秋を嗅がせてくれない

文:竹中杏菜

秋の匂いがする。と言えない。

その類の感性はてんで持ち合わせがない。
わたしの季節の感じ方は専ら、肌表面の冷点から伝わって大脳が「寒いね」と言えば寒い、みたいなものであって物珍しい感覚神経は持ってない。嗅げるものならわたしだって、秋の匂いを嗅ぎたい。

夜明け前五時の窓を開けて、流れ込んでくる空気が冷えていて、遠くからタイヤとアスファルトが摩擦する音が聞こえて、それが得体の知れない怪物の鳴き声みたいだと思った。吸うも吐くも自由。くるりの上海蟹の歌が似合う。

秋の匂い、わたしにも感じられるだろうか。案の定流れ込んでくるのは隣室からのタバコの副流煙で、いっそこれが秋の匂いならいいのに、とも思った。
実体がわかれば、あとは納得までの手順を踏めばいい。実体が何であるかは関係ない。なぜならどんな匂いがしてもそれが"秋の匂い"であるという確からしさを証明する術がないから。
極論を言えば、腐卵臭が秋の匂いだと言い張ることもできる。脳みそはチョロいし認識は脆い。少女漫画の主人公が息を大きく吸い込み、「秋の匂いがする」とか言いながらめちゃくちゃむせる場面を想像するとなんか面白い。
もし本当に秋の匂いが腐卵臭なら、あらゆる物語の神聖性は失われるし、わたしは秋を嫌いになるだろう。しかしそんなウケる場面を拝めるなら、秋を嫌いになってでもわたしは秋の匂いを激臭にしたくなってくる。
もし人々に"秋の匂い"が腐卵臭だと思わせることができる方法があるならば、それは歴史上の為政者たちが目指した桃源郷までの証左であり、正に渺茫たる宇宙の真理である。完

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