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【創作小説】ごはんたべよ

どうもどうも、浅生です。
以前大阪のイベントにて販売した同人誌なのですが、発行してから8年経過しましたし、そもそも売れてないので、公開することにしました。
いかんせん8年前なので稚拙な表現もあるかと思いますが、少しでも楽しんでもらえたら幸いです。
本当は改訂版出したかったんですが……もう書き直す時間的余裕もないので……。

あらすじ

とある事情で地元から遠く離れた県の高校へ入学することにした狭霧圭介。そんな彼が一人暮らしを始めたのは――9歳になったばかりの小さな大家がいる、あおぞら荘。
新しい土地、一風変わったアパートの住人達……圭介の、新しい生活が始まる。

 校庭では最後の桜が花びらを散らしていた。その下を通ってきた生徒達は赤い屋根の体育館に集合し、一列十人を三つ作ってパイプイスに座っている。男は黒の学生服、女子生徒はセーラー服という、今どき珍しく古風な制服が並んでいる。
右端では教師達が神妙な面持ちで立っているのだが、生徒達の気だるい表情とミスマッチで、俺は教師と生徒の温度差を感じた。
それもそうだろう。
校長の話がすでに十分を超え、その内容にはまったく中身がないどころかまだ終わりを迎えないせいだ。生徒達の顔は一様にうんざりしており、校長というものはどこに行っても話が長いんだなと納得する。そのせいで生徒からは嫌われる存在なんだろうに、きっと壇上のロマンスグレーでダンディそうな顔立ちの校長先生……名前は、八雲丈二とか言ったかな。彼は知らないんだろうな、と思いながら細く息を吐き出した。
全員の右胸には、揃って薄い紙で作られた花がつけられている。それは俺も同様で、男子は白と決まっているらしい花をつけている。花には赤と白の線が入った一センチほどの布がぶら下がっており、そこには『祝・入学』の文字がプリントされていた。
 そう、今日は記念すべき県立・朝日山高等学校の入学式。希望に満ち溢れた日だ。
 隣の男子はさっきから先生の視線など気にした様子もなく、隣の生徒とコソコソと話している。中学時代からの知り合いなのだろう。入学式が終わったら何をしようかと相談していた。
 彼らだけではない。俺の周りのそこかしこで、そんな話が広がっていた。それだけ生徒達が、校長の話に飽きている証拠。そしてこの高校は、小学校・中学時代の知り合いが多い。
 そりゃそうだろう。K県の田舎町にある朝日山高校は、周辺数十キロに他の学校が存在しない。もちろんやりたい事がある奴は別だろうが、それ以外の奴らでこの辺りに住んでいる学生は当たり前のようにこの高校を受験し、入学する。
 偏差値は高いものの、例年定員割れを起こしているこの高校は、多少合格点に達しなくても入らせてもらえるらしい。というのが、インターネット上での噂だ。実際「こいつ本当に合格したのか?」と思いたくなるような不良が二、三人見受けられる。
 なら、俺は?
 わざわざ知り合いのいない隣の隣のそのまた隣の県の高校を選んだ俺は?
「っ、く……」
 余計な事を考えたせいで吐き気が襲ってくる。下唇を噛んでなんとか耐えながら、壇上を睨みつけた。校長はまだのんべんだらりとくだらない話をしている。早く終わらせてくれ。でないと俺はこの場でリバースしてしまいそうになるじゃないか。それだけは、絶対に御免こうむる。ここで我慢しなきゃ、なんのために実家を離れてこんな遠くの高校を受験したんだか解らない。
 誰も俺を知らない場所で、俺は、新しい人生を送ると決めたのだから!
 それなのに、俺は今見知らぬ人間に囲まれたこの状況で血の気が引くほど緊張している。それもこれも、全部校長の長話と、それに飽きてしまった生徒達の小さな話し声が広がっているせいだ。
「ねえ、ねえ――」
「――だよね。ふふ」
「そうそう――ハハハ」
「ハハハハハ」
「ハハハハハハハハハハハハハハハハ」
 きっと話が盛り上がっているんだろう。そこかしこで笑い声が上がっている。でもその笑い声を聞いているだけで、体の底から吐き気がせり上がってくる。足は竦み、体がわずかに震えるほどだ。
 なぜか?
この笑い声は俺に向けられたものじゃないって判ってる。でも……どんなに理解していても、笑い声が聞こえてくるだけで中学時代の事を思い出してしまうんだ。それだけで――不安が体を襲い、血の気が引く。
俺は中学の三年間、クラスメイト全員からイジメを受けていた。
彼らは何かあると……いや、何もなくたって俺を取り囲み、牛乳やドロ水、ゴミを頭からぶっかけたりしてきた。もちろん殴られるのは当たり前。あまりに酷い時は、骨折するほどだった。
机の中やカバンの中から害虫が出てきた時は、耐え切れなくて卒倒。すると彼らはそんな俺の口に、その害虫を突っ込みやがったんだ。その後すぐに意識は戻ったけど……口の中の感触で、俺はその場で嘔吐してしまった。それをネタにまたイジメ。
俺の中学時代は、毎日そんな事の繰り返し。
荷物はすぐ捨てられてしまうから、持っていく事をやめた。机には、ナイフで彫られた罵詈雑言。誰も……先生でさえも、俺を人間として扱ってはくれなかった。
俺にとってあの教室は牢獄だった。
 それを両親に言えなかったのは、当時、両親は俺のことなんて見向きもしなかったからだ。あの頃の両親にとっては長男の方が大事で、次男で、しかも出来損ないの俺なんて興味はなかった。
 しかし、兄が市役所へ就職してすぐに、なぜか両親は兄とケンカしたらしい。どんな理由かは聞いていないけど、両親の怒りはちょっとやそっとでは収まるものじゃなくて……両親は兄に勘当を言い渡した。おかげで、その期待が俺に向かう事になった。
 その期待を利用するため、俺は偏差値だけは高いこの高校を受験させてほしいとお願いした。そして学業に集中したいからと、実家から離れて暮らす事も。
 両親は最初こそ渋っていたけれど、最後は俺のイジメが公になる事を嫌がって承諾してくれた。自分の息子がイジメられていた、なんて世間に知られたら恥ずかしいんだろう。そのバカらしい虚飾のおかげで、俺はあの忌々しい場所から離れる事が出来たんだ。
 だから! 俺は絶対にこの高校で、新しい人生をやり直すんだ!
「っ、う……!」
 そう思っているはずなのに、俺の精神力は問答無用で削られていく。生徒の無邪気な笑い声は、自分をあざ笑う中学時代のクラスメイトとダブってしまう。もしかしたら……こいつらも、俺のことをイジメるかもしれない……。
 妄想が頭を支配し、グルグルと駆け巡る。膝が震え、血の気は更になくなっていった。指先が、冷たい。
 短い息を吐き出して、深く息を吸い込もうとする。けど、それが上手くいかない。ヤバイと思うほど、脳みそがグチャグチャにかき回されていった。
 あ、ホントにヤバイ。目の前、真っ白……
「ねえ、あんた。大丈夫?」
 突然肩を捕まれ、強引に振り返させられた。いきなりだったので対処出来ず、身体が大きく揺らぎ、切らないまま放っておいた前髪がふわりと浮く。けど声を掛けた奴が肩を掴んだままなので、なんとか倒れずに済んだ。
 目の前にいたのは、セミロング程度あると思われる髪を肩辺りで揺らす女子だった。低めの身長ながら、背筋をピッと伸ばし胸を張って立っているので、とても頼り甲斐がある。ように感じる。
 ぼんやり見つめていると、女子生徒はいきなり俺の前髪を掻きあげた。まさか女子が俺に触れてくるなんて……! こんな事、あっていいのか?
「前髪邪魔! ちょっと顔見せて」
「え、あ……」
「やっぱり。顔色悪いじゃない。貧血? まあいいわ。保健室行きましょ」
 女子生徒は俺の返事を待たずに、俺の手を握って歩き出そうとした。俺だけじゃなく、周りも驚いているようで、突然の事に固まったまま呆然としている。
せっかく目立たないように、学校生活を過ごそうと思っていたのに……!
 女子生徒の手からすり抜けようと力を込めたけど、相手の力は予想以上に強く、簡単には手を振り払う事が出来ない。具合が悪くて、力が入らないせいかも。ならば、ともう一度力を込めると、今度はするりと手が抜けた。けど、簡単すぎて体が大きく後方へ傾く。
「え……!」
 それは俺の声だったのか、彼女の声だったのか。どっちが発した声だったのかはよく解らない。っていうかそんな事今考えてる場合じゃない! このままじゃ、後ろに倒れる……!
「はい、キャッチー」
 ポスン、という効果音と共に俺の肩に何者かの手が。どうやら、この手が受け止めてくれたらしい。おかげで倒れずに済んだ。しかし周りだけではなく、この入学式に出ている全生徒の視線を一身に浴びる事になってしまう。羞恥心と恐怖心が一緒になってやってきた。
 離れなないと……! って、どうやって? いやそりゃ普通に……普通ってなんだったけ!?
 うろたえる俺の前で、女子生徒はすっと手を挙げた。
「先生、具合の悪い子を保健室へ連れていってもいいですか?」
 凛とした声が体育館に響き渡る。その声で、校長の長話も止まってしまった。今、この場にいる全員がこの女子生徒だけを見ている。もちろん、俺も。
 彼女は全員の視線を受けても、彼女は気負うどこかまっすぐ前を見ていた。その目は屋内にいるはずなのに、まるで太陽の光を受けたかのように、キラキラと輝いている。息をするのも忘れて見つめていると、俺の肩を掴んだままの男子生徒が気にせず俺を押し始めた。
「ほら、行くぞ」
「え、あ……」
 彼女の空気に圧倒されてしまい、上手く返事が出来ない。そんな俺を押しながら、男子生徒は列から外れて、体育館の後ろへと歩いていく。教師達から声は掛からない。視線を彼女へ向けると、ちょうど校長に頭を下げているところだった。
 清潔な空気の元に身をさらすと、一気に気分が落ち着いていく。軽く深呼吸していると、すぐにあの女子生徒も出てきた。彼女は俺ではなく、俺の肩を掴んでいた男子生徒に視線を向ける。
「涼は出てこなくていいでしょ」
 気安い調子で話しかける彼女。どうやら二人は知り合いらしい。って、それもそうか。周りもそんな調子だったんだ、彼らも知り合いである可能性の方が高いよな。
 脳内で独りごちていると、涼、と呼ばれた男子生徒は俺から手を放した。
改めて見てみると、涼は金色に近い髪を肩まで伸ばし、いかにも遊んでいます、という雰囲気が出ている。しかし、前髪をてっぺんでひとつにくくっている姿は子供っぽい。さっき助けてもらわなければ、こういう人種とは話なんてしないだろうな、なんて考えてしまう。
「俺はこいつを受け止めた以上、運んでやる義務があるんだよ」
腕組みをしてふんぞり返るその姿には、「俺って優しい! さあ、褒めろ!」感が滲み出ている。知らない俺でも「あ、こいつアホだ」と判るくらいなのだから、知り合いであろう彼女は……
「はあ」
 やはり。案の定深いため息をついていた。
「どうせサボりたかっただけでしょ」
「ちげーよ! 華緒こそ、相変わらずお節介焼きやがって」
 華緒、と呼ばれた女子生徒は何か言い訳しようとして……俺と目が合った。その顔がみるみるうちに気まずいものへと変わっていく。
「ごめんね! あんたを保健室へ連れていくはずなのに、こんな所でくだらない話しちゃって……!」
「いえ、別に……」
「こいつは放っておいて、さっさと行きましょ」
 華緒は涼の横を通り過ぎると、先頭に立って歩き出した。涼が彼女の名前を呼ぶけど、宣言通り、本当に無視している。倒れそうになった俺を受け止めてくれた恩人だし、申し訳ないんだが……「ほら、行くわよ」はい、そうします。
 しかし涼は諦めない。歩き出した俺達の後ろから、ちゃっかりついてきている。出てきた以上、戻れないからかもしれない。
 体育館から本校舎へと繋がる渡り廊下を、縦一列に並んで歩いていく。その間、何度か華緒が振り返っては俺の体調を気にする。
「きつい時は、立ち止まるから。言ってね」
「はあ……」
「はあ、じゃなくて! ちゃんと返事する! さっきみたいに、また倒れるかもしれないんだからね」
 厳しい口調だが、こちらを心配してくれているのがよく解る。解るからこそ、判らない。どうして華緒は、初対面の俺なんかに優しくしてくれるのだろう。こんな事したって、こいつにはなんのメリットもないはずだ。
 華緒の行為に判断がつかないでいると、後ろにいた涼がいつの間にか俺の隣に来て、突然肩を抱き寄せてきた。失礼な奴だと思いながらも、久しぶりに他人が触れた感触に戸惑ってしまい、体が動かなくなってしまう。
「華緒がそーんな乱暴な口調だから、こいつ、怖がってるじゃん」
「別に……! 乱暴じゃないでしょ。普通よ、フツー!」
「いや、すでに乱暴だって」
 涼は笑いながら「なあ」と俺に同意を求めてくる。そんな事、本人の前で「そうだな」なんて言えるわけがないだろう。
 曖昧に言葉を濁すと華緒の眉間に、わずかだが皺が刻まれた。俺は何か答えを間違えたか? しかし今更答えは変更出来ない。
華緒が歩き出したので、気にはなりながらも先ほどと同じように後ろをついていく。涼はまだ俺の肩を抱いたままだ。歩きづらいからさっさとどいてほしいんだが。しかし涼は俺の気持ちになんて気付いてくれず、そのまま顔をこちらへ向けた。
「なあ、お前……名前は?」
「狭霧です」
「下の名前は?」
「……圭介、ですけど」
 涼は俺から離れると親指を立て、それを自分に向けた。「松風涼って言うんだ。よろしくな!」まるでサッカー少年みたいな名前だなと言いたくなって、それをなんとか押しとどめる。名前でからかうなんて、なんだか小学生みたいだと思ったからだ。もちろんからかうつもりはないけど。
 涼は二、三歩小走りに歩くと、前にいる華緒の二の腕を突く。これは絶対に怒られるだろうな。
「こいつは、香取華緒。年寄りくさい名前だろー」
「うっさい!」
 案の定華緒は眉を吊り上げ、突かれた右腕を振り上げて涼の手を掴んだ。それを、そのまま後方へと捻り上げる。「痛い!」叫ぶ涼だが、華緒はまったく力を緩めず俺を見た。
「さっきの列の並びだと、狭霧君、同じクラスよね。これからよろしく」
「あ、ああ。よろしく」
「きっと私、クラス委員長をやると思うから。何かあったらいつでも相談して」
 まだそんな話はしていないのに、彼女はもうやる気でいるみたいだ。中学時代から何度も経験しているのかもしれない。そうだとしたら、なんとなく納得がいく。
 華緒はクラス委員長を任せられるほど責任感の強い女子なんだ。だから彼女は初対面の俺が具合悪いそうにしているのを見て、咄嗟に声を掛けてくれたのかもしれないな。
 勝手に判断して勝手に納得し、そして勝手に落胆する。責任感や義務、同情で優しくしてくれるのは、どうせ最初だけだろ。きっと彼らもそのうち、俺から離れる。
 あいつだってそうだった。最初は俺のこと「友達」だと言ってくれたくせに。なのに――……!
「うっ、ぐ……!」
 胃がきゅうっと締め付けられ、何かがせり上がってくる。我慢しようと思っているのに、それは抑えきれず。何度も嗚咽を漏らし、下唇を噛み締めた。
「狭霧君!?」
 華緒の伸ばしかけた手を振り払うようにして、渡り廊下の隅にしゃがみ込む。その先は運動場へと続くコンクリートの石段。ああ、せめて水道が近くにあれば……
 頭の中はグルグル、喉からは酸っぱい液体がせり上がってくる。ダメ、無理、これ以上は……吐く!
「うっ、げ……!」
 渡り廊下のコンクリートに手をつくと同時に、口から胃液と水が吐出された。それをスタートにして、胸や喉を痙攣させながら胃の中で消化しきれていなかった食べ物が次々と吐出されていく。
 口の中が、酸っぱいもので満たされていく。しかもそれのせいで、舌や歯茎が痺れている感覚がした。気持ち悪い。
 ああ、最悪だ。よりにもよって初対面の、しかもこれからクラスメイトとしてやっていくであろう人間の前でこんな醜態を晒すなんて。きっとさすがの二人も、引くだろう。
「涼、自販機で水買ってきて!」
「了解! ちょっと待ってろよ、狭霧」
 涼は軽快な足取りでどこかへ走り去っていった。それを音だけで認識していると、小さくて暖かな手が背中に触れる。その手はゆっくりと、いたわるような手つきで俺の背中を上下に撫でてくれた。たったそれだけの事なのに、少しずつ落ち着いていく。
「もう、吐くものないでしょ。辛いと思うけど、ゆっくり深呼吸して」
 さっきまでの威圧的な華緒ではない。とても落ち着いた声音で、こちらを心から気遣ってくれるのか解る。けど……なんの関係もない俺に、どうしてここまでしてくれる?
 具合が悪い事も手伝って、まったく頭が働かない。なんの目的があって、華緒はここまで俺なんかに優しく出来るんだろう。ぼんやりしていたら、華緒はハンカチを片手に俺の口元を拭ってくれた。慌てて払いのけると、華緒は「大人しくして」と叱ってまた拭いてくれる。
「汚れるから、いいって」
「ハンカチは汚れたものを拭くもんでしょ。そんな事気にしないで、あんたは病人なんだから、大人しくしてなさい」
 言い方は乱暴だが、華緒はまだ優しく背中を撫でてくれる。そこへ、水を買ってきたらしい涼が戻ってきた。よほど遠かったのか、水を華緒に手渡す涼は頭上で息を切らしている。
 華緒はキャップを外し、俺の口元に注ぎ口を当てた。
「飲める?」
「ん……」
 自分で傾けると、冷たい水が喉を通って注ぎ込まれる。まだ気持ち悪さは拭えないが、荒れて熱を持った胃には心地よい冷たさだ。安心に包まれたところで、同時に眠気がやってきた。そんな俺の横で、華緒はもう一本の水でハンカチを濡らして、俺の額やうなじの辺りに押し当ててくれる。ひんやりとした感触に、更なる安堵を覚えた。
「狭霧君、落ち着いたら保健室に行くわよ」
「多分歩くのしんどいだろうから、俺が抱えてやる」
 二人の優しさが染みわたる。ありがたいって言葉で伝えたい。けど、なぜか上手く口が動かない。それに頭の芯が熱を持っているみたいで、ボーッとする。目の前も霞んでいるような…… 気 が、  す     る

