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週刊ゆるドア「ともだちのこと」

「イマ」のぼくたちの頭のドアのカギを開けてみよう。という心意気です!
毎回出される1つのテーマを、メンバーそれぞれのあたまとことばで表現するのが目標です。

という趣旨の「週刊ゆるゆる、ドアノブ」

「日常の中での当たり前やいつもそばにあるけどなかなか焦点を当てられないものこと、を改めてよく考えたい!」シリーズ第2回目の今回のテーマは、

「ともだちについて」

みんなは友達って何人いる?親友は?
そもそも友達ってなに?わたしたちにとってどういうものなんだろう。

文:藤本勇気

「先輩って、ちゃんとしてるようで全然ですよね。」

「先輩のお友達見ればわかります。姉御肌的な人ばっかりっていうか、引っ張ってくれる系の人たちっていうか。」

これは高校生の時、後輩に言われた言葉。急に言われて顔が引きつった。高校2年生にして行きつけの飲み屋がある後輩。今でも仲が良く時々会ったりするけれど、その度にスナックのママのような貫禄を深めていっている。

たしかに、仲のいいその後輩も「THE姉御!」みたいなやつだし、同級の友達も「ついてこいや!」もしくは、「しょうがないなあ」みたいな子が多いかもしれない。

今の大学の友達も、そう、かな。うん。そうだな。「勇気は、まったく!」みたいなことよく言われる。

人から「リーダーシップがある」と評価されることがよくあるけど、結局それも私が周りを引っ張ってるんじゃなく、「巻き込む中心」になることが多いだけだと思う。私はやりたいことを、やってるだけ。(みんなも楽しいから参加してくれてるハズ。そうであれ笑)

基本的に、みんな底抜けに優しくて、純粋で、素直で、世話焼きで、人の言葉や行動に傷つきやすい私を理解してくれてる。支えてくれる。

だから私も、この人たちとずっと一緒にいたいから、「努力しよう」という気に自然となれる。そして私は、そんな自分を、恥ずかしいけど少しだけ気に入っている。

多分これは、私が「理性で友達を選ぶようになった結果」なのだと思う。

保育園や小学校、中学校で出会った子たちは、「理性で選んだ友達」とは少し違う。嫌な言い方をすれば、あの頃出会った子たちは「私が選んだわけじゃない」。

よく考えれば当たり前のことだ。高校や大学はそもそも自分で選んで行く場所だ。行くと決めてから、じゃあ沢山ある学校の中からどんな校風が自分に合っているかとか、学力のレベルはどのくらいなのかとか、色々考えた。

そういった、「同じ」ではないけど「似ている」道を選んだ人たちから、また私は「選んだ」のだ。少し大人になって、自分に合う人たちを。

じゃあ小学校は、中学校はどうだろう?どちらも私は公立の学校に通っていたから、いろんな子がいた。家庭環境も、考え方も、学力も。年が同じで、生まれた地域、住んでいる地域が大体同じというだけで集められた数百人。

加えて、私たちは今よりもずっと子供だった。中学校までは良くも悪くも一人一人との距離が近くて、「離れたくても離れられない」そういう関係が強かった。

だから「高校・大学」の友達と、「小学・中学」の友達は全然違う。なんというか、「過ごしやすい」とか「安心」というフレーズよりも「心配」とか「重さ」みたいなフレーズが合っている。

「良い距離感」というのが中々掴みにくいのだ。お互いを昔から知っているから、どこまでも信用して良い気がしてしまうけど、それは多分間違いだ。過ごしてない時間も、やっぱり分かり合えない部分もたくさんある。

でも、じゃあ、「いらない」と切り捨てることは絶対にできない。相手の中に自分を見るから。一部が共通して繋がってしまっている感覚。「わかり合いたい」とか「わかるはずだ」っていう想いも期待も他と比べて、あまりにも大きすぎる。

