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僕は、『氷上の王、ジョン・カリー』の2つのポイントで記憶が蘇り、1つのポイントに心を打たれ涙した

バレエのテクニックをフィギアスケートに取り入れ、町田樹氏のいうスポーツと芸術を融合させた「アーティステイック・スポーツ」を早くから実践していたジョン・カリー。もちろんカリーの「美を追求する滑り」には心を打たれるが、僕は、映画の後半、彼がアマチェア選手を引退し、プロスケーターとして自身のカンパニーを作るところから引き込まれていった。

アイススケートの経験はないが、プロセニアム(額縁)のステージで公演を行なった経験はある。僕がかつて所属していた劇団・天井桟敷は、野外や市街でも公演を行なっていたが、海外では、パリのシャイヨー宮の劇場などプロセニアムでの公演も多かった。だからこそ、カリーがロンドンのロイヤル・アルバート・ホールやニューヨークのメトロポリタン歌劇場の舞台に氷を張り、オーケストラの生演奏でアイスショーを行っていたのには驚いた。ステージに氷を張ってそこをリンクとしてまるでダンス公演のようにスケート公演をやっていた時代があったのか。今ならもっと氷を張る技術が進歩しているはずなので、文化村のオーチャードホールでフィギュアの公演ができるのではないかと思った。

そして、ジョン・カリーのカンパニーは赤字公演が続き、維持が大変だったという事実に、やっぱりな…と思うのだった。『グレイティスト・ショーマン』のサーカス団の経営難のシーンにも心に響くものがあった。アップリンクを立ち上げる前、僕は寺山修司主宰の天井桟敷の舞台監督を10年間務めていた。天井桟敷もいわばサーカス集団みたいなもので、象は飼ってなかったけど海外公演ではドサ回りのように公演をしていた。カリーのカンパニーの規模はちょうど天井桟敷と同じくらいではないだろうか。彼が自身のカンパニーを作ったというあたりから、僕は天井桟敷時代の記憶がよみがえるのだった。まあ、今のアップリンクも「維持する」という意味では全く同じで、中小企業の社長には一番響く部分である。

もう一つ、記憶がよみがえったのはデレク・ジャーマンのことだ。カリーは1994年にエイズで亡くなった。同じ年に、デレク・ジャーマンもエイズで亡くなった。90年代、エイズはまだ死に至る病だった。当時デレクがHIVポジティブで具合が悪いことは知っていた。最後の作品となった『BLUE』を監督していた当時は症状が悪化し眼が見えなくなっていた。毎年ベルリン映画祭の帰りにはロンドンに立ち寄って彼の家を訪れていたのだが、その年はベルリン映画祭中に彼が亡くなったというニュースが飛び込んできた。駆けつけたロンドンで会えたのは、病院に安置されていた彼の亡骸だった。

デレクが監督し、僕も共同プロデュサーとして参加した『エドワードII』は現在と中世をハイブリッドに表現した作品で、男性の衣装はポール・スミスが担当した。当時イギリスの同性愛者の間では、「同性愛を促進したり、教材を発表したりしない」とする法律「セクション28」が大きな問題となっており、作品の中でもそれに抗うデモシーンなどが挟み込まれている。
デレク・ジャーマンが生きていた時代のイギリス、それはジョン・カリーが活躍していたイギリスでもあり、映画『氷上の王、ジョン・カリー』の中で描かれる世間のゲイ差別に苦悩するカリーのことは痛いほどわかる。

そして、この映画で最も心を打たれたポイントは、彼の言葉だ。「あなたの功績は何か?何か社会貢献をした訳でもないですよね」というこれまた、イギリス人らしいひねくれた質問をするインタビュアーにカリーは真摯に答える。

「スケートを含めた舞台芸術は、人の人生に喜びを与えます。“生きててよかった”と。それは 陳腐だけど事実だ。現実的なことだけじゃ人生はつまらない、人間は何かを見て喜んだり悲しんだり心を動かされる。僕は自分のスケートで人の心を動かせたことを嬉しく思う」

弱々しい声でこう語るシーンには涙した。

彼のスケートは美しい。「美」それ自体が個人の心を動かし、その集まりが社会を豊かにする。これはアップリンクの今の仕事、映画配給にも通じることだ。

ジェイムス・エルスキン監督は、一回限りの舞台芸術を作品として残すことに価値があると言っていた。まさに今、ジョン・カリーの氷上の滑りをスクリーンで目にして心を動かされることを、私たちは実感するのだった。




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