****************

「っ!」
 息を飲んで目を開けると、真っ白な天井が広がっていた。両手は、これまた真っ白なシーツをしっかり掴んでいる。ここ、どこだ?
 呆然としていると、スリッパを鳴らしながら近付く足音が聞こえた。それに気付くと同時に、カーテンが開かれる。顔を出したのは黒い髪をした白衣姿の女性。髪が長いらしく、バレッタのようなものでひとつにまとめていた。それでもほつれてしまった髪の一部が、横に流れている。彼女はそれを耳に掛けながら、俺の名前を呼んだ。
「狭霧圭介君、だね」
「は、い」
「さっき渡り廊下で吐いて、そのまま気を失ったんだけど。覚えてる?」
 その辺りはぼんやりと覚えていたので頷く。すると彼女は「よろしい」と頷いて俺の目の前までやってきた。さっきまでは仕切りのカーテンで見えなかったけど、ピンクのシャツがはち切れそうな胸だな。意識しなくても、つい視線がそっちに向かってしまう。
 意識して胸から目を外し、上半身を起こした。すると女性は俺の眼下に親指を当て、軽く下げた。何をしているのだろう? よく解らないので動かないでいると、彼女は小さく「良くなったな」と呟いた。
「お貧血で倒れて、そのまま意識を失ってたんだよ。で、その時一緒にいた香取と松風が、お前をここ……保健室まで運んでくれたんだ」
 吐いたってだけでも最悪なのに、その上あの二人に運んでもらったのか。自分が情けなくて、ため息さえ出てこない。
「そんなに落ち込むなよ」
「無理ですよ。だって、初対面の人にあんなに迷惑かけちゃって……」
「あの二人は、気にしていないようだったけどな。むしろお前の体調を、最後まで心配していたよ」
 女性は袖をまくりながら、腕を組んだ。その動作で、主張しすぎな胸が揺れた。彼女は気付いていないのか? そんな所で腕を組むと、余計に胸が強調されるんだが。
目のやり場に困ってしまい、すぐ目を右横へと移した。
「あの、とにかくすみませんでした。ええっと……」
「保険医の、野埼(のさき)だ。あまり世話されないよう、学校生活は気をつけろよ」
 野埼先生は右手を伸ばすと、俺の額を軽く指で突く。その先にある先生の顔には、まるでいたずらっ子のような笑みが浮かんでいた。年上の人に失礼なのは重々承知の上だが、ちょっとした動作や表情が子どもっぽい。だから、ちょっと可愛いと思ってしまったのは許される……はず。
 心の中で言い訳していると、保健室のドアが開く音が聞こえた。野埼先生と共に視線を向けるが、残念ながら俺からはカーテンに阻まれているため、誰が入ってきたのかまでは判らない。するとドアを開けた人物は不規則な足音を響かせながら、こちらへ近付いてきた。
 ズル ペタン ズル ペタン ズル ペタン
 随分雑な歩き方だと思っていると、足音がカーテンの前で止まる。立ったままの野埼先生はその人物に視線を移して軽く会釈をした。保険医が頭を下げる人物なんて限られてくる。校長、教頭……もしや俺のクラス担任か?
「お迎えが来たぞ」
 野埼先生は右手を軽く振りながらその場を去っていく。すると入れ違いに、カーテンを揺らして小さいのが入ってきた。
「具合はだいじょーぶ? え、っと……さぎりけいすけさん」
 大きな目をした愛らしい少女は、俺の名前をちゃんと言えた事が嬉しかったらしく、頭のてっぺんで結んだふたつの髪を揺らした。太陽に透かしたら綺麗だろうな、と思えるほど色素の薄い髪で、ほぼ金色に近い。よく見ると、少女の目の色も薄い茶色だった。
 想像したものと全然違うどころかこれは高校の校舎にいていい人間じゃない。明らかに小学生じゃないか。しかし野埼先生は注意するどころか、会釈をした上に俺に「お迎え」と言った。この子は俺にとって、一体なんなのだ?
 理解出来ない俺の前で、少女は目を何度か瞬かせた後急に泣きそうな顔をする。「もしかして、まちがえてた?」どうやら俺が返事をしないから、目的の人物ではないのか不安になったようだ。少女に泣かれても対処出来ないので、慌てて首を横に振る。
「いや、俺が狭霧圭介だよ。けど……君は誰?」
「あ! ごめんね。ごあいさつしてなかったもんね」
 少女は、自分の足と合っていない大人用のスリッパのつま先を揃え、背筋をピンと伸ばした。そして小さく柔らかそうな両手を、前で合わせる。
「わたしは、さぎりさんが今日から住む、あおぞら荘から来ました。東雲みゆうです」
 あおぞら荘……それは確かに今日から俺が一人暮らしをするアパートの名前だ。けどこういう時、最初に連絡がいくのは両親なはず。どうしてアパートに連絡がいったんだろうか?
 新しい疑問の登場に、みゆうと名乗った少女へまともな挨拶が出来ない。なんと聞けばいいのか言葉を探していると、みゆうは俺が何を悩んでいるのか察したらしい。「あ」と小さな声を上げ、顔の前で両手を重ねた。
「えっとですね、華緒ちゃんからさぎりさんをおむかえに行ってあげてーっておねがいされたの。華緒ちゃんも涼くんも、バイトがあるからって」
 その名前を聞いて、やっとすべて理解出来た。
「わざわざ迎えに来てくれてありがとう。みゆうちゃん」
「いえー! とうぜんのことなんだよ」
 当然、と言いながらもその顔はとても嬉しそうで、頬も蒸気し緩んでいる。子どもっていうのは素直で可愛いな。でも……
 無条件の優しさなんて、どこにも存在しない。
わざわざ俺を心配してくれたんだろう華緒も、涼も、本当は俺のこと面倒がって放っていったんじゃないか――なんて、そんな意地の悪い事を考えてしまう。あいつらは最後まで優しく面倒みてくれた。それは野埼先生が教えてくれて解ってはいる。けど、どうしても素直に受け取れない。この子が迎えに来た事だって、そう。きっと面倒だったろうに、年上の人間に頼まれたから、嫌々来たんじゃないだろうかとか、そんな事を思ってしまう。
 そして自分が最低な考えをしている事に気付いて、また吐き気がせり上がってくるのだ。いくらなんでも考えすぎろ、俺。優しさは素直に受け取ればいいんだ。
 けど――そんな淡い期待をあいつはぶち壊したんだ。やっぱり、信用なんて出来ない……。
「さぎりさん?」
 みゆうの声に我に返って、慌てて引きつった笑みを浮かべた。
「ごめん。えっと……帰ろうか」
「歩ける?」
「もう大丈夫だよ」
 シーツをはいで体全体を横へ向け、ベッドの縁へ腰掛けるような形で床へ足を下ろす。すると丁度いい位置に上履きがあった。足を差し込んで、かかと部分を踏みつけながら立ち上がる。
 さっきまで寝ていたから少し倦怠感があるけど、歩く分には支障がない。みゆうが先導するように歩き出したので、その後をついていくように歩いてみる。うん、足元がふらつく事はないようだ。
 カーテンを開けて出ると、野埼先生は自分の机に向かって何か書類のようなものに向かっていた。俺が出てきた事に気付いたのか、ペンを握ったまま振り返る。
「気をつけて帰れよ」
「はい。ご迷惑お掛けしました」
「保健室はご迷惑をお掛けする場所だよ」
 野埼先生はイジワルな笑みを浮かべ、机の横に置いていたらしい俺のカバンを投げて寄越した。それを受け取り、一礼してから保健室を出る。すると、みゆうがスカートをひるかえしながら振り返った。
「わたし、くつはきかえてくるね! さぎりさんは、くつはきかえるの、べつの場所なんだよね?」
「あー……そうだね。下駄箱に靴置いてあるから」
「じゃあ、校門の前でまってるね」
 みゆうは小さく手を振りながら、元気に駆けていった。見知らぬ少女に手を振ってもらえる日が来るなんて、思いもしなかったな。ぼんやりと見送り、姿が見えなくなってから下駄箱へと向かう。
 今日初めて歩く校舎。どこに何があるかなんてさっぱり判らないけど、学校の造りはだいたい似通っているもの。勘で歩いていると、無事に昇降口を発見した。この昇降口は入学式の前に通った場所でもあるので、自分がどの場所に靴を入れたかくらいは判る。朝の記憶を引っ張りだしながら下駄箱を開け、靴を取り出す。上履きを脱いで靴に履き替えると、そのまま上履きを突っ込んで外へ出た。
 雲が気持ちよさそうに、青い空を泳いでいる。俺もあんな風に、誰にも邪魔されず一人で自由になれたらな。そんな事を願ってこの町へ来たはずなのに……さっそくつまずいている。
 上手くいかないな、と嘆息しながら校門へ向かうと、先に来ていたみゆうが俺の姿を見つけて両手を振った。しかもピョンピョンと、効果音がつきそうなほど高く飛び跳ねながら。
 ああ、子どもっていうのは無邪気でいいなあ。
 そんな気持ちを抱きかけて、それは失礼だなと思い直す。それに最近の小学生は進んでいるらしいからな。きっとみゆうだって無邪気なフリをしているのかもしれない。
「……って、俺は小学生のことまで非難する気かよ。ハハッ、サイテーだな」
 ぽろりと呟いた自嘲の言葉に、乾いた笑いがこぼれた。そこへ、何も知らないみゆうが駆けてくる。
「おうちかえろ!」
 白い歯を見せて、星をたくさん周囲に瞬かせながら微笑むみゆう。子どもっていうのは、こんなにも綺麗に笑うんだろうか。驚いてしまって、反応出来ず黙って見つめてしまう。するとみゆうが不思議がり「どうしたの?」と首を傾げた。なんでもないよと笑顔で首を振り、みゆうと並んで歩き出す。
 どうやら学校帰りだったようで、みゆうの背中には赤いランドセルが。今どきの子は水色だのピンクだの、カラフルなランドセルを背負っているが、鮮やかな赤はみゆうに良く合っている気がする。笑顔が明るいから、ハッキリした色合いが似合うのかもしれない。みゆうはあおぞら荘への道のりを教えるように、次に曲がる場所を教えてくれる。一応頭の中に地図は叩き込んでいるけど、こうして言葉にして実際に一緒に歩いてくれると、より覚えやすい。けど……
「ん、っと……あっちのオレンジ色のおうちは、こわいわんちゃんがいるから注意だよ!」
 時々私情が挟まっているせいで、ちょっと余計な情報も入ってくるけど。
「あ、そういえば」
 学校から五分ほど歩いたところで、商店街へ差し掛かる十字路にぶつかった。そこの赤信号を待っていて、ふと思い出してしまった。俺が声を上げた事で、みゆうが不思議そうに俺を見上げる。みゆうに関わる事なので、俺は視線を下げた。
「どうして香取さんは、俺の迎えを君みたいな小さな子にお願いしたんだろう」
 純粋な疑問を口にすると、みゆうは得意満面というような顔をして立ち止まる。そして、まだ成長の兆しが見えないまっ平らな胸を張った。
「それは、わたしが大家さんだからだよ!」
 俺の頭に、三点リーダーがいくつも表示されていく。そんな気分だ。
え、この子何言ってるのかな? 大家? アパートの? こんな小さな子が? そんなマンガやゲームみたいな展開予想していなかったので、思考回路が上手く繋がってくれない。動揺を隠せず言葉を返せないでいると、みゆうは「聞こえてた?」と小首を傾げた。
 あまりに子どもっぽい言動と容姿だったから、見た目通りの年齢だと思っていた。だけどこのゲーム展開が本当なら――
「もしかしてみゆうちゃんって、実は二十歳超えてるとか……」
「今年で九才だよー」
「じゃあ、まだ小学生……」
「うん! 小学三年生!」
 みゆうは元気よく右手を突き出し、三本の指を立てた。あ、はい。そうだよな。まさかの合法ロ……じゃなくて、見た目に反した成人女子ってわけじゃなかった。安心した、とこういう時は言うべきなんだろうか。事実は小説よりも奇なり……っていうけど、実際の現実はそうそうマンガのような展開はないよな。一人で納得して頷く。
 だが、なら自分を大家と言い出した理由は?
 考えていると、みゆうが俺の指をクイッと引っ張った。視線を下げてみゆうを見ると、彼女は左手で信号機を指さしている。見てみると、青信号に変わっていた。頷いて歩き出すと、みゆうも嬉しそうな顔で横を歩く。
 その姿を斜め上から見下ろして、大事なことに気付いた。彼女の苗字は「東雲」だ。そして不動産屋で賃貸借契約書を交わした時に見た、大家の苗字も「東雲」。
 そうだ、彼女は大家の娘なんだ。だから華緒はこんなに小さな子に、俺の迎えを頼んだのかもしれない。……いや、それでもおかしいけどな。
 まあ、とにかくみゆうが何者なのかが判って良かった。胸をなで下ろし、やっとスッキリした気持ちで前を向く。すると、隣を歩いていたはずのみゆうが俺より前を歩いていた。どうやらご機嫌らしく、よく判らない鼻歌を歌っている。とても可愛らしいと思うが、歌に集中しすぎているような気が……。
「うーさぎさんとぱんださーん、いっしょにごろごろしましょーねー」
 聴いた事のない歌を歌いながら、みゆうはズンズン突き進んでいく。考え事をしていたせいとはいえ、小学生女子に置いていかれそうになるなんて。慌てて追いかけていると、目の前にまた交差点が。そして俺達の進行方向は、赤。
「いっしょにおさんぽ、ごーごーごー!」
 最後の「ごー」という言葉と同時に、みゆうは信号も見ずに一歩踏み出す。その手を掴んで、膝をつきながらこちら側へ引き寄せ、腕に閉じ込めた。直後、白のセダンが勢いよく眼前を走り去っていく。風も、吹き去っていった。
 心臓が痛い。過呼吸寸前になり、呼吸が乱れる。肩を上下させながら深呼吸を繰り返していると、腕の中のみゆうが身動ぎした。力を緩めると、勢いよく顔を上げる。
「さぎりさん、助けてくれてありがとう!」
「いや、別に……あんなの普通だし」
「その普通が出来ない人は、いーっぱいいますよ? だからさぎりさんは、とってもすごいです」
 みゆうの純粋な眼差しと言葉は、俺の胸を撃ちぬいた。
「べ、つに……! すごくなんてない、って……!」
「すごいよ~。やっぱりおにーちゃんだからだね! わたし、びっくりしちゃった! でも、ぎゅーってしてもらってうれしい」