グズグズな苦くて甘い、脆くて強い関係。良くもないし、悪くもない。でもそれが私を作り上げた。

どちらの友達も私にとっては本当に大切だ。もはや「友達」という2つの漢字で表現できる間柄ではないような気がする。

理性的に、一応大人として、これからもずっと長く寄り添いたいという気持ちを持ち合う、心地よい、大切で、なくてはならない存在。

本当に偶然、人生が重なり合って出会い、感情のままぶつかり合って、お互いを作り上げた、分かり合えないけど、大切で、なくてはならない存在。

うーん。月並みな言葉だけど、「いつもありがとう。これからもよろしくね。」

文:佐藤和樹

すごいありきたりですが、
友達って自分を高めてくれる存在であり、友達という存在が支えだとそう思います。

僕はプライドが高いほうです。
なにかと負けたくありません。
何に負けたくない?それは自分であり、友達でした。努力することは才能です。なんで才能なのかというと努力は辛いからです。自分の怠けたい、逃げたい、妥協していいんじゃないか、という甘えに打ち勝つのは自分次第です。その甘えに負けたくない。今まで努力する時はそう思ってきました。
ただ、結果が全てのこの世界でその結果が良いのか悪いのかは周りと比べないとわかりません。いつも比べるのは友達だったと思います。
それが顕著に出たのが受験でした。

友達より偏差値の高い大学へ。

あまりそういうのは好きではありませんが、結局その知名度とか偏差値を気にしたから嫌いで苦手な勉強を死に物狂いでできたんだと思います。

僕はこの平成最後の夏に人生最大の経験をしてきました。それは“アメリカ無一文横断”です。
これをやろうと思った理由はいくつもあります。(また今後この旅についてもブログを書きますね)
その理由の1つとして学生時代に友達よりすごいと思える経験がしたいって思っていました。友達と自分を差別化できるのは経験あってこそだと僕は思います。

でもこの経験をしている時に面白いことに気づいたんです。
それは、僕らってこういう挑戦ができるのって帰る場所があって、応援してくれる人がいるからだってことです。
僕らはこの旅をTwitterInstagramyoutubeで発信していました。投稿するたびに友達から応援のメッセージがきてほんとにその言葉ひとつひとつが明日への活力になりました。

僕は人生で初めて友達の存在がこんなにも自分のためになるんだってことを知れたと思います。
友達よりもすごい経験をしていたら友達に支えられてるって面白いですよね。笑

これもありきたりですが、普通に生活してると友達が当たり前に毎日周りにいて、その大切さを忘れがちになります。
でも友達って自分を創り出し、支えてくれるとんでもなくでかい存在なんです。
今まで出会った、そしてこれから出会う友達を僕は一生大切にしたいと思います。


文:森下栞

友達について考えるってなると、思い出すことが多すぎて大変なことになります。

気づけばそばにいてくれて、楽しいことも嬉しいことも悲しいことも全部、友達という存在なくしては経験できなかったような。
というより、わたしの過ごす時間には当たり前のようにそこにいてくれるような存在です。
友達は私にとって温かい場所、笑顔になれる場所を作ってくれる存在だと思っています。

ちゃんと考えたこともなかったけど、まず友達って、どういう人のことをそう呼ぶんでしょうか。
仲間とかクラスメイトとかライバルとか親友とか幼馴染とか先輩、後輩、同期、よっ友、、、

これ私の中では全員「友達」と呼べる。
色々考えると、「友達」という言葉に込められた意味の幅が壮大すぎて私の理解の領域を超えてきます。
言葉で説明できないような関係にも、友達という単語は便利に機能しているみたいに感じます。
不思議な概念ですね。

以前はすごく仲が良かったけど、進路と環境の変化で自然とお互いに離れていってしまった人たち。
正しく言えば“友達だった”と表現するべきなのだろうけど、私にとっては今でもそれは“友達”で。私はそんな人たちのことをたまに思い出したりしちゃう。

やっぱり、一度でも一緒に濃い何かを共有した相手とは、いつまでも友達でいられるんだと信じたいからなのかもしれません。大事なことを忘れたくないし。

最近は、なんでしょう、寒くなってきたから?年の終わりを実感してるから?卒業が近いから?
、、、、よく分からないけど、慣れ親しんだ人との別れを感じて寂しくなる時があります。

でも、大学で出会ってくれた人たち、もしももしも会えなくなるようなことがあったとして、それでも私はふとみんなの顔や一緒に過ごした時間を思い出すんだと思います。

だから勝手にずっと友達です。ありがとうございます、今までもこれからも。

大学では友達以上と言えるであろう人にたくさん出会うことができて、多くの時間を過ごして、素敵な経験をしてきました。
そんな人たちのことを友達という言葉で済ませてしまうのはちょっと違う気もしますが、ここは友達という便利な言葉に甘えたいと思います。

