見出し画像

麻子ママの新人時代 #スナック麻子

スナック麻子へようこそ。

平成最後の日、みなさまいかがお過ごしでしたでしょうか。

麻子ママは表参道(東京)の職場で仕事をしていました。

海外メーカーとのやり取りが中心なので、ゴールデンウィークでも業務に影響なく。メールをいれると時差や物理的な距離を飛び越えて返信がくる。ああ、世界が近いなっておもいながら働いています。

ここまでくるのに21年かかりました。

あっという間だったし、長かった。

そんな時期を振り返ります。

***

「超・氷河期」な就職活動

昭和49年生まれ、団塊ジュニア世代のママたちは「超・氷河期」な就職活動をおくりました。書類を出しても返事がこない、試験を受けても1次で落ちる、面接までいってもさようなら。この繰り返しでした。

学部で映像制作に関わっていたこともあり、メディアや代理店志望でしたが状況は厳しかった。学科は「文芸」という物書きを輩出する場所だったにも関わらず、チームで作品をつくる楽しさを1年次に知ってからは寝ても覚めても撮影のことばかり。

これが仕事になったらどれだけ幸せなんだろう。

夢は叶う、と信じて挑んだ就職活動でしたが、現実はそう思い通りにいかず。

フリーターという道を選んだ同級生もいるなか、慣れないリクルートスーツを着て「コマーシャルフォト」(玄光社)の求人欄にある会社をかたっぱしからあたり続け。

4年生の秋、とあるテレビコマーシャル制作会社の内定をもらいました。

「プロダクション・マネージャー」という、企画から納品、請求までを管理する制作職での採用。テレビがまだ勢いがあった時代に、化粧品メーカーや写真フィルムのコマーシャルをつくっていた会社でした。

採用が決まって嬉しかったし、ほっとしました。

わたしを含め4名が採用。残り3名は男子で、うち2人はディレクター職でした。会社全体で20名弱程度、30代~40代がメイン。今回の新卒採用で「体制を若返らせたい」との意向があったと面接でききました。

ようやく夢のスタート地点に立てた。そう感じました。

学生と社会人の違いを目の当たりに

卒業を控えた3月、「もし来れるならアルバイトしないか」と連絡があり「行きます!」と即答。早く現場に慣れたかったし、なによりコマーシャルの世界に関われるんだというミーハー心もありました。

初日の挨拶もそこそこにさっそく絵コンテ作成を頼まれ、撮影の準備を手伝い。クライアントによって買い出しのお菓子や飲み物の銘柄を変えたり、タレントさんのプロダクションによって対応が違うことに驚きました。

予算という概念も。制作費の内訳をみて、広告のカラクリをはじめて知りました。学生時代に「芸術」の名の下につくっていた映像と、社会人としてスポンサーをつけて費用対効果をモニタリングしているコマーシャル映像は別物でした。

奇しくもテレビが密着していた、有名なクリエイターさんの現場に立ち合わせていただくことになり。深夜にその番組が流れわたしがちょこっと端に映っているのをみつけた同級生から「もう現場に出てるんだ!」と驚いた連絡がきたのも懐かしい思い出です。

とはいえ。しょっぱい経験の連続でした。

年功序列で男社会。代表電話のコールを三回鳴らすと椅子を後ろからけられ「呼び出し音1回で出るのは早すぎる、3回以上は待たせて申し訳ない、2回で出ろ」と教えられ、40歳を過ぎたいまでもその癖が抜けません。

男女の差をつけずに扱ってくれ、重い機材は平等に新人4人で持ちました。広告代理店での深夜からの打ち合わせで、先方のクリエイティブ・ディレクターが「三宅ちゃん(ママの旧姓)も参加か、女の子なのに大変だね」とねぎらってくれ逆にびっくりしたくらいです。

ゴールデンウィーク。久しぶりに静岡の実家に帰省したのもつかの間。翌朝に先輩から携帯に連絡がはいり「明日、急きょ撮影になった。朝6時に会社集合な」。父がそれを聞くと静かにうなずき「大変な仕事なんだな」と車で駅まで送ってくれました。帰りの新幹線でひとり、目がはれるまで泣きました。