 満面の笑みを湛えるみゆうを前に、俺の頬が熱を帯びていく。小学生を前にこんな反応をしたら、特殊性癖の持ち主と勘違いされるじゃないか。
 気持ちを切り替えようと咳払い。そんな俺から、みゆうは目を離さない。あまり見つめられると、緊張してしまう。みゆうには気付かれないように気持ちを落ち着かせ、彼女から手を放す。
「帰ろうか」
「うん! そうだね」
 今度は青信号である事を確認してから、二人で一緒に横断歩道を歩く。渡り切ると、みゆうは一度立ち止まって、俺を見上げた。
「あのね、またわたしがはしゃがないように、さぎりさん、わたしと手をつないでくれませんか?」
 みゆうは小さな手を広げて、俺に差し出してくる。その小さな手を握るのは簡単な事だ。何より、みゆうの言う通り手を繋いでいた方が安全だと思う。だから一度は手を伸ばしかけたけど――
「……ごめん」
 俺みたいな男が、こんなにも純粋な子と手を繋ぐ事が申し訳なく思えて、俺は自分の手を引っ込めた。
 みゆうは眉尻を下げながらも、その顔に笑みを浮かべて手を下ろす。
「ううん、わたしの方こそむりなおねがいしてごめんなさい」
 明らかにしょげている。小学生の女の子が、俺のせいで傷ついている! 最悪だ……俺はなんて最低な男なんだろう。今すぐその手を掴んであげたら、また笑顔が戻るだろうか?
 一瞬でいろんな考えが頭をよぎったけど、俺は実行に移す事なく住宅街へと続く道を歩き出した。頭の中ではどんな理想も描ける。どんな妄想だって出来る。けど、実際に体が動かなきゃ意味がない。隣を歩くみゆうがもう気持ちを切り替える中、年上の俺は気持ちを切り替えられず、ひっそりと嘆息した。
 商店街を抜けて住宅地に入ると、みゆうは「こっちだよ~」と言いながら前を歩き出した。たださっきの事があってか、十字路に出る前は必ず左右を確認している。そうして右へ曲がって、次は直進……と歩いていると、不動産屋で見た写真通りの建物が見えてきた。
「ここがあおぞら荘だよ!」
 みゆうが立ち止まって紹介するあおぞら荘は、二階建ての軽鉄骨造り。朱色の屋根や、元は白かったのだろう外壁は、ところどころ塗装が剥がれており、全体的に古臭さを感じる。二階へ上がるための階段も至るところに錆が見られ、踏みしめたら音がしそうだ。
一階、二階ともに部屋が三つずつ。計六部屋あるものの、全体が俺の実家より小さい。けどここのアパートの一室が、今日から俺の城になる。
 これから毎日帰ってくるアパートの全景を見つめていると、俺達が歩いてきた方角の向かいから、オレンジに近い赤色のジャージを来た人物が歩いてきた。顔が判別出来ず目を細めていたが、隣のみゆうには判ったらしい。またしても両手を上げて、ピョンピョンと飛び跳ねた。
「ハナちゃ~ん! おかえりなさーい!」
 名前を呼ばれた相手は一度足を止め、軽く手を振る。そして、足早にこちらへ。
 髪を耳にかけながらやってきたのは、つい数時間前に俺を助けてくれた、香取華緒だった。彼女はみゆうに視線を合わせ、口元に笑みを湛えた。
「ただいま、みゆうちゃん」
 その穏やかな声は、先ほど学校で涼に掛けていた声とはまったく違う。嘘をついているわけではないんだろうけど、女っていうのはここまで変わるものなのか。感心していたが、ひとつ気になる事が出来た。
「ただいまって……」
 思わず口にしてしまった俺に、華緒が視線を向ける。
「私、このあおぞら荘に住んでるのよ。203号室」
「俺の隣なんだ……」
「そういう事。これからよろしくね」
「よろしくね、さぎりさん!」
 みゆうにまでよろしくされてしまい、どもりながらなんとか返事をする。その返事に満足したようで、みゆうはまた視線を華緒に戻した。
「ハナちゃん、バイトおつかれさま~。あとでおやつ食べよ!」
「ありがと~、疲れてたから助かるよ。毎日弁当屋で立ちっぱなしで愛想笑いしてると、イロイロ疲れるんだよね」
 本当に大変らしく、華緒は肩に手を当て軽く回した。するとゴキゴキと、少し離れた場所にいる俺にも聞こえるくらいの音が鳴る。しかし疲れたとは言いながらも、表情は楽しそうだ。バイトを辞めるつもりはないんだろう。
 二人を見つめていると、華緒の視線がこちらへ向けられた。華緒は気付いてないんだろうが、彼女の目には力がある。普通に見られるだけでも、なんだか睨まれたように感じ、思わず背筋を伸ばす。すると華緒は腰に手を当て、俺の顔を覗きこんだ。
「顔色、随分良くなったみたいけど、体調大丈夫?」
 心配してくれていたのか。
「随分寝たので、もう大丈夫です」
 スムーズに言うつもりだったけど、実際は小さな声だし挙句どもるし、あまりハッキリと伝えられなかった。だが華緒にはちゃんと聞こえたようで、「そう」と安堵の息を吐き出す。俺も内心胸をなで下ろした。って、俺の伝えなきゃいけない事はそれだけじゃないだろ。心の内で自分を殴りながら、軽く息を吸う。
「あ、あの」
 またどもったー! 何やってんだ、俺! 落ち着け。華緒にただ一言、伝えるだけなんだから。
「さっき、は……保健室まで連れていってくれて……ありが、とう。ございます」
 よし! どもりながらだけど、なんとか言えた!
「元々連れていくつもりだったんだから、気にしないでよ」
「けど、俺……吐いたから、汚かったのに……」
 それが一番申し訳ないんだ。ただ保健室に運ぶんじゃない。吐いて制服を汚した上に意識を失った俺を運ぶなんて、普通は嫌に決まっている。余計な手間をかけさせたんだ、蔑まれる事も覚悟しなければ……。
「そんなもん、病人が気にする事じゃないわよ」
 華緒は唐突に右腕を伸ばすと、俺の額にデコピンを決めた。あまりに素早く手慣れたデコピンに、俺は瞬きする間もなく、ただ与えられた痛みに顔を歪めるだけ。そんな俺を前に華緒は腕組みし、鼻を鳴らした。そんな華緒の腕を、みゆうが引っ張る。
「もー! ハナちゃん、らんぼうはめーだよ!」
「うっ……ご、ごめん」
 どうやら何度か行われた光景らしく、みゆうは「約束したのに」と柔らかそうな頬を膨らませて怒っていた。そんなみゆうに、華緒は困り顔。なんだか年の離れた姉妹のようで、ちょっと微笑ましい。
 ずっと見守っていたくなる光景だったが、華緒が何かに気付いて、みゆうの手を自分から引き離した。そして、ジャージのポケットからスマートフォンを取り出す。
 そういえば、どうして華緒はジャージなんて着ているんだろうか? バイト中は、動きやすい方がいいのかもしれない。
「ごめん、次のバイトの時間だ。新聞配達! みゆうちゃん、甘いものはまた今度一緒に食べようね」
「そうなんだー……」
「ごめんね。今度、ひよこ堂の豆大福買ってくるから」
「ひよこ堂の!? やったぁ~!」
 この町では有名なお店なのか、みゆうは一瞬で破顔した。その表情に華緒も安堵したようで、明らかに表情が柔らかくなる。だがその顔は一瞬でいつもの表情に戻り、俺に向けられた。
「とにかく、あんまり迷惑かけたとか思わないで。あれは私が好きでやった事だから」
「は、はい」
「じゃあね、狭霧君。みゆうちゃんも、また明日!」
 言いながら、華緒は駆け足で過ぎ去っていった。その後ろ姿を、みゆうは両手を振って見送る。お弁当屋に新聞配達か……掛け持ちでバイトをやっているなんて、働き者だな。
 ぼんやりと俺も華緒を見送っていると、左手の中指を引っ張られた。視線を下げると、みゆうがはにかみながら口を開いた。
「さぎりさんは、今日ひっこしてきたばかりだから、おかたづけとかたいへんだよね?」
「え……まあ」
「じゃあ、今日はうちでいっしょにごはんたべよ?」
 確かに今日は届いた荷を解いたり片付けたりと忙しい。それに今日は学校で吐いたり気を失ったりして、あまり体力がない。このまま部屋に戻ったら、コンビニへ行く……という気すら起きないかも。
 だったらみゆうの言う通り、ご飯を一緒した方がいいのかもしれない。けど……自分の勝手で他人の家にお世話になるなんて、なんだか嫌だ。それに、いくら大家の娘とはいえ、初めて会った俺に小学生が無警戒でご飯に誘うなんてありえない。こういう優しさは、疑ってかかるべきだ。
「ありがたいんだけど、片付けいつ終わるか判らないし……遠慮しとくよ」
「そう……?」
 言葉では文句を言わないもののみゆうは不満らしく、唇を尖らせた。それが、小鳥がエサをねだっているみたいで可愛い――と思ってしまった気持ちは、隠しておこう。変態の仲間入りにされかねない。
「うぅ、ざんねんだよ。せっかくみんなに、新しい住人さんをしょうかいしたかったのになぁ」
 みんなって誰だ? 突っ込みたくなってしまうけど、それを尋ねたら余計な事に巻き込まれそうな気がして、やめた。
それより、立っているのがしんどいから、一刻も早く部屋に戻って休みたい。けどそんな事言うと、みゆうが心配しそうだ。これ以上他人に余計な迷惑はかけたくない。目が眩みそうになるのを笑顔で誤魔化して、あおぞら荘に向かって一歩進んだ。
「じゃあ、俺は片付けもあるから、そろそろ部屋に行くね」
「あ、うん。そうですね。引き止めちゃってごめんなさい」
「じゃあね」
 これ以上会話はしない。そう思って鉄製の階段に足をかけると案の定「ギイッ」と鈍い音がした。見た目通り壊れかけのアパートだな、ここ。これから毎日この階段を昇り降りするのかと思ったら、ゾッとする。だけど、そんな事今みゆうに言っても仕方のない事だ。これは後で、大家さんである彼女の両親か、不動産屋にでも言っておこう。
「さぎりさん! あの……また明日!」
 それは、随分と聞かなかった言葉だった。そして自分も、言わなかった言葉。それを初対面の、しかも小学生に言われるんて思わなかった。
 驚きと、戸惑い、緊張……そしてわずかな喜び。いろんな感情が混ざり合い、俺は逃げるように階段を駆け上った。きちんと「また明日」って返してやるのが当たり前なのに……俺は最低だな。解ってはいても、上手に言葉が紡げない。頭で考えている言葉が、喉から出てこないんだ。
下唇を噛みながら二階へ上がると、目の前は202号室。ここが今日から俺の部屋だ。ちなみに……と視線を右に向けると、203号室と書かれており、表札には「香取」の名が。本当に華緒の家なんだなと思いながら、今度は視線を左へ向けた。そっちには201号室と書かれてあったが、表札が出ていない。契約した時、誰も住んではいないと聞いていたけど、まだ契約していないんだな。
 引っ越しの挨拶に行かなきゃいけない苦痛を考えると、一部屋でも空いているのは嬉しい。内心喜びながら、制服のポケットから家の鍵を取り出した。それを鍵穴に差し込んで右に回すと、鍵の開く音がした。
 鍵を抜いて、今度はドアノブを掴んで回しながら押し開く。すると、最初に新しいタタミの匂いが鼻腔をくすぐった。ドアが閉まる音を聞きながら、玄関に突っ立って部屋を見渡す。写真では見ていたけど、やっぱり実際に目にするとまた違う。
玄関から右の壁際にはキッチンがあり、二口コンロも備え付けられていた。大きいとはいえないけど、男が一人でキッチンに立つには丁度いいと思う。
玄関の壁に当たる部分はトイレになっていて、その奥が風呂場……な、はずだ。靴を脱いで確認してみると、見取り図通り。トイレは思ったより広いし、風呂場はまあ……想像通りの狭さだ。
 次に玄関からまっすぐ歩いていき、キッチンとを仕切っている戸を引いた。すると、い草の匂いが強くなる。それもそのはず。部屋は八畳のタタミの部屋だからだ。実家がフローリングなので、これは新鮮で心が踊る。ただ、部屋にはダンボールが積み上げられていた。
 狭い部屋が余計狭くなってしまい、ちょっと窮屈に感じる。だけど、これは全部俺が送った荷物だ。俺が片付けなければ、いつまでもこのまま。
「……明日から、頑張るか」
 息を吐いて、その場に寝そべった。寝るにはちょっと心地が悪いけど、今は布団なんて取り出す気力がない。ああ、もう……いろいろと面倒だ。
 体を横に向けながら、うっすらと目を開ける。カッパのマークの引っ越し業者がくれたダンボールが、三段から四段になって積み上がっている。側面には可愛いのか可愛くないのかよく解らない、カッパのイラストが。ホント……微妙なイラストだ。
 その微妙なカッパを見ていたら、瞼が重くなってきた。いや、カッパのせいじゃないか。さっきまで意識を失っていたっていうのに、体は睡眠を求めているみたいだ。少しなら、眠ってもいいかな。
 うとうとしていると、脳裏に学校の事が浮かんだ。
なるべく目立たないように、ひっそりと三年間を過ごすはずだった。だけど今日の出来事は、どう考えてもクラスメイトや担任の注目を浴びてしまっているはず。名前は覚えてもらえずとも「入学式を途中で退場した奴」というレッテルは簡単に剥がれないだろう。しかも華緒と涼の前では、吐いてしまったしな……。
「上手く、やれるかな……」
 これからの三年間、俺はこの部屋で生活し、あの学校で勉強する。三年は、短いようでものすごく長い。俺はちゃんと、平穏無事に暮らせるんだろうか?
 心配で胃が重くなり、逃げるように目を閉じた。すると、眠気がいよいよ体に迫ってくる。意識を引きずられながら、軽く下唇を噛んだ。
 あの地獄みたいな場所から抜け出してきたんだ。変わりたいんじゃなくて、変わらなきゃ意味がない。俺はここで、幸せとまではいかないものの、平穏な生活を手に入れる。それだけでいい。それだけで、俺は充分だ。
 意識の端で、聴き慣れないチャイムの音。俺の家? それとも、隣の家? もしかして、送っていた荷物の残りが届いたんだろうか? なら、取りに行かなきゃ。でも……今はもう、動くたくないな。このまま、何も考、え……た……く…………な…………――。


