過ごすのが当たり前だった。そうやって頑張るのがその世界の常識で、ルールだったんだ。そこから外れることなんて考えないよ。考える余裕もないんだ」

 みんながやっているから。そうするのが当たり前だから。誰が決めたのかよくわからないルールの中で、無理やり足を動かして進んでいく。陽介が語る言葉の意味が、痛いほどに感じられた。

「高2になったころかな。2年のクラスの雰囲気がいちばん苦手だった。部活も勉強もついて行けない。親ともうまくいかなくて、家の中でも居場所がない。顔を合わせれば口論になって、どうすればいいかわからなくて、ただ布団被って馬鹿みたいに泣いてたときがあった」

 布団はいつでも俺の味方だったんだよ、と冗談みたいに笑った。

「担任の先生ともうまくいくわけがなくて、だんだん保健室に入り浸って、部活は早退して、家で寝てるようになった。でもまあ、実家だし親いるし、そこでまた言い争いになって、甘えるななんて言われて――息ができなくなったんだ」

 息ができなくなった。それがどういうことを意味するのか、賢人には正確なことはわからなかった。でもそう言い表すことしかできない何かが、生きることに必要なものでさえ十分に手に入れられないほどの閉塞感が、そこにあったことを知った。

「頭が真っ白になったよ。俺、甘えてんのかって思った。そうか甘えてたのかって、みんなもっと頑張ってるのかって。自分がすごく駄目な人間に思えた。つらいとか苦しいとか、俺が言っちゃいけないんだって。そんな言葉は、もっと頑張ってる人のためにあるものだから」

 陽介の言葉が痛かった。陽介は淡々と話していた。少しだけ困ったような顔をして、時折賢人に笑いかけて、自分の傷をさらけ出していた。そんな姿を見ていると、彼の言葉が余計に痛かった。

「気がついたらさ、包丁持って左の手首にこう、押し当ててたんだ」

 陽介は何かを持つように握った右の拳を、左の手首のあたりに押し付けた。

 ごめんなこんな話して、と苦笑いする陽介に、賢人はただ首を横に振ることしかできなかった。

「死のうなんて思ってなかったはずなんだけど、なんかそうしちゃったんだよな」

 たぶん、ただ逃げたかっただけなんだよ、と陽介は続けた。

 死にたくはなかった。逃げたかった。ここではないどこかへ。息苦しさと、閉塞感と、死にたいとさえ思えてしまうほどの苦しみがない場所へ。

「でもなんか知らないけどさ、できなかったんだ。死にたい、死にたいって思いながら馬鹿みたいに泣いて、でも自分の手首切れなくて、全部の貯金だけ持って家を飛び出した。どこに行くのかもわからないのに。そうやってただ逃げて、気がついたら、安曇野のじいちゃんの家に着いてた」

 どうやってそこまで行ったのか覚えてないんだけど、と陽介はまた苦笑した。

「何時ごろだったかなあ、たぶん、昼過ぎかな。平日にいきなり来た俺を見て、じいちゃんちょっと驚いて、でも笑って、よく来たなって言ってくれたんだ。小さい子供にするみたいにさ、こう、頭に手を置いてぽんぽんって。じいちゃん、俺がいくつになっても会ったときにはそうするんだよ。そしたら本当に子どもみたいに、馬鹿みたいに泣いちゃって、でもそしたらじいちゃん、よく頑張ったなって」

 遠くを見る陽介の横顔は穏やかだった。こんな話には似合わないくらい優しかった。

「じいちゃんは何も聞かなかった。ただ家に泊めてくれて、美味いメシ作ってくれて、一緒に散歩に行って昼寝して、夜はくだらないことをたくさん話した。親からは何も連絡が来なかったから、きっとじいちゃんがうまいこと言ってくれたんだろうな。そんな感じで、1ヶ月くらい居候してたよ」

 少しだけ強い風が吹き抜けた。前髪を揺らす風に、陽介は目を細めた。

「この場所、じいちゃんが連れて来てくれたんだ。じいちゃんのお気に入りの場所だって言って。空が綺麗で、風が気持ちいいだろうって」

 よいしょ、と陽介は立ち上がった。そのまま道路の真ん中まで歩く。後ろ姿が、ほんの少しだけ遠くなる。

「世界は広くて、お前は自由だって教えてくれた」

 そう言って振り返った陽介は笑っていた。どこまでも自由な笑顔だった。

 1年前に聞いた言葉の意味は、今この瞬間までわからなかった。世界の広さと、自分が自由であることが何を意味するのか知らなかった。

 閉じこもっていた小さな空間は、広い世界のほんの一部だった。閉塞感も息苦しさも、そんなものは自分で放り投げてしまえばよかった。自分のことを、自由にしてやれるのは自分だけだった。