不規則な生活が続き、友だちと約束し飲みにいったり、どこかに出かけることのハードルが高すぎて次第に疎遠になりました。いわゆる「普通の会社勤め」をしているひとの時間帯とずれにずれまくっている日常。仕事のある日に自宅で自炊することはほぼ、なくなりました。

土日も仕事がある。打ち合わせの終わりが26時(午前2時)だったり、編集立会いの終わりが29時(午前5時)だったりすると曜日感覚もなくなりました。制作費からタクシー代が出る時代だったので会社に寝泊りすることはなく、基本的に仕事後は帰宅できたのには助かりました。

指導をうけないままに取り組んだ仕事はことごとく失敗。ロケハンに行っても肝心なポイントを押さえず撮影したムービーは失笑される。撮影資料をつくるためにTSUTAYAで何本もビデオを借りて必要なコマを抜き出すのに、肝心の機材がうまく使えない。段取りが悪く、試写の時間に遅れて監督含め大御所から無言の叱責を受ける。免許取得したてで公道で逆走する(!)。

仕事のできない新人でした。

荒かった鼻息も、あっという間に静かになりました。

幸運にも心身に不調をきたすことはなかったけれど。

この生活があと20年、30年続けられるか。

悩み始めてもいました。

機材を借りに行った先や、撮影現場、オーディション会場で同級生たちと再会するたびに、同じ業界で働いているという連帯感みたいなものを感じ、在学中はそれほど親しくなかった相手であってもわたしたちは笑顔で連絡先を交換しました。

大なり小なり、みな同じような経験をして。学生時代に描いていた社会人の自分と現実とのギャップにもがいていました。

大げさなんだけど、ともに「この新人時代を生き抜くんだ」という気概が当時のわたしたちをつなげてくれていたようにおもいます。

***

わたしは夢から逃げたんだろうか

ほどなくしてテレビコマーシャルの世界から離れました。

わたしは夢から逃げたんだろうか、負け組なんだろうかと自問しました。

直後に派遣社員としてたった一年だけ働いた職場で答えはみつかりました。

一生モノとなった専門知識、現・夫を含めかけがえのない人間関係、語学力と評価を得て。資格も社費でとりました。確か当時の時給は1,450円だったと記憶していますが、元どころか完全にリターンが上回る結果になって。

理由は明確でした。

大前提として「適性があった」こと。早朝から夕方までの仕事。勉強し資格を取得することが奨励されていた。研修が充実していた。外資らしく、裁量があった。非正規社員だったのに、びっくりするくらい好待遇だった。

環境によって人生は変わる。

身をもって経験しました。ヤングな皆さん。そして新人時代の自分に今なら言えることがある。

進む道は変わっていく。

夢も変わっていく。

自分も変わっていく。

振り返れば新人時代。コマーシャル制作の現場の、いくつかの撮影でご一緒させていただいた、英語が堪能な30代前半のディレクターだった原田さん(仮名)。帰国子女でアメリカの大学を卒業した経歴を買われ、外国人モデルとの仕事では通訳も兼務されていました。

臆せず外国人と堂々とコミュニケーションをとって仕事をしている姿はまぶしかった。泥のように疲れ果てていても、翌日に原田さん(仮名)との撮影がある日は希望しか感じなかった。こうなりたい、と本気で強くおもいました。

原田さん(仮名)。いまわたし、海外と仕事しているよ。

残念ながら当時お世話になったかたやかつての職場の皆さんとは疎遠になりもうお会いする事はありませんが、こうして今回のnoteを書きながら完全に「過去のこと」となっていることを再認識しました。

合わない場所で消耗せず、合わない人間関係に付き合わず。

自分を大事にしてください。

しんどくなったらいつでも来てね。

スナック麻子で待ってます。

かしこ。


トリスと金麦と一人娘(2023 春から大学生になり、巣立ちます)をこよなく愛する48歳。ぜひどこかで一緒に飲みたいですね。