 冷たい指先が、わずかに震える。重い瞼を押し上げると、目の前に微妙なイラストのカッパが飛び込んできた。寝起きでこのイラストを見る事になるなんて……なんとなく気持ちが萎える。
 目を細めていると、お腹が鳴った。それも、かなり大きく。食べずに寝たから、栄養が体に回っていないんだ。だから指先が冷たいんだろうな。さっさと起きて、何か食べなければ……。
 のろのろと体を起こすと、外がやけに明るい事に気付いた。随分寝たような気がしたけど、そんなに時間が経っていないのかもしれない。なら、今からコンビニに行って夕飯を買って、食べ終わってから片付けをしよう。そんな算段をつけながら、カバンに入れていたスマートフォンを探す。
「……え?」
 スマートフォンの表示は、7:32
 時計の表示は24時間表記にしているから、つまり……今は午前って事になる。うん、つまり……
「日付変わってる!?」
 口に出すと同時にその場から跳ね起きた。確かに疲れていたけど、まさか半日近くも寝るなんて。制服のままなんで着替える必要はないけど、喉が乾く。キッチンへ行くと蛇口をひねって、水道から直接水を飲んだ。そのまま流しっぱなしの水で顔を洗い、箱を開けてフェイスタオルを引っ張りだす。箱の表面に、何が入っているのか書いておいて良かった。
 タオルをその箱の上に置くと、空のカバンを掴みあげてすぐに玄関へ向かう。今日は授業がない、というのは前もって入学の案内に書いてあったから、必要なものは何もない。
 昨日と同じ薄っぺらいカバンは軽く、持っていく必要性があるのか疑問に感じる。けどそれを置いていく気にもなれず、持ったまま鍵をかけ忘れたドアを開けた。
「なんだ? これ」
 部屋を出ると、ドアノブに見知らぬビニール袋がかかっていた。持ち上げて、中を見てみる。お弁当箱……いや、タッパーが入っている。そして、わずかにしょう油のいい匂い。
 身に覚えのない謎の物体を前に、どうしていいか解らず首をかしげる。誰かが間違えてここにかけたんだろうか? それとも、わざと? だとしたら、このまま放っておいた方がいいんだろうか? いや、けどこれがもし爆発物だったら……。
あーでもないこーでもないと悩んでいると、後ろでドアが開く音がする。振り返ると、丁度華緒が部屋から出ようとしていたところだった。言葉が、喉で詰まる。
「……おはようございます」
 なんとか自分から挨拶出来た。けど、そこまでだ。それ以上の言葉が浮かばない。ええっと、こういう時は何を言えばいいんだったか。
「おはよう、狭霧君」
 挨拶を返されるだけで、ちょっと嬉しいなんて。自分の単純さに苦笑しながら、もう一度「おはよう」と挨拶する。
「顔色はいいみたいね」
「ぐっすり寝たから」
「なら良かった。じゃ、行きましょ」
「……どこに?」
 間抜けな返答だったと自分でも思う。でも、さ。そこまで睨みつける必要はないんじゃないかな、華緒さん。
 華緒は俺に「信じられない」というような目を向けながら、ズンズンと大股で近付いてきた。その迫力にたじろいでしまう。けど華緒は気にした様子もなく、体が触れるんじゃないかと思うほどの距離まで近付き、俺を指さす。
「あのね! こんな時間に制服着て、どこ行くかなんて……ひとつしかないでしょ。学校よ、学校!」
 ハイ、ソウデスネ。言葉にはしないけど、頷く。
「昨日みゆうちゃんに聞いたけど、狭霧君ってこの町に昨日越してきたばかりなんでしょ。だったら学校までの道も、よく解らないんじゃないかって……だから案内がてら、一緒に行こうと思ったのよ」
 確かにその通り。昨日みゆうと一緒に学校からここまで帰ってきたけど、完全に覚えたとは言い難い。だからって、昨日お世話になったばかりの華緒にまたお世話になるのは、気が引ける。
 けど、せっかく向こうから「案内する」と言ってくれているのに、それを無碍に断るのは失礼な気がする。今日だけなら、甘えてしまっても……いや、だけど……。
 どう返事をするべきか考えていると、華緒は俯いてしまった。よく見ると拳を握っており、わずかだが震えている。もしかして、寒いんだろうか。まだ春先だし、今日は太陽がわずかだけど雲に隠れているから、体温が低い人には肌寒いかもしれない。だったら、ここは俺に気にせず先に行ってもらった方が……。
「っあああ! もう! 何考えてんのか知らないけど、道解かんないでしょ! だったらさっさとついてきて!」
 華緒は顔を上げて叫んだかと思ったら、足早に階段を下りていった。力強く踏みしめるから、階段が昨日よりも激しく軋んでいるんだが……よくこんな階段を、遠慮なく下りられるな。華緒の迫力と階段に呆然としていると、道路に出た華緒がこちらを見上げていた。まさに、鬼の形相で。
 このままついていくか否か。悩んでいたら確実に華緒の、あの拳に殴り飛ばされる。なぜだか直感でそう思い、肝が冷えた。こういう時は相手を怒らせないよう素直に従う方が、一番被害が少ない。中学の三年間イジメられ続け身につけたくだらない知恵だけど、今は役に立つはず。
 カバンを握り直して階段を慎重に下りていき、華緒の前に立つ。すると華緒はまだ不機嫌そうに眉根を寄せていたけれど、納得はしたようで「行くわよ」と率先して歩き始めた。その後ろをついて行こうと歩き出して、手元の異物に気付いた。
 視線を下げれば、さっきまでドアノブにかかっていたビニール袋と謎の物体。しまった、持ってきてしまった……。余計な荷物、というほど大きくはないけれど、見に覚えのないものを持ち歩くのはちょっと気持ち悪い。どこかで捨てた方がいいかもしれない。
 ゴミ箱はどこかにないかと、辺りを見回しながら歩いていく。
「何キョロキョロしてんの?」
「いやー……ゴミ箱を探してるんですけど……」
 言いながら、持っていたビニール袋を持ち上げて見せる。すると華緒はそれを見て不思議そうな、何か知っているかのような顔をした。
「それってもしかして……」
「はよーす!」
 華緒の言葉を遮って、前から涼が大声と共に姿を現す。
「お、はよう……ございます」
「同い年なんだから、ございますは余計だよ。敬語はなし。な!」
 涼は朝から元気がいいみたいで、ヘラヘラと笑いながら俺の隣までやってきた。それから元来た道を歩き出す。いちいちこっちへ来る必要はなかったんじゃ……。
「華緒、お前ちゃんと圭介に教えたのか?」
 圭介って……俺の名前だよな? まさか、出会って二日目の同級生に下の名前を呼ばれるなんて思わなかった。
「あ、まだ」
「華緒は優しくねーな」
 からかい半分なのだろう、笑ったままの涼に華緒は息を吐きながら「うるさい」といなすだけ。それに肩をすくめながら、涼がこちらを見た。
「圭介のクラス、俺と華緒と一緒なんだよ。だから、仲良くしような!」
「あ……」
 華緒も振り返って、こちらを見る。
「今日からよろしくね、狭霧君」
 昨日、あんなに優しかった二人が同じクラスにいる。それはすごく嬉しいし、安心する。何より、こうして二人に「よろしく」と声をかけられると、改めて新しい学校生活を送れるんだという喜びに、胸がくすぐったくなった。
「よ、よろしくお願いします。香取さん、松風くん」
「だからー! 敬語はいらないって! 俺達同い年なんだぞ。名前も、涼って呼び捨てにしていいからな」
「う、うん。そうだな。……涼」
「うんうん、それだよ!」
 黙っていればそこらのアイドルよりかっこいいのに、ノリはお笑い芸人のようだ。そういうところは、嫌いじゃない。
「涼! 狭霧君困ってるじゃない。さっさと歩きなさいよ」
「へーい。……ったく、華緒はうちの母さんより口うるさいんだよなー。圭介、あいつには逆らわない方がいいぞ」
「うん、解った」
「涼! 余計な事言わない!」
「お~怖っ!」
 調子のいい涼を、眉を吊り上げて睨みつける華緒。けど、その怒ったままの目をなぜか俺に向ける。
「狭霧君も、涼の言う事をいちいち間に受けない!」
「す、すみません」
「謝らなくていいわよ。後……私にも、敬語使わなくていいからね」
 華緒はそれだけ言うと、答えを待たずに歩き出した。そんな華緒の後ろ姿を見つめながら、涼が小さく笑う。
「あいつ、口調は乱暴だけとイイヤツだからさ。嫌わないでやってよ」
「……ああ」
 頷くと、涼は嬉しそうに破顔する。その顔を見ただけでも、涼が華緒に好意を抱いているのがよく解った。いや、これはもう恋を飛び越えて家族の愛情を抱いているのかもしれない。涼からは、そんな雰囲気が伝わってきた。
 青春って感じで、いいな。気持ちが温かくなる。
 反面、自分がここにいるのはひどく居心地が悪かった。それは、ただ邪魔をしたくない、という気持ちだけじゃない。この二人が、どうしてここまで初対面の俺に優しくするのかが解らないからだ。
 無償の優しさ、というのは存在すると思う。けど、それに甘えていいのか? また甘えて痛い目を見るかもしれないだろう。だったら、この二人のことを手放しで信用しない方がいいかもしれない。けど――そんな気持ちでいたら、俺はまた地獄の三年間を過ごす羽目になるのかも……。
 嫌な考えがグルグルと巡り、また気持ち悪くなりそうになった。吐き気を抑えるように奥歯を噛んで、大きく深呼吸をする。
「狭霧君、次の道は右に曲がるんだけど……」
「あ……うん、解った」
「大丈夫? 昨日の今日なんだから、体調が悪くなったら言ってよね」
「うん。ありがとう」
 今は何も考えないで、この優しさに甘えていよう。そんな思いで笑顔を作ると、華緒は「ならいいけど」と安心したような顔で呟いた。