色々書きましたが、書いてみて思った、みんなに会いたい。

文:木村潮音

大学に入って
他大学と関わるサークルだったからたくさん友達ができました。

自分の大学の友達も含めて、今まで出会ってきた友達ってどのくらいいるんでしょうか。

友達100人できるかなどころじゃなくて、多くの人と関わりを持つことができました。

そんな22年間を過ごしてきて、偉そうにほんとに申し訳ないんですけど、友達に求めるものというか、ああ友達でよかったというか、これからもよろしくお願いし続けたい友達というか、単純に友達と出会えるのって大学までなのかなと思っていて、今1番大事な時期なんだなって最近実感してます。

社会に出てしまったら、もちろん友達はできるのかもしれないけど、基本的には社会的責任の中であって、同期になってしまうのかな〜って。

今わたしにはこれからも友達でいてほしい大切な人たちが仲間がたーくさんいて、本当にいつもありがとうです。

何の脈絡もない分なんですけど、これを書くことで、わたしの友達の方々に今1人ずつラブレター書きたい気持ちです。比喩ですよ。ひゆ。たとえね。でもそれくらい気持ちはでかいよ。

文:小林新

僕は、1人では生きていけない自信があります。これはたしかワンピースのルフィが言っていた言葉ですが、おそらく小学生の頃からこの言葉と共に「大きくなったら友達とシェアハウスするんだ!一緒に働くんだ!」と言い続けていました。これまでいつもいつも、"友達"に刺激をうけて、頼って、依存(?)して生きてきました。友達が好きで好きでしようがありません。

例をあげるならば、連れション(もち同性)、一人で外に遊びに行くことができないのでしつこく誘うなどのレベルから、友達が夢中になっているモノことのマネや大きな決断をしたことにショックを受けて自分の活力にしたりするまで。

なんでもない日常から個人的な感情の共有や僕の何かしらの人生のターニングポイントでそばにいてくれた又は促してくれたのは紛れもなく友達です。おかげで多少は彩りのある人生を送れています。つまり感謝しかありません。

でもその"友達"は必ずしも1人のことを指しているのではなくて、その時々に僕の隣にいた親しい友達たちはそれぞれで、過ごした時期も時間も濃さも違うけど同じ、のような感覚。

そう思うと不思議なことに、僕のその"友達たち"って今は離れていて連絡も取っていないけど、何かのきっかけで連絡を取ったり会って話した時には一瞬であの「一緒にいた時」の空気に戻る。でもさようならしたらまた長い間連絡も取らない、、みたいな関係の人が多いです。今いる友達やこれから出会って親しくなる友達もいずれそうなっていくのかな。

だとしたら好きな人とか恋人とかには終わりはあるけど、友達ってある意味「終わりはない」んじゃないかって感じています。というかそう信じています。

上までで述べた"友達"は、広い意味での"友達"ではなくすごく仲のいい、いわゆる"親友"のようなカテゴリーの人たちに心を向けて書きました。そういう人たちは、少なからず自分と近い道を歩いてきたから深く交わった関係にあると思っています。だから自然と必然と会うし合う。

でも大きな意味での、というか決して濃い関係ではない友達の方が数的には全然多くて。でも全然興味がないとか影響を受けてないわけではなくて大事で。なんて考えていたらもうこれは、
「僕にとっての友達」の答えはズバッとは答えられそうにありません。

でも今の僕のアイデンティティは友達が作ってくれたものだという認識は確実にあります。それはみんなとの関わりの中で大事に育ててこれたものだから。

挨拶しかしなくても。
SNSの中だけでしか知らなくても。
くだらないなんでもない話をして。
連れションして。
遊んで。
笑って。
(泣かないけど)落ち込んで。
相談してされて。
アツい話なんかもしちゃって。
勝手にどんどん前行って。
まだそこかとばかにしたくなったり。
変な嫉妬とかしたり。
酒飲んだり。

僕は一人では生きていけない自信がある。

だからとりあえず今まで出会った友達たち、これから出会う友達たち

全員大好き

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