「今、俺がいるこの場所が世界の端っこだとしても、どこにだって行けるんだ。繋がってるから。端っこから思いっきり飛び出して、広い世界を見て回って、そんなふうに生きていけるんだよ。世界は広くて、俺は自由だから」

 賢人、と陽介は名前を呼ぶ。子供みたいな笑顔で賢人を呼ぶ。

「俺は自由が好きだよ」

 馬鹿みたいに青い空を背景に、陽介が立っていた。稲穂が揺れている。山々の緑が濃い。圧倒的な解放感。泣いてしまいそうになるほどの、自由。

 そのとき初めて、陽介が賢人をここに連れて来てくれた理由がわかった気がした。陽介は、ここにあるものを賢人にくれたのだ。本当は賢人のすぐ近くにも存在していて、手を伸ばせば触れることができたのに、見えなくなっていたものだ。自分で自分を縛り付けて、思うように動けない中で立ち止まってしまっていた賢人に、陽介は大きなものをくれた。

「陽介」
「うん?」
「ありがとう」

 ここに連れて来てくれた。話を聞かせてくれた。陽介の存在がなかったら、賢人はなんとなく生きるままだった。

「俺、何もしてないけどな」

 はは、と陽介は笑う。ほらお前も立て、と賢人の手を引く。そのときにうっかりよいしょ、と言ってしまって、吹き出した陽介を軽く殴りつけた。

「というわけで俺、来年、休学するわ」

 次の陽介の口から飛び出た言葉に唖然とする。このタイミングで休学する。冬から少しずつ就職活動が始まろうという、このタイミングで。

「世界一周するんだ」
「……世界、一周」

 ただ陽介の言葉を繰り返す。うん、と陽介は頷いた。

「これ言おうと思って来たんだよ。就活はどうするんだよってさんざんいろんな人に言われたし、最終的には認めてくれたけど、親ともひと悶着あったし。正直、賛成する人は誰もいなかった」
「そりゃあな……」
「でもここでならちゃんと言える気がしたんだ。じいちゃんが応援してくれてるみたいで」

 じいちゃーん、と叫んで、陽介は頭上の青空に向かって手を振った。その姿を見て察する。おそらく彼の祖父は、もう会えるところにはいない。

 賢人が考えていることを察したのか、陽介は言った。

「俺がじいちゃんの家に転がり込んだ次の年に突然倒れてさ、そのまま息を引き取った。俺が駆けつけたときにはもう遅かった」
「もしかして、明日って……」
「うん。墓参り」

 お盆はなかなか行けないからと陽介は言った。アルバイトの学生も大半が帰省してしまうから、陽介は人手が不足するその時期もシフトに入っている。

 別行動となる2日目に陽介が何をしているのか、今までずっと知らなかった。聞くこともできなかった。付き合わせるのも悪い、と言った陽介の表情を思い出す。

 ふと、会ってみたかったと思った。陽介が頼りにした人だ。つらくて苦しくて、どうしようもないときに助けてくれた。そんなときが陽介にもあった。楽しい時間しかないなんて、やっぱりあり得なかった。でもそんな時間があったから、今の陽介がここにいる。全力で、眩しいほど自由に笑う陽介が賢人の隣にいる。

「というわけで賢人、来年は俺に会えないけど、ちゃんと頑張るんだぞ」
「お前は俺の何なんだ」
「えー、親友?」
「ただの友人Aだアホ」
「Aはひどい! さすがにそれはない! それにそこはAじゃなくてYだろー、陽介のY」

 口をとがらせる陽介にはいはい、と返せば、拳で肩を軽く殴ってきた。ご不満のようだ。

「くそー、友人K」
「なんだ、友人Y」
「……今思ったんだけど、なんかコードネームみたいで格好いいな?」
「1人でやれ」

 ばっさりと切り捨てたら陽介は肩を落とした。その姿が面白くて笑ってしまう。すると、笑うなよ、と怒られた。

 旅の1日は早かった。じゃあまた、なんて言って別れて、1人の2日目が始まる。松本の町を歩いて、帰りの電車に乗った。

 そして住み慣れた町に着くころ、賢人は1つの決断をした。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

ありがとうございます!!!
4

宮里イツキ

夏の終わり、世界の端

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。