****************

 学校の説明、今後の行事、教科書以外に必要なものの購入品リスト、体育の科目選択について、学校での注意事項などなど……説明だけで時間はあっという間に過ぎ、気付けば本来の授業時間、四限目が終わりを告げた。二年・三年の先輩達は今日も普通に授業があるので、俺達の説明が終わらなくても廊下は騒がしくなる。
 窓から二列目、前から四列目の席からでも、その騒がしさが耳に届く。隣の席の女子生徒は「うるさいなあ」と不満そうに小さな声で呟いた。それは、クラス全員の総意だろう。それは担任も同じだったようで、説明の途中だった和泉先生は柔和な顔つきをわずかに曇らせ、軽く息を吐いた。
「早く終わらせたかったんだけど……こんなに騒がしいと、みんなも集中出来ないだろうし、今日はもう解散にしようか」
 すると生徒達の口から次々と「やった」や「ラッキー」などと言った安堵の声が漏れた。それを聞いて和泉先生は更に眉尻を下げる。
「話はまだ終わりじゃないよー。明日からは普通の授業が始まるから、みんな、教科書は忘れないで持ってくるんだよ。それと、今日はこのまま帰ってもいいし、ここでお昼ご飯を食べてもいいよ」
「学食も使っていいの?」
 手を上げると同時に質問したのは、涼だ。和泉先生は涼に視線を向けると、答える前に大きく頷く。
「もちろん。君達はここの学生さんなんだから、学食も購買も、自由に使っていいよ。けど、あまり大きな声で騒いだりしないように。節度を守ろうね」
 いい先生に当たると、生徒も素直になる。のかもしれない。和泉先生の笑顔に、みんなが片手を上げて「はーい」と小学生のような返事をした。その元気の良さに、和泉先生はますます嬉しそうに口元を緩めた。
「じゃあ、今日はここまで。みんな、明日からよろしくね」
 最後に先生が挨拶をして、やっと説明会は終わりを告げる。すると生徒達は一斉に立ち上がり、それぞれ仲の良い生徒の元へ向かったり、教室を出たり……一気に騒がしさが増す。和泉先生はそれを見つめながら、資料をまとめて教室を出る準備をしていた。
 俺は、どうしよう。特に学食で食べたいというわけでもないし、ここはさっさと家に帰って部屋を片付けようか。あのダンボールの山は早く処理しておかないと、だらけて放置を決め込みそうな予感がする。
 カバンを持ってイスから立ち上がりかける。そこへ、涼が手を振りながらやってきた。
「なあ、一緒に昼飯食おう!」
「え……俺と?」
「お前以外に誰がいるんだよ。俺、学食に行ってみたかったんだよな。だから、ほら!」
 クラスメイトからこんな風に昼飯に誘われるなんて、よそからやってきた俺にはもうないかもしれない。何より、昨日今日と話をした涼となら、緊張せずにいれそうだ。
「じゃあ、行こうかな」
 そう言って立ち上がったけど、大事なものがない事に気付いてすぐカバンを開けた。けど、そこにもない。
 ポンポン、パンパン。
 体中くまなく両手で叩いてみたけど、やっぱりない。そんな俺を、涼が不思議そうな顔で見ている。その顔に向かって、真顔で口を開く。
「財布、持ってこなかった」
「あちゃー」
 せっかく誘ってもらったのに、なんて運のなさだ、俺は。本気で落胆していると、涼がいきなり顔を近付けた。驚いて息を詰める俺の前で、涼の鼻がヒクヒクと犬かウサギのように動く。
「な、何やってんの?」
「いや~、なんか……いい匂いが…………」
「顔! 顔近い!」
 叫ぶ俺なんて完全に無視。涼は顔を首元近くまで寄せてきた。なんで教室でこんな……!
「あ!」
 あ?
「これだ!」
 涼の顔は俺の肩口から更に下……机の横に掛けていたビニール袋に寄せられた。涼は同じように鼻をひくつかせた後、「やっぱりな」と一人で納得してからそのビニール袋を持ち上げる。捨てようと思っていたけど、結局ゴミ箱を見つけられず、そのままにしていたアレだ。
「なんかこれ、いい匂いするよな。しょう油の……煮物みたいな」
「それ、今朝俺の家のドアノブにかかってたんだ。誰が置いてったのか解かんなくてさ……捨てようと思ったんだよ」
「中見てみたのか?」
 首を振ると「なら見てみよう」と、涼はビニール袋の中身を取り出した。中から出てきたのはタッパーと、一枚の便せん。涼は便せんを俺に渡し、タッパーを机の上へ置いた。そのフタをゆっくりと開ける。
「おっ!?」
「おおお!」
 二人して、妙な声を上げてしまう。それくらい、タッパーの中から出てきたものに感動してしまった。
 それはただの肉じゃが。大きめに切られたじゃがいもはホクホクしており、人参のオレンジ色がより一層食欲を引き立てる。玉ねぎはくし切りにされており、透明なそれに味がよく染みこんでいるんだと一目見て解った。バラ肉も遠慮なくたっぷり入っているので、食べごたえがありそうだ。
何より一番胃を刺激するのは、素朴なしょう油の優しい香り。育ち盛りの男子高校生二人、こんなに美味しそうな匂いをかいだらお腹が鳴るのは自然の流れだろう。思わず唾を飲み込んでしまう。
「なあ、これもしかして、小波ばあちゃんのじゃないか?」
「さざなみ? さんって、誰?」
 首を傾げる俺に、涼は俺の手を指さす。何かお思い視線を下げると、タッパーと一緒に入っていた手紙。開いてみると、一番下に「野分小波」と書かれていた。
「小波ばあちゃんは、あおぞら荘に住んでる人だよ」
「知り合いなのか?」
「いやー、何回か挨拶したってくらいだな。ほら、あそこは華緒が住んでるからさ。たまに顔合わせるんだ」
 納得して頷く。
「ばあちゃん、なんだって?」
 言われて手紙に視線を落とすと、手紙には俺の名前が書かれてあった。まだ顔も合わせた事がない人なのに、どうして俺の名前を知っているんだろう? そんな疑問は、手紙の二行目に書かれてあった。
――お引越しの事、みゆうちゃんから聞きました。ご挨拶に伺ったのですがお留守だったようなので、こうしてお手紙を認めさせて頂きます。
 なんて丁寧な、そして流暢な文字だろう。こんな手紙、初めてもらう。
――タッパーの中は、私の作った肉じゃがです。お引っ越しのお祝いのつもりで作りました。よければ召し上がって下さい。
「わざわざ引っ越してきた人に、肉じゃがの差し入れって……ばあちゃん、いい人だなー」
 そうだな、と返事も出来ず、手紙を持ったまま固まる。確かに野分さんはとてもいい人だと思う。けど、顔も知らない人から貰った食べ物を口にするのは、ちょっと怖い。何より、手放しの優しさに触れたりしたら――
 優しさを感じる肉じゃがを前に眉間を寄せていると、横から手が伸びた。
「いただきまーす」
 涼は箸も使わず指でジャガイモをつまむと、そのまま口に放り込む。
「ん! 美味い!」
 涼の顔はみるみるうちに破顔し、見ているこっちにまで美味しさが伝わってきた。そんな姿を見ていると、お腹が勝手に鳴ってしまう。すると涼は、手についたしょう油を舐め取りながらもう片方の手でタッパーを俺の方へ押した。
「圭介も食ってみろよ。マジで美味いからさ」
「あ……」
 味見くらいなら……そう思っても、なぜか手が伸びない。代わりに、吐き気が胃からせり上がってきた。慌てて右手で口元を押さえ、左手でタッパーを涼の方へ戻す。
「ごめん。まだちょっと体調戻ってないから……これ、涼が全部食べていいよ」
「え……大丈夫か? 保健室、行っとくか?」
「大丈夫。けど、ちょっとトイレ行ってくる」
 力は入らないがなんとか笑ってみせ、そのまま教室を出た。申し訳ない気持ちが湧き上がるけどそれを抑えこみ、一年生でごった返す廊下を北側へ向かってまっすぐ歩いていく。そこには、青色と赤色のプレートが出ており、それぞれ男女のピクトグラムが描かれている。迷わず青色……つまり男子トイレへ入った。
 みんなもう帰ったのか、どこかで昼飯でも食べているらしく、男子トイレには誰にもいない。内心安堵しながら、一番奥の個室に駆け込んだ。
「っ、はあ……!」
 肺の中の空気を思い切り吐き出して、ドアに背中を預ける。気持ち悪い……出来れば吐きたいけど、吐くほどせり上がってもいない。胃の中がモヤモヤする。
 それにしても、何やってんだろう、俺。イジメられたくなくて、幸せになりたくて実家から遠く離れた田舎の高校まで来たっていうのに……相手の優しさに怖がってばかりじゃ、変われないじゃないか。
 頭では解っているはずなのに、心が追いつかない。
 たくさんの優しさは、正直嬉しい。それに、とっても温かい。だけど同時に怖くなる。そこに触れた瞬間、叩き落とされるんじゃないかって。余計な心配だって事は解るけど、人間は急に手のひらを返す生き物だ。それは、嫌というほど味わったから――……。
中学時代、俺のことを「親友」と呼んでくれた唯一の友達がいた。イジメられている俺を助け、かばってくれた同級生。彼は、絶対にそばにいると言ってくれた。自分だけは俺の友達でいてくれると言ってくれた。なのに――
『ごめん。お前をかばって僕までイジメられたくないからさ……もう、友達やめるよ』
 そう言って、あいつは俺を裏切った。イジメている側の人間に回ったのだ。その時の顔は今でも忘れない。申し訳なさそうに告げておきながら、イジメている時のあいつは誰より輝いていた。それはもう、こっちが本心だったんだろと言いたいほどに。
「涼も……香取さんだって……本心じゃどう思ってるか…………」
 みんながみんな、人を裏切るような奴じゃないっていうのは解ってる。何より、疑ってばかりじゃ前に進めない。けど……所詮人間。裏切らないとは限らない。
 そんな思いが鎖のように俺の体に巻き付いて、身動きを取れなくさせていた。
 結局。
俺はその後、具合が悪いという事を押し通し、涼には悪いけど先に帰る事にした。残りの肉じゃがも涼に押し付けようとしたけど、彼はちゃんとフタをして「家で食べろよ」と笑顔。押し付ける理由も特に浮かばず、そのまま持ち帰る事になった。
 昨日はみゆうが、そして今日の朝は華緒と涼が道案内をしてくれた、アパートまでの帰路を歩く。同じ道を二回歩いたおかげか、迷う事なく足が進む。けど、さすがに堂々と……ではいかず、曲がり角では一度立ち止まり頭の中で整理してから。それでも、昨日みゆうと一緒に歩いていた時よりは、幾分早く歩く事が出来た。
 青色が眩しいコンビニの角を曲がってまっすぐ歩いていくと、あおぞら荘のボロい外観が見えてくる。けど今日はそれだけじゃなくて、アパート先にみゆうの姿も見えた。その隣には……薄紫色の着物を着た、見知らぬ老婆。
 知らない大人の姿に、歩いていた足がゆっくりと止まる。あそこは俺の家だ。けど知らない人がいるってだけで、近付きたくない。どうしよう、遠回りしていなくなるのを待とうか……。
 あおぞら荘の近くで呆然と突っ立っていると、今まで背を向けて何かを動かしていたみゆうの動きが止まり、こちらを振り返った。ん? 今、目が合った……気がするんだけど。まさかね。
「さぎりさんだー!」
 見えてたのかー!
 叫びたくなる気持ちを抑える代わりに、頭を抱えて盛大に嘆息した。ここからアパートまで、三百メートルは離れていると思うんだけど……。俺が驚いている事なんて当然知らないみゆうは、昨日と同じように両手を上げてピョンピョン跳ねている。みゆうのそばにいた老婆は、俺を見て会釈をした。こうなったら逃げられない。
 俺は会釈を返してから、みゆう達の元へ向かった。みゆうは自分の背丈よりも大きなホウキを持って、俺の到着を目を輝かせながら待っている。
「さぎりさん、もう学校だったんだね」
「うん。授業は明日からだけどね」
「体はだいじょうぶ? つらくなかった?」
「もう大丈夫だよ。心配してくれて、ありがとう」
 俺の答えに、みゆうは自分のことのように微笑んで「良かった」と言う。そんなに純粋な反応をされると、どうしていいか解らなくないから困る。ソワソワしていると、老婆がみゆうの名前を呼んだ。するとみゆうは何かを思い出したようで、しゃん、と背筋を伸ばす。
「あのね、さぎりさん。おばーちゃんのしょうかい、しておくね。この人はあおぞら荘に住んでいる、のわけさざなみさんだよ」
 やっぱりか。なんとなく予想はしていたので、あまり驚かない。
「おばーちゃん、この人が新しくひっこしてきた、さぎりさんだよ」
 おばーちゃん、と呼ばれた野分さんは、みゆうを慈しむような目で見つめながら頷いた後、ゆっくりした動作でこちらに視線を向けた。
 総白髪の髪を、丁寧に後ろでお団子にしてまとめている。そこには、赤いかんざしが刺さっていた。みゆうと掃除をしていたのか、野分さんの手にもホウキが。
「はじめまして。103号室に住んでいます、野分小波と申します。今日から同じアパートに住む者同士、よろしくお願いしますね」
「あ……こちらこそ、よろしくお願いします」
「実は、昨日ご挨拶にお伺いしたんですけど、お留守だったみたいで……」
「すみません、丁度寝ていたみたいで。あ、肉じゃがの差し入れ、ありがとうございました」
 当たり障りのない対応、だったよな? 上辺だけの笑顔でごまかせないかと笑っていたら、野分さんも微笑んだ。
 昔から、両親によく連れ回され、知らない大人と挨拶をする機会が多かった。おかげで上辺だけの笑顔と上辺だけの言葉なら、勝手に口から出てくる。けど俺は食べていないから、美味しかったです、なんて言葉はさすがに言えないけど。
 野分さんと二人で微笑み合っていると、間でみゆうが飛び跳ねた。
「あのね! おばーちゃんのごはんは、すっごくおいしいんだよ。わたし、いっつも朝はおばーちゃんと食べてるの。今日のお昼もいっしょに食べるのー」
「良ければ狭霧さんも、一緒にどうですか?」
 みゆうと共に、野分さんまで俺を見てくる。それも、純粋でまっすぐな目で。野分さんが気難しいタイプの人だったら、あっさり断れたんだろうけど、みゆうと同じ優しそうな雰囲気の人だから、断りづらい。かと言って「お言葉に甘えて」なんて気持ちにはならない。だってこの人の作った肉じゃがさえ、まだまともに食べようって気になれないのに。
 持っていたカバンと袋を握りしめながら、まずは笑顔。それから深く頭を下げた。
「ご一緒したいのは山々なんですけど、これから片付けしなきゃいけないんで、今日は遠慮しておきます」
 ちょっと他人行儀すぎたかな? けど、これくらい言っておいた方が差し込む隙がないだろう。
 俺の思いは通じたようで、野分さんは頷きながら「また今度ね」と納得してくれた。けどみゆうは残念がって、柔らかそうな唇を尖らせる。昨日も俺を食事に誘っていたから、今日こそは――という気持ちだったのかもしれない。申し訳ない事をしたな。
しかし野分さんに諭されると、みゆうは渋々だが納得してくれた。もちろん「今度は絶対に食べようね」と念を押されたけど。
 これでやっと部屋に戻れる。
 安堵の息を吐き出し、「失礼します」と口にしかけたその時。前触れもなく肩に重みがかかった。なんだ? そんな疑問を口にする間もなく、今度は背中に重みと温もりがのしかかってきた。前のめりに倒れそうになる視界に、ほっそりとした白い腕が。
「やーん! この子可愛い~♪」
 甲高い声が耳を直撃。顔だけ後ろに向けると、ゆるくウェーブのかかった髪の根本まで、綺麗に金色に染めた女性がいた。下がり気味の眉と目尻。その下には小さなホクロが見えた。この人誰だ? っていうか、なんでこの人、俺に抱きついているんだろう。しかも背中に当たるこの柔らかな感触は……!
 新たな見知らぬ女性の登場と感触にうろたえる俺の前で、みゆうと野分さんは特に気にせず微笑んだ。この人のこの行動は、二人にとって当たり前だというのか。
「さらちゃん、その人はねー、昨日ひっこしてきた、さぎりさんだよ」
「へえ、この子が新しい住人なのねぇ」
 さらちゃん、と呼ばれた女性はコロコロと鈴の音のような声で笑いながら、更に俺を抱きしめてくる。見知らぬ男相手に抱きついてくるなんて、この人は、あれか。いわゆるビッチというやつか?
 この状況に固まっていると、女性は俺に抱きついたまま頬をすり寄せてきた。嗅ぎ慣れない香水が鼻孔をくすぐり、気持ち悪くなる。そんな俺へ、女性は「狭霧君」と甘い声で呼びかけた。
「アタシは102号室に住んでる、宮古更紗よ。今から仕事だからあんまり構えなくてごめんね~、狭霧……えーっと、名前は?」
「え……っと。圭介です」
「じゃあ、圭ちゃんね。ヨロシク、圭ちゃん♪」
 気安く名前を呼び、ウィンクを投げる宮古さん。今までこんな人は近くにいなかったので、気圧されてしまって返事も曖昧になってしまう。しかし宮古さんは特に気にした様子もなく、抱きついていた手を肩に回す。彼女が横に来てその格好を見た瞬間、顔が一気に火照っていった。
 胸の半分が見えるようなざっくり開いた薄手の赤色のニット。下はホットパンツを穿いているみたいだけど、ニットがロング丈なせいで、ほとんど穿いていないように見える。黒のロングブーツは膝まであり、それを綺麗に履きこなしていた。
そんな破廉恥な格好など気にならないのか、それとも俺が気にしすぎなのか。みゆうは宮古さんを見上げて、昨日と同じ無邪気な顔で笑った。
「さらちゃんおしごと行くの? 今日は早いんだねぇ」
「今日は某会社の社長さんと、同伴出勤なのよ」
 同伴出勤……俺も本の情報でしか知らないけど、確かキャバクラ嬢がお客さんと出勤前に少し食事をしてから一緒に店へ行く事、だった気がする。つまり、宮古さんの仕事はキャバクラ嬢って事か。
 そう思って宮古さんを見ると、なるほど、納得の格好だ。相手の男性にいかにして媚びるか。そしてより一層自分に貢がせるか。そんな雰囲気が出ている。
 思わずジロジロ見てしまうが、宮古さんにとって男の視線は慣れたものみたいだ。髪を掻きあげながら、言葉の意味を理解していないみゆうに苦笑い。
「みゅーちゃんにはまだ早かったわね。えっとねー……お仕事のために、ちょっと男の人と、デートしてくるのよ」
 当たり障りのない解答に、みゆうは感嘆の声を上げた。事情を察している野分さんは、微笑んだまま頷いている。その反応に、宮古さんも安堵していた。
「じゃあ、お昼ごはんいっしょに食べられないね」
「ごめんねー。けど、明日は一緒に食べましょ」
「なら、明日は更紗ちゃんの分まで作らないといけないわねぇ」
「わたしもつくるー!」
「小波さんのご飯大好きだから、楽しみにしてるわね」
 三人はいつもご飯を一緒に食べる事が多いらしく、その姿は自然で、とても楽しそうだ。そんな中に俺がいちゃ、邪魔じゃないだろうか。どうせ三人とも俺なんて見ていないんだし……。
「っ、う……」
 急にせり上がってきた吐き気を抑えようと、慌てて右手を口元に当てた。三人の邪魔にならないうちに、このまま部屋へ戻ろう。さすがに二度も人前で吐くなんて、最悪すぎる。
「さぎりさん、もしかして、具合悪いの?」
 みゆうは心配そうな目でこちらを見つめていた。慌てて首を振ろうとしたけど、野分さんの小さな手が俺の頬に触れる。皺の寄った肌だが、触り心地は悪くない。
「確かに、ちょっと顔色が悪いわねぇ」
 振り払う事を躊躇っていると、今度は宮古さんの両手が俺の頬を包み込んだ。そのまま強引にグルリと振り向かせられる。痛いイタイ! 首! 痛いから!
「んー……確かにちょーっと疲れた顔してるわねぇ。横になった方がいいんじゃない?」
「そ……そう、ですね」
 痛みを堪えて頷くと、宮古さんはやっと手を放してくれた。ホッと息を吐き出し、痛む首を擦る。
「アタシも仕事あるし、もう行くわ。じゃね~、圭ちゃん。今度一緒に遊びましょ」
 宮古さんはまたウィンクを投げ、軽く片手を振りながら去っていった。それをみゆう達と共に見送ってから、俺も階段に足をかける。
「おにーちゃ……さぎりさん!」
 振り返ると、みゆうは心配そうな顔で口を開いた。
「おうちにひとりで大丈夫?」
きっと昨日の今日だから、気遣ってくれているんだろう。小学生なのに本当によく出来た子だ。こういう気持ちはありがたいと思う。けど、他人に……それも小学生に心配されるなんて申し訳ないし、何より恥ずかしい。
 だからみゆうに気付かれないように、俺は精一杯の笑みを浮かべてみせた。疑われないように、胸を張って堂々と。
「大丈夫だよ。ちょっと疲れたみたい。けど、少し休めば平気だから」
「ならいいんだけど……」
「心配かけてごめんね」
 首を横に振って、みゆうは両手をぎゅっと握りしめながら一歩前に出る。
「大家さんなんだから、とうぜんだよ!」
 またそれか。この子は大家の娘として、誇りがあるんだろうな。偉い偉い。ほら、野分さんもみゆうの頭を撫でて、彼女を褒めている。
きっと両親の仕事を尊敬し、自分もそうなりたいと思っているんだろうな。こんなにいい子を育てられる両親が経営するアパートに住めて良かった。でも、だからこそこれ以上の迷惑はかけたくない。
 笑顔のまままた階段を歩き出すと、みゆうは後ろから俺の名前を呼んだ。
「ぐあい悪い時は、いつでも言ってね」
 ありがたい申し出だけど、さすがにそれに同意は出来ないから――。振り返る事も、返事をする事もせず、俺は階段を上りきりカギを開けて一人きりの家へ入っていった。


「……おなかすいた」
 一人きりの部屋でぽつりと呟くと、言葉は宙で溶けて消えてしまった。響くほどの元気もないのかと、自分の声ながら落胆する。まあ、本当にお腹が空いているんだから、仕方ないか。嘆息し、畳の上で寝返りを打つ。
 ここへ越してきて、今日で二週間。本来なら一週間ごとに、親の俺の銀行に生活費をいれてくれるはずだった。しかし一週間前、俺への仕送りを忘れたまま、両親は仕事で海外へ渡航。「野菜や肉は送っているから、それで足りるでしょ」母親はそう言ったけど、料理の出来ない男子高校生がそんなものでどう飢えをしのげるのか。
 結果、俺はこの三日間、水以外の物を口にしていない。最初の一週間、どうせ仕送りがあるからと高い弁当を買ったのが悪かった。けど、誰がこんな展開になると予測がつくのか。後先考えずに使ってしまった俺は悪くない。はず。
 いや、こんな事考えている場合じゃない。枕元に置いてあるスマホに手を伸ばして、時間を確認する。そろそろ学校へ行かないと、遅刻するかも。ご飯を食べていないせいで体に力が入らないけど、土曜日は半日で授業が終わるし、明日は日曜日で休みだ。少し我慢すればいいだけ。そう思ってなんとか丹田に力を入れると、ゆるりと体を起こした。
 制服を軽く叩いて皺を伸ばし、忘れ物がないか確認する。っていうか、今日の授業なんだったっけ? よく覚えてないけど……多分、なんとかなるだろ。
 そんな風に思っていた朝の自分を、俺は昼前に恨む事となった。
「なんで土曜日の授業に体育があるんだよー」
 涼の文句はもっともだ。土曜日の授業に体育があるなんて、バランスが悪すぎる。これで授業が終わるとはいえ、あんまりだ。
 トラックを十周走るだけの、普段なら簡単な授業だが、ご飯を食べていない体ではかなり辛い。クラスメイトの男子達はさすがに体力があるようで、かったるそうにしながらもサクサク走っている。それを遠目に見ながら、俺は息を切らして上がらない足を必死に奮い立たせながら、前へと進んだ。
 女子生徒は体育館でバレーボールをやっているらしい。それも嫌だけど、チームを作ってプレイする間、他のチームは休めるのが羨ましい。こっちは、絶対に休めないんだから。
 体育教師はスタート地点に仁王立ちで、名簿片手に今何週目なのかをチェックしていく。教師の前を通る度に何週目か声をかけてくれるので解りやすい。ただ足の遅い生徒には、もっと早くしろと叱咤を飛ばす。それがやる気を削いでいるんだが……言っても聞いてくれないだろうな、ああいう人は。
 息を吐き出しながら四周目をやっと走ったところで、九週目の涼が俺に追いついた。
涼はクラスの中でも足が早いようで、他の生徒と比べてその表情にはまだ余裕が見られる。彼は俺の肩を叩くと「お疲れ」と爽やかな笑みを浮かべた。こっちは足がもつれてこけそうだっていうのに、涼の顔は「まだまだ走れます」と言っているように見える。きっと普段の俺でも、追いつけないな、これは。
 涼は俺の走るペースに合わせて、足の動きを緩めた。しかも器用に、俺の顔を覗きこんでくる。
「ちょっと顔色悪いぞ? 大丈夫か?」
「あー……」
 ここで「実はご飯食べてなくて力が出ない」と言えば、きっと涼は助けてくれるんだろうな。この二週間の付き合いでも、それくらいは解る。でも――
「大丈夫。ちょっと疲れただけだから」
 つい、嘘をついてしまった。だって、これ以上涼に甘えるのは申し訳ない。何より、授業の途中で抜けると、今度こそ教師に目をつけられそうだ。
 入学式での出来事を気にする生徒は、思っていたよりいなかった。クラスメイトはさすがに、一日二日は「大丈夫か?」と声をかけてくれたけど、それもすぐ収まる程度。おかげで気負わずに済んだ。
 うんざりしたのは、教師の方。それが仕事とはいえ、毎日、担任以外も俺の顔を見ては体調を気にかけてきた。ありがたいのは山々だけど、俺は出来るだけ静かに三年間を過ごしたい。ここで授業を抜ければ、より一層教師に「厄介な奴」として認識され、今以上に面倒だ。なら、後少し我慢すればいい。後、少し……!
「ま、あんまり無理すんなよー。こんなの、力抜いていいんだからな」
「楽しそうに走ってるお前が言うセリフか、それ」
「ハハッ、それもそうだな」
「けど、まあ……のんびり走るよ」
「おー」
 俺の言葉を信じてくれ、自分のペースで走りだした涼。その背中を見送りながら、ふらつく足をなんとか前に出す。思うように進まないけど、今はとにかく走らなきゃ。
 そんな気持ちとは裏腹に、足はどんどん絡まっていく。一歩進む度に前のめりになって、体全体がバランスを崩しそうになった。必死に堪えてまた一歩、また必死に耐えて一歩。全然前に進まない。それどころか、体が右へ左へ揺れ始める。
 後少しなんだから、踏ん張らないと……って、グラウンド、こんなに広かったか?
「っ、あ……!?」
 口から妙な声が出たと同時に、右足が左足にかかってしまう。体は前のめりに。耐えなきゃ……なんて気持ち空しく散り、どんどん傾いていく。視界に映る景色が、スローモーションのように変化していった。
「っ!」
 ドンッ、という鈍い音と共に、体に痛みが広がる。口には砂の味。最悪だ。いくら体力がなかったからって、この年でこけるなんて……。
「おいおい、狭霧~。しっかりしろよ~」
 俺のそばを走り抜けていくクラスメイトが、笑いながら声をかけてくる。他の生徒も通り過ぎ様クスクスと笑う。笑い声、笑い声、笑い声。
 小さな笑い声は、俺の中で渦巻き、大きくなっていく。
 これはただの笑い声。この笑い声にはなんの意図もない。俺のドジを少しからかっているだけ。俺をバカにしているわけじゃない。イジメられているわけじゃない。これは違うんだ。違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う!
「う、ぇ……ゲホッ!」
 四つん這いになった状態で、盛大に胃液が口から溢れた。そこからドロドロと、中身のないものが次々と運動場へ吐き出されていく。笑い声は消え、代わりにざわめきが広がっていった。どこか遠くで、俺の名前を呼ぶ声が聞こえる……気が……。
「うわっ、あいつ吐いてる」
「あーあ、最悪。あれ誰が掃除するんだよ」
 クラスメイトの嫌そうな声が、耳に届く。そのセリフのひとつひとつが、俺の胃に槍を突き立て更に吐き気を催した。目の前が真っ白に染まっていき、また胃液がせり上がってくる。喉が焼けるように熱い。でもそんな事気にならない――いや、気にしている余裕がない。頭の中がグチャグチャに絡まっていき、何も考えられなくなる。
目立ちたくなかったのに、今度こそおしまいだ。授業中に吐いた俺のことなんて、クラスメイトは絶対に毛嫌いするに決まってる。みんな、俺を避けて白い目で見るんだ。もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だ!!
「狭霧!?」
 それは……俺の名前?
「ちょっと、あんた達! ボケッとしてるヒマあったら助けなさいよ!」
 聞き馴染みのある声が、脳に直接響く。けど、彼女は今、体育館で授業中だったはず。どうして運動場で声が聞こえるんだろう? わずかな思考に疑問符が浮かぶ。それともこれは、俺の妄想? 彼女なら――香取華緒なら、俺がどんな醜態を晒しても助けてくれる、と期待しているのかも。
 吐くものがないせいか、すべて吐き切ってしまうと今度は空気が溢れる。その度に胃が痙攣し、引きつって痛い。
 短い呼吸を繰り返していると、両肩を何かに掴まれた。その直後、体がふわりと浮き上がる。いや、ただ立たせられただけ、か?
「ったく、俺の見てない時に倒れるなって~」
 肩を上下させながら左を見る。そこには、汗を滲ませた涼が。
「ほら、しっかりしなさい。保健室行くわよ」
 今度は右に視線を移す。そこには妄想ではなく、リアルの華緒。
 二人は俺の腕をそれぞれ掴んで肩にかけ、支えてくれていた。その力強さと温もりが、空っぽの体に入り込んでいく。
「ごめ、ん……二人とも……」
「バーカ、謝る必要なんかないって」
「それよりあんたは、今は寝てなさい。後は私達が全部片付けてあげるから」
 小さく頷くと、二人はより俺に体を密着させた。その感触に俺はホッと息を吐き出し、言われた通り目を閉じた。

****************

 まるで雲の上に体を横たえているような、心地よさを……感じ…………ない? 何かが上に乗っているのか、なんだか苦しい。特に腹の辺りが。
 一体、何が……。
「あ! おにーちゃん!」
「っ! み、みゆうちゃん!?」
 目を開けたと同時に広がるのは、白い天井ではなく幼い少女の顔。よく見てみると、みゆうは俺の腹辺りに乗っているようだった。想像していなかった人の姿に、声が裏返って体が揺れる。しかしみゆうはそれに気付かず、鼻頭がくっつきそうなほど近付けた。
「おにーちゃ……たおれちゃったって……ずっと目を開けないから……わたっ……わたし、こわくって……ッ」
 みゆうの大きな目に、じんわりと涙が滲んでいく。更なる予想外の出来事に、俺の思考回路が追いつかない。なんでこの子は、俺なんかのために泣くんだ?
 なんと声を掛ければいいのか解らずうろたえていると、みゆうは倒れこむような形で俺に抱きついてきた。胸元にかかる重みと温もりに、心臓が一拍跳ねる。やっぱり、わけが解らない。どうしてこの子は、アパートの住人に過ぎない俺のために、ここまで悲しんでくれるんだろう?
 って、そうじゃなくて! 小さな子が悲しんでいるんだから、慰めてあげなきゃいけないよな。みゆうが何に悲しんでいるか、なんて今はどうでもいい。早くこの子を泣き止ませないと……。
 頭では解っていても、体が動かない。俺はいつもそうだ。だからさっきも――
「……ッ」
 運動場での出来事を思い出して、胃の中がモヤモヤとし落ち着かなくなる。いつも、こうだ。思考と体が噛み合わない……そんな自分がもどかしくて、吐き気を催してしまう。そして吐いてしまうと、また自己嫌悪に陥って……まさに負のスパイラル。
イジメに遭った中学時代から、もうずっとこんな状態が続いている。どうして慰める事すら出来ないんだろう。言葉なんて必要ない。そっと背中を撫でてあげるだけでいいはずなのに。
 悶々としていると、仕切り用のカーテンが開けられた。そこから華緒がひょっこりと顔を出す。
「目、覚めたのね。良かった」
「あ、の……俺……」
「みゆうちゃんに連絡したら、飛んできてくれたの。それからずっと、あんたのそばについて看病してくれたのよ。感謝しなさいよね」
 ずっとそばに……その事実に戸惑いながらも小さく頷くと、華緒は満足そうに笑った。
 そこへ涼も顔を出し、まず俺を見て「よう」と軽くこちらへ片手を上げる。次に華緒を見て、嘆息した。
「片付け終わったぞ。後、圭介のプリント用紙も持ってきてやった」
 華緒は頷くだけ。けど、俺はそんな事を聞いて慌てずにはいられない。上半身を起こし、華緒と涼に声を掛ける。
「俺のせいで汚したのに、なんでお前らが片付けなんてするんだよ!」
 気持ちが溢れて、自分が思っていたよりも大きな声を出してしまった。すぐに右手で口を覆うけど、発してしまった言葉は飲み込めない。一番近くで俺の声を聞いていたみゆうは驚いて、目を丸くしている。言葉を投げられた当の二人は、互いの顔を見合わせた。
「なんでって……具合悪い人間に後片付けなんて、させられるわけないでしょ」
「そうそう。それに友達のピンチは、救ってやるもんだろ」
 二人は同時に頷く。
 友達? 俺と彼らが? 一体いつ友達になったんだろう? 驚きで固まっていると、涼が唇を尖らせた。
「もしかしてお前、俺が簡単に見捨てるような薄情な人間だと思ってたのかよ~」
「いや、その……」
 思っていました、なんて本人を目の前にして言えない。
「入学式の時から決めてたんだよ。俺、お前と絶対に友達になろうって」
「なん、で?」
「お前がカバンに、ペンギンのストラップつけてたからだよ」
 言いながら涼が見せてくれたのは、俺と同じストラップ。一年前にガチャガチャで発売されたものだ。だが顔があまり可愛くなかったせいか、不人気のせいですぐ物自体が消えてしまった。揃えたかったから、ちょっとショックだったのを今も覚えている。
周りにでは存在すら知らなかった人ばかりなの商品だが、華緒も同じストラップをスマホにつけていた。更にみゆうも、ランドセルの横に。
「そんなもんで?」
 もちろん、同じものを持っている人を見つけると、俺も嬉しくなる。けど、それだけの理由で友達になるか? 俺の疑問に、涼は笑顔になった。
「友達になるのって、最初はそんなもんだろ」
 その言葉は、俺の中にストン、と心地よい形で収まった。
 ああ、この人達は信用してもいいんだ。
 納得出来たらとても楽になって……同時に、胸がほんのり温かくなっていく。嬉しくて、でもまだちょっと怖くて。何を言えばいいのか解らない俺に、みゆうが声を掛けた。鈴よりももっと心地よい音で。
「いっしょに、おうちかえろ!」


 俺の左隣に華緒が。更にその向こうには涼がいる。そして俺の右隣には、ご機嫌な顔をしたみゆうがいる。彼女の機嫌がいい理由は、多分……俺が手を繋いでいるから、だと思う。この前断った時は素直に引き下がったのに、今日はどうしてもと聞かなかった。それを涼と華緒に叱られ、ほとんど勢い任せで手を握ったら……。
「うーさぎさんとーパンダさーん、おーててつないでランララーン♪」
 こんな感じで、満面の笑みを浮かべながらまた変な歌を歌い始めた。俺だけが知らないのかと思ったけど、華緒と涼も「変な歌」と笑っている。どうやら、みゆうのオリジナルソングらしい。
手を繋いだだけでこんなに機嫌良さそうにされると、なんだかむず痒い。この温もりに触れていると、心が落ち着かなくなっていく。けど、みゆうの手を放したりしたくない。この前みたいに、この子を悲しませるのは嫌だから。俺が手にした宝物だから。
ああ、だから嫌だったんだ。温もりを知ってしまったら、一人には戻れない。だって、一人は寂しくて怖いから。
 みゆうの柔らかな手を更に強く握る。するとみゆうは歌を止めて、こちらを見上げた。痛がるかと思ったけど、みゆうは無邪気に微笑むだけ。それが心地よくて、俺もぎこちないけど笑みを返した。
 みゆうとの間に漂う空気に浸っていると、その身を華緒によって引っ張られた。視線を向けると、ちょっと怒っているような顔をしている。何かしたのか? と小さな不安で胸が痛んだ。
「野埼先生から、あんたの状態を聞いたんだけど……栄養失調だって。最近、ちゃんと食べてる?」
 疑いの眼差しと言葉に、喉が痙攣する。まさか三日間何も食べていません、とは言えない。黙っていると、華緒は更にじっとりとした目で俺を見つめる。その目の怖さと迫力に、思わずたじろいでしまう。俺の思っている事が解っているらしい涼は、華緒の後ろでおかしそうに、小さな声で笑っている。
 なんと答えるのが正しいか思考を巡らせる。と、みゆうが掴んでいた俺の手を軽く引っ張った。
「エイヨーシッチョーって、何?」
 確かに小学生には難しい言葉だろうな。納得していると、華緒は俺の肩越しにみゆうへ視線を投げた。
「ご飯をあまり食べていないって事よ」
「じゃあ、すっごくお腹すいてるって事?」
「そうよ。だからこいつはフラフラだってったわけ」
 最後の言葉は、俺を睨みながら言い放った。心配してやったのにお前の責任じゃないか、と思っているのかもしれない。俺だったらそう思う。けど華緒は俺の予想に反して、嘆息した後心配そうな顔をした。
「まったく、お腹すいてんだったら早く言いなさいよね。どうして限界まで無理するのよ。……バカ」
「……え」
 予想外の反応を返されて、言葉が喉でつっかえてしまう。そこへ、まるで俺の言葉を押し出すように、涼が背中を叩いた。一体いつの間に移動してきたのか。
「俺達に言えば、いつだってメシおごってやったんだぞ」
「いや、でも……!」
「遠慮すんなよ。その分、次に返してもらえばいいんだからさ。宿題とか!」
 ウィンクする涼に、華緒が鋭い目だけを向ける。それだけで叱られたと気付いたらしく、涼は何も言わずに両手を軽く上げ、降参のポーズを取った。みゆうの前で怒鳴るつもりはないようで、華緒は息を吐き出し視線を戻す。
「まあ、涼の言う通りよ。私は隣に住んでるんだし、困った事があれば言いなさい」
「……いいの?」
「私が頼れって言ってんだから、いちいち問い返さない!」
 とうとう怒ってしまった。大声に反応して肩を揺らし、萎縮する。すると涼がからかうように、華緒を肘で突っつく。それを払いのけながら、華緒は唇を尖らせて顔を逸らした。華緒を怒らせたのは俺で、俺が勝手にビクついただけだ。華緒は何も悪くない。
 謝ろうと口を開きかけると、みゆうが右手を上げて「はーい」と大きな声を上げた。これは、あれか。発言権を求めているのだろうか。なら、年上として譲るべきだよな。
 口をつぐんで、視線だけをみゆうへ向ける。するとみゆうは気付いたみたいで、大きな目をより開き、ツインテールをぴょこっと動かした。
「ごはん食べてないなら、うちでいっしょに食べようよ」
 またしてもご飯に誘われてしまった。涼や華緒も、俺にご飯をおごってくれると言っていたよな。その気持ちはありがたいけど、やっぱりご飯をおごってもらうだとか、食べさせてもらうなんて、申し訳ないし……恥ずかしい。
「嬉しいけど、今日はやめて……」
「ダメー!」
 思った以上の大声に驚いて、目を丸くする。そんな俺に向かって、みゆうは右手の人差し指と突きつけた。なんか華緒みたいだ。そんな事をぼんやり考えていた俺に、みゆうはちょっと怒ったような目を向けた。
「一人になっちゃったら、またごはん食べないでしょ? だから、今日はぜーったいにわたしといっしょなの!」
 あまりの必死な様子に気圧されてしまう。華緒と涼もみゆうの気迫は意外だったのか、目を丸くしていた。固まっていると、みゆうは俺の服を掴んでこちらを見上げる。その大きな目は潤み、彼女の必死さが伺えた。
 どうして俺と一緒にご飯を食べるってだけで、こんなに必死なんだろう? みゆうの考えが読めなくて、どう返していいのか解らない。困惑していると、華緒に肘で突かれた。そして涼からは、またしても背中を思い切り叩かれる。主に背中の痛みで混乱していると、華緒が腕を組んで俺を睨んだ。
「男なら、女の一人、喜ばせてみせなさい!」
 女の一人って……小学生を捕まえてその発言はどうなんだ。すごく突っ込みたくなったけど、今の華緒は反論を許さない、という顔をしている。俺だって、これ以上子どもを泣かせたくないし……。
 軽く咳払いをすると、その場で腰を折ってしゃがむ。みゆうと目線の高さを合わせると、目尻に滲んだ涙を親指で拭ってあげた。そして、そっと頭を撫でる。
「解ったよ。今日は一緒にご飯、食べよう」
 俺の言葉に、みゆうの表情が一気に明るくなっていく。花が咲いたよう……という表現が、これほど似合う笑顔もないな。見ているこっちが嬉しくなってしまう。俺にそういう趣味はないけど、みゆうの笑顔は、見ているだけで心が幸せで満ちあふれる。守りたくなる気持ちというのは、こういう感覚なのかもしれない。
 頬が緩む俺に、華緒と涼がまた背中を叩く。彼らは遠慮という言葉を知らないんだろうか。痛いんだが……。
「私も今日は一緒に食べようかな」
「あ、なら俺も! またばあちゃんのメシ食いたいんだよな」
「うん! みんなで食べよ! みんなで食べると、もーっとたのしいもん!」
 みゆうは両手を上げて、大喜び。その周囲に星が輝いているように見えて――眩しさで、目を細めた。

****************

 あおぞら荘に帰ってくると、俺達はそのままみゆうの家に入る事になった。そう、ここはみゆうの家だったはずだ。なのに――
「小波さんのご飯、久しぶりだわー! 楽しみー!」
 野分さんはともかく、どうして宮古さんまでいるんだろう。おかげ様で人が密集し、余計狭苦しく感じる。複雑な気分で嘆息すると、キッチンに立っていた華緒が振り返った。
「ヒマなら座卓をひとつ出して、ご飯食べる準備しなさいよ」
「あ……はい」
 思わず背筋を伸ばしてしまう。そんな俺に、華緒は唇を尖らせて不満そう。一方、同じくキッチンに立っている野分さんは、楽しそうに微笑んでいた。
 しかし、どうして俺に言うんだろう。涼にも声を掛けるべきだろ、と涼を探すと、彼はすでに居間にあるこたつの天板を拭いていた。その横で、宮古さんが持ってきたビールを煽りながら絡んでいる。あー、あれは声掛けない方がいいな。うっかり混ざってしまったら最後、俺も絡まれてしまう。涼、ご愁傷様。
 キビキビ動かないと、また華緒の怒号が飛んできそうだ。テーブルを探そうと辺りを見回してみるけど、この部屋は人が住んでいるはずなのに、荷物が極端に少ない。俺の部屋と大差ないように見える。あおぞら荘には2DKの部屋がふたつあったはず。一部屋は華緒の家だから、てっきりもう一部屋は大家さんの家だと思ったのに……。ここは大家の家、だよな?
 不思議に思っていると、みゆうが俺の服を引っ張った。視線を下げると、みゆうは襖を指さして「あそこにあるよ」と教えてくれる。感謝を伝え、一緒に襖を開ける。そこには、確かに座卓があった。けど、それ以外はやっぱりほとんど何もない。
「物が少ないな……」
 思わず呟くと、みゆうは一瞬目を丸くする。けど、すぐに俺が不思議そうにしている内容に気付いたみたいで、表情がパッと明るくなった。
「わたし一人で住んでるから、物は少しでいいんだよ」
 あっけらかんとした言い方のせいか、意味が理解出来ず固まってしまう。すると後ろで、酔っ払っている宮古さんがケラケラと甲高い笑い声を上げた。
「けーちゃん知らなかったの~? みゅーちゃんのお父さんは八年前、お母さんは二年前に亡くなってるのよ~」
 それは笑いながら教えてくれる内容じゃない!「そうね~」思わず漏れた突っ込みだが、宮古さんは気にせず笑うばかり。呆れてため息をついてしまう。と、重要な事に気付いて慌てて顔をみゆうに向けた。
「じゃあ、本当にみゆうちゃんが大家さんなのか!」
「さいしょにそう言ったよ? しんじてなかったの?」
 拗ねた顔で言われ、正直には頷けない。言葉が出てこずにいると、みゆうは背筋を伸ばして口元を三日月に作った。
「じゃあ、もういっかいよろしくしよ? ね!」
 今度は頷く。
「さぎりさん、あおぞら荘へようこそ! 今日からよろしくね」
「こちらこそ……よろしくお願いします、大家さん」
 みゆうが手を差し伸べてきたので、その手をしっかり握りしめる。
改めて、小さい手だ。でもこの小さな手で、みゆうはこのアパートを管理している。両親が亡くなって寂しい思いをしているだろうに、それを表に出さずに。なんて強い子なんだろう。
 それに比べて、俺はどうだ? 変わりたいと思っているのに、怖がって、人を疑ってばかり。せっかくよくしてくれる涼と華緒には、迷惑ばかりかけている。
 平穏な生活が欲しいと望んでいながら、そのための努力が全然出来ていないじゃないか。
がっくりと項垂れていると、みゆうが俺の手を掴んだ。指先から手のひらにかけて、みゆうの温もりが伝わってくる。
「悲しい顔してるよ? どうしたの?」
「大した事じゃ……」
「わたしには、言えない事?」
 隠し事をされたように感じたのか。みゆうの眉尻が下がり、瞳も悲しそうに歪む。慌てて首を振り、目線の高さを合わせた。
「みゆうちゃんは偉いなって思ってたんだ。なのに俺は年上なのに、君のように頑張れていないのが……情けなくて」
 俺の言葉をちゃんと聞いていたようだが、徐々に複雑な表情へと変わっていった。眉を寄せるその姿は、困っているようにも見える。俺は何かまずい事でも言っただろうか。こんな顔をさせるとは思わず、俺まで困ってしまう。
 宮古さんと涼はみゆうの背中しか見えないので、この状況に気付いていない。それどころか、涼の肩を組んでおおはしゃぎで日本酒をラッパ飲み。あれは絶対に気付きそうにないな。こういう時に涼は役に立ちそうなんだが……宮古さんまでついてきそうだし、来たらこじれそうだ。涼は呼びつけないで、人身御供になってもらおう。
 ならば、とキッチンの方に視線をやる。しかし華緒と野分さんは料理に真剣で、こちらの騒がしさなど気にしている様子がない。呼びかけても、きっと振り返ってもらえないだろうな。
 自力で解決しなければならない問題を前に、ますます渋面を作ってしまう。俺のどの言葉が、みゆうの心に引っかかったんだろう? 怒らせないように、本人に直接聞いた方が手っ取り早いか……。
 悶々としていると、みゆうはまだ困った顔をしたままだったが「あのね」と口を開いた。
「わたしは、わたしに出来る事をしただけだよ。だから、すごくなんてないんだよ。それに……わたしには、さぎりさんの方がすごいって感じるよ」
「俺が?」
 予想外の言葉に、思わず聞き返してしまう。だって、冗談か……嘘だと思うだろう。けどみゆうは真剣な顔で、大きく頷いた。
「だって、お父さんとお母さんの所からはなれて、一人でくらすなんて……わたしには出来ないよ。だから、一人でがんばろうとする気持ちを持てたさぎりさんは、とってもすごいよ!」
 親元から離れる事がすごいなんて……考えた事もなかった。しかも、その決断自体を褒められるなんて気恥ずかしい。頬を掻く俺に、みゆうは自分が褒められたかのような顔で笑った。
「わたしね、さぎりさんが引っこしてくる時からこっそりあこがれてたの。一人ぐらしする高校生のおにーちゃんって、どんな人なのかなーって」
 みゆうの目に、輝きが差し込む。
「そしたら、わたしが思っていたよりずっとすごかったから……わたし、もーっとすきになったの」
「す、好き!?」
 小学生の女の子の言う「好き」に深い意味はない、と思っている。けど、やっぱりどんな年齢であれ、性別であれ、他人から好意を寄せられると、胸の奥が締め付けられる。けど、痛くはない。それはとても優しいものだ。触れられると、くすぐったくて……体の奥から熱を発する。
 意識しすぎて怪しい反応になってしまう俺に、みゆうはまだ笑顔。眩しすぎて、クラクラしてきそうだ。そんな事など知らないみゆうは、俺の手を掴んだまま顔を寄せてきた。
「わたし、さぎりさんみたいなおにーちゃん、ほししかったなぁ」
「俺みたいなので、いいの?」
「さぎりさんがいいんだよ。だって、あぶない時は助けてくれるもん!」
 何の事を言っているのかと思ったら、あの日、車に轢かれそうになった時の事だった。みゆうはあんな些細な事を、まだ覚えていたのか。驚いてしまう。
 みゆうは掴んだ手に力を込めながら、少し頬を赤く染めた。その柔らかそうな唇が、ゆっくりと動く。
「だからね、えっと……さぎりさん、わたしのおにーちゃんになってくれませんか!?」
「お兄ちゃんって……何をすればいいのか」
「そこにいてくれるだけでいいんだよ。おにーちゃんがそばにいるだけで、わたし、もっとがんばれるから」
 俺のことを、こんなにも純粋に想って、求めてくれる人がいるなんて、想像もした事なかった。だから……熱いものがこみ上げてきそうだ。それは吐き気じゃなくて、もっと綺麗なもの。
 鼻の奥がツンとするのを感じ、恥ずかしくて少し俯く。小学生の言葉で泣きそうになる姿なんて、見られたくない。何より、俺を兄として慕ってくれている女の子の前なんだから、カッコ悪いところは見せたくない。軽く鼻をすすって、顔を上げる。
「なら、頼れるお兄ちゃんになれるよう、頑張るよ。出来るか解らないけど」
「さぎりさんならきっと出来るよ。がんばってね、おにーちゃん!」
 こんなに嬉しい励ましがあったなんて、知らなかった。みゆうの言葉は、全部俺の胸を温かくしてくれる。頬も、自然と緩んでしまう。
 と、何かに頭を小突かれる。振り返ると、どこか楽しそうな顔の華緒が鍋を持って立っていた。
「頼りになる男になる前に、もっと他人を頼れる人になりなさいよ」
「うっ……そ……ソウデスネ……」
 どもっていると、華緒の後ろから野分さんが苦笑しながら顔を出す。
「圭介ちゃんもだけど、みゆうちゃんもよ。もっとみんなを頼らなきゃ」
 意外だ。両親を亡くしたみゆうなら、もっと他人を頼りにしているのかと思った。目を丸くする俺の前で、みゆうは申し訳なさそうな顔で両手を頭の上に乗せ、身を縮める。
「あうう……で、でも。めーわくになっちゃうかもだし」
「迷惑なんて感じないわ。むしろ、あなたが無理しすぎる方が心配よ」
 微笑んだ野分さんは、腰を曲げてみゆうの頭を撫でた。するとみゆうの頬は一気に赤く染まっていき、「ごめんなさい」と唇を尖らせる。こんな歳相応の仕草も見せるのか、なんて感じ自然と頬が緩んだ。華緒も俺と同じ事を感じたらしく、嘆息しながらも表情には優しさが滲んでいる。
 場の空気が和む中、話が届いていなかったらしい宮古さんと涼が顔を出した。その目は華緒が持っている鍋に注がれている。
「ねえ、華ちゃん。もうご飯出来たんでしょ。早く食べましょ♪」
「もう、あなたは……飲むか食べる事しか考えてないんですから」
「あら、そんな事ないわよ。男のことも考えてるわよ。ねぇ」
 言いながら、先ほどのように涼の肩に手を回した。けど、今度は体全体をくねらせるように、涼へしなだれかかる。その顔が、耳に触れそうなほどの距離まで迫った。すると涼は顔を真っ赤にしながら、大げさに跳ねる。すると、なぜか華緒の眉間に皺が深く刻まれた。
 宮古さんは華緒を見つめたまま、口角をクッと持ち上げた。しかし、それは本当に一瞬の事。次の瞬間には涼から離れ、膝を曲げてみゆうに抱きついていた。
「みゅーちゃんはまだ子どもなんだから、たくさん大人に甘えなさ~い。そのうち、嫌でも甘えられなくなっちゃう年がきちゃうのよ」
「ふぁ、はーい……んぅ。さらちゃん、ほっぺグリグリくすぐったいよ~」
 本当にくすぐったいみたいで、困った顔して笑うみゆう。その返事に頷きながら、宮古さんは微笑を浮かべ目だけ俺に向けた。
「アンタもよ、けーちゃん」
「俺はもう子どもじゃないですよ」
「なーに言ってんのよ。アタシからしてみれば、アンタも充分ガキよ。だからガキはガキらしく、大人に甘えなさい。それが子どもの特権なんだから」
 ウィンクを投げた宮古さん。何もかもお見通し……そんな風に言われているように思えて、頬が引きつる。そんな俺の横で、華緒は肩を竦めながら嘆息した。
「確かにみゆうちゃんは、もっと私達に甘えてほしいわ。けど宮古さんは甘えすぎ! 大人なんだからしっかりして下さいよ」
「あ~ん、華ちゃんったら辛辣なんだから~」
 年下に諌められても気にしないらしい。言葉の割に声が楽しそうだ。華緒は呆れていたが、突っ込む気はないらしい。「早く座って」と他のメンバーにも指示を飛ばしながら、自分の持っていた鍋をコタツの上にいつの間にか置いてあったカセットコンロの上へ。さっきは気付かなかったけど、どうやら俺が座卓を探している間に、涼が準備していたらしい。ただ絡まれていただけじゃなかったのか。
 取り皿を野分さんが出してくれる間に、俺は座卓を出してコタツの横に広げた。そこにもうひとつカセットコンロ、鍋、取り皿、箸を置く。するとコタツの方には宮古さんと涼、華緒が。座卓の方には俺とみゆう、野分さんが座る事になった。
 華緒と野分さんが、それぞれの鍋のフタを開けると――
「おおお! すき焼きだー!」
 涼の歓声が一番に響く。宮古さんも目を輝かせて軽く口笛を吹いた。俺とみゆうも、小さく感嘆の声を漏らす。
 白菜、しらたき、人参、ネギ、しいたけ、えのき、豆腐、そして牛肉が鍋の中でグツグツと煮え、割り下と絡み合っている。見ているだけで涎が出てしまい、慌てて唾を飲み込んだ。
肉と野菜が割り下に染み出し、それが湯気となって立ち上り部屋に広がっている。この匂いを口に入れても、美味しいじゃないか? なんて、思わず考えてしまう。焦りそうな気持ちを抑えていると、涼が「いただきまーす」と声を上げたので、我に返った。
 ハッと息を飲んで顔を上げると、自分の箸を突っ込もうとしていた涼の腕を、華緒が片手で制している。しかもこの前と同じく、捻り上げようとしている。
「いただきますはみんなで、がここのルールでしょ!」
「わ、解ってるよ。ごめんって! いたたたっ、痛い痛い! 放してー!」
 涼の大げさな叫び声を聞いても、華緒は力を緩めない。すると、みゆうが心配そうな顔で止めに入っている。更に野分さんも。
「せっかくのすき焼きが冷めちゃうわよ。さあ、早く食べましょう」
 あ、涼の心配じゃないんだな。野分さんって意外とあっさり。けどもっともな言い分なので、華緒は申し訳なさそうに頭を下げて姿勢を正した。涼も安堵の息を吐きながら、同じように背筋を伸ばす。すると野分さんが満足げに頷いて、両手を合わせた。それを見つめていると、みゆうが小さな声で俺の名前を呼ぶ。
「おにーちゃんも! 一緒にお手手を合わせて」
 言われるまま両手を合わせる。するとみゆうは嬉しそうに微笑んでから、口を開いた。
「みんなで一緒に……いただきます!」
「いただきます」
 みゆうの声に合わせて、全員で同じ言葉を発する。もちろん、俺も。こんなの、小学生の頃には当たり前のように言っていた言葉だ。けどあの時は、こんなに気持ちが盛り上がったっけ?
 みんなで同じ気持ちになって、同じ言葉を言う……ただそれだけの事なのに。
 不思議に思いながら箸を手に取る。その間にも、宮古さんや涼は小皿に卵をあけてさっさとかき混ぜ、肉を取っている。飢えていたのか、その速さはまさに光。彼らは熱々の肉をさっと溶き卵にくぐらせ、大きな口を開けて放り込んだ。
「んー! 美味しい~♪」
 味わうように噛み締め、満面の笑みを浮かべる宮古さんと。
「やっぱ肉だよな、肉!」
 がむしゃらに頬張る涼。
 対照的な食べ方だけど、そのどちらからもすき焼きが「美味しい」んだという事が伝わってくる。しかも見ているだけなのに、胃が痛いくらい絞られるような感覚を覚える。胃液が溢れているのかもしれない。
 食べたい欲求は内から溢れてくるのに、どうしても手を伸ばせない。こんな時まで「他人に甘えてもいいのか?」という心配で、胃が軋むのだ。ありえない。そう思っても、もし後で手のひらを返されたらという恐怖が襲ってくる。
 くだらない……けど直らない妄想に囚われていると、俺の横から手が伸び、お皿にお肉が乗せられた。驚く間もなく、次は白菜が。顔を上げると、みゆうと野分さんが二人で箸を動かしながら「おすそ分け」と笑った。
 もちろん二人共遠慮しているわけじゃなく、自分達のお皿にも肉や野菜をたくさん入れている。しかもみゆうは、もう肉を頬張るところだった。溶き卵が絡んだジューシーな肉を、一気に小さな口の中へ。
「はふ、はふ……んむ……んー! 美味しいよ~」
 マシュマロみたいな頬が、まるでハムスターのように膨らむ。そして、温かくなったおかげかほんのり赤く染まっていった。なんとも豪快で可愛らしい食べ方だ。
 あまりに美味しそうに食べるので見つめていると、みゆうが丸い目をこちらに向けた。そして、自分のお皿にまだ乗せてあった肉を一枚箸で掴むと、俺に差し出してくる。
「はい! おにーちゃんも、あーん♪」
「え、あ……え!?」
「あーん、して?」
 自分のがあるから、と言おうとする俺の方へ、みゆうの手が遠慮なく迫ってくる。野分さんは止める気がないみたいで、笑みを浮かべたまま。人の前でご飯を食べるってだけでも恥ずかしいのに、食べさせてもらうなんて……どんな顔して食べればいいのか、さっぱり解らない。けど、ここで断ればみゆうを悲しませる事になるかも……。
 その姿を想像した瞬間、覚悟が決まった。両手を握りしめ、大きく口を開ける。華緒と涼がこっちを見てるけど……もうそんな事気にしてられるか! 奪うように、勢いよく肉を頬張る!
「ん……ん、んん!」
 噛みしめる度、しょう油と砂糖の旨味、そして肉そのものの甘みが口全体に広がっていく。それは喉へじんわり伝わって……胃を震わせた。早く寄越せって誘われるまま、肉を飲み込む。すると胃は更に歓喜の叫び、舞い踊る。
 小鼻が膨らむ。血が全身を駆け巡る。脳がフル回転する。
 持っていた箸を振り上げながら、小皿を持ち上げて勢いよく口へ掻き込んだ。肉、白菜、しらたき……溶き卵がからみ合うと、全体の味がまろやかになってよりたくさん頬張ってしまう。おかげで、小皿に乗せてもらったものが一瞬でなくなってしまった。
今度は自分の箸で鍋からすき焼きを取る。ためらう事なく、自分の食べたいものを。そしてまた口にする。豆腐、人参、えのき……一口食べる事に、俺の体が熱を帯びていった。
「いい食いっぷりねぇ。やっぱり若い子は、そうでなくっちゃ♪」
 楽しそうな声に顔を上げると、すき焼きの湯気の向こうでビール片手に赤ら顔で微笑む宮古さんがいた。それだけじゃない。涼も、華緒も、野分さんも、みゆうも。みんな俺を見ている。
 食べている姿を見られた! そんな事すっかり忘れていたので、急に恥ずかしくなって箸と小皿を持ったまま俯いてしまう。すると、みゆうが覗きこんできた。嬉しそうに、目を輝かせながら。
「ごはんって、おいしいよね!」
 そんな当たり前の事……思いかけて、ハッとする。そうか、そんな大事な事を、俺は三日間味わう事が出来なかったんだ。だからみゆうは……。
 ふっと息を吐き出し、自分の情けなさを痛感しながら笑った。目の前の、小さな大家さんへ感謝を込めて。
「うん。ご飯って、すごく美味しいよ」
 みゆうは嬉しそうに何度も頷いて、小皿に残っていた白菜を頬張った。シャクシャク、という小気味よい音をさせながら、しっかりと噛んで飲み込んでいる。その頬が緩んだので、こっちにまで美味しいという気持ちが伝わってきた。
 みゆうの小皿が空になると、野分さんがすぐに肉や白菜を入れてくれる。いつもの事みたいで、みゆうはそれを当たり前のように受け取り「ありがとう」と微笑んだ。野分さんも笑顔を返し、その箸で今度は俺の小皿へ肉を。止めるヒマもなく豆腐まで入る。
「す、すみません。入れてもらっちゃって」
「あら、謝る事ないわ。私がしたくてした事だもの。それに、ご飯って……」
 言いかけた言葉を、みゆうが引き継ぐ。
「みんなで食べるともーっと美味しいんだよね!」
 元気のいいみゆうの言葉に、野分さんだけじゃなく、華緒や涼、宮古さんも頷いた。先に話しだしたのは涼だ。
「俺の家、親が忙しくてさ。なかなか家族揃って食う時間ないんだよ。だからいつも一人で食ってんだけど、やっぱり味気ないんだよな」
 それに賛同する言葉をかけたのは、宮古さん。
「そうなのよ~。ファストフードだって、一人より友達と食べる方が、美味しく感じるのよねぇ」
 すると今度は野分さんが頷く。
「その逆で、どんなに美味しいレストランへ行っても、一人じゃいまいちよねぇ」
 それに食いついてきたのは華緒だ。左手を拳に変えて、何度も強く頷いている。
「私もです。だからご飯だけは、絶対にお母さんと一緒に食べるようにしてるんですよ」
 話を区切ると、華緒は視線をみゆうへ。「みゆうちゃんもそうよね?」華緒の言葉に、みゆうは大きな声で「うん」と言いながら頷いた。
「ママがいなくなって、ひとりぼっちはさみしいから……おばーちゃんや、ハナちゃんや、さらちゃんたちといっしょに食べてるの」
 寂しい……そう言いながらも、みゆうの顔には笑みが浮かんでいる。そりゃ一緒にいれば、一時的には寂しさは紛れるかもしれない。けど、結局最後はひとりぼっちになってしまう。なのにどうして?
みゆうの考えが解らなくて首を捻っていると、みゆうの目が俺に向けられた。
「あのね、ごはんは人をえがおにするんだよ。みんなで食べると、もーっとえがおになれるの」
「だからみゆうちゃんは、寂しくない……って事?」
「うん! だってみんなでごはん食べたら、ニコニコしちゃって……心もほかほかだもん。そのほかほかは、一人になった時もおぼえていられるの。だからさみしくないよ」
 みゆうは大きな目を一層見開いて、俺の顔にずいっと近付いた。すき焼きの美味しそうな匂いが、みゆうの頭から漂う。目を離せないでいる俺に、みゆうは「だからね」と言葉を続けた。
「おにーちゃんも、これからはわたしといっしょにごはんたべよ!」
「一緒……みゆうちゃんと?」
 問い返すと、みゆうは今までにないほどの笑顔で頷く。
 他人と一緒にご飯なんて、今まではちょっと嫌悪していた。自分のペースでご飯を食べたいのに、向こうはそれを簡単に乱してくる。それに親しくもない人間との食事は、何を話せばいいのか解らなくて空気が重くなるから、それも嫌だった。
 けど、今は違う。自分のペースこそ乱されているけど、それが苦痛じゃない。むしろ笑顔の中に囲まれて、心が温かくなっていった。何度も食べた事のあるはずのすき焼きが、すごく美味しく感じられた。
 それは全部、みゆうと……ここにいるみんなと一緒だったからだ。
 そんなみんなの輪に、俺の居場所が出来たんだ。みゆうが、作ってくれたんだ。学校はもちろん、家族の中にだって居場所のなかった俺に、大切なものが出来たんだ。
 知らない町で、ひとりぼっちの俺の手を握ってくれたみゆう。そこにあるたくさんの「温かい」ものに囲まれて、俺は自然と笑っていた。何年ぶりか、心からの笑顔を。
「これからは、一緒に食べよう」
「やったー! 約束だよ、おにーちゃん」
「うん、約束」
 みゆうが小指を突き出したので、そこに自分の小指を絡める。顔を見合わせると……どちらともなく笑い出した。その声は部屋中に広がっていき、華緒も、涼も、宮古さんも、野分さんも笑い出す。
 みんなで食べれば、ご飯はもっと美味しいね。だから、一緒にご飯を食べよう。



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