見出し画像

イトウアサカの哲学①



1.譲れないこと


「わかられない」ことは孤立を作る。
そして、孤独につながる。
わかられない孤独は、自己否定へと繋がる。存在そのものがなくなってしまう。

世間から見ると問題、課題と認知されずに苦しむ人がいる。
当人にとっては大きな課題でも、世間から見たとき、大きな課題として捉えてもらえない人がいる。

私は、わかられない孤独と向き合っていられる人でいたい。

世間から、わかられず「独り」が生まれた時、取り残されたような感覚になる。
取り残されて、誰にも向き合ってもらえないと感じた時、「断絶」を覚える。
これは、諦めや人との遮断、希望が無くなるとき。
つまり、「絶望」が作られる時だと思う。

向き合われなかった時の、無意識に大多数に自分自身を否定されてしまう辛さ、「わかられない」ことによって否定を受け続けないといけない苦しさは、自分自身の存在を否定してしまいかねない。

その時、人は折れてしまう。自分らしく生きることができなくなる。
最悪、生きることすら嫌になるかもしれない。

立ち直れなくなる前に、わかられない孤独と向き合って自分らしく生きられる選択肢をその子の中に残したい。

向き合い続けることで、可能性をつくり続けることができる。
助けてもらえない人たちを、助けられるようになるため行動をしている事実は、その人にとって救いになるのではないか。

これは、自分自身が「独り」だった時に、わかられなくて苦しかった経験がある。向き合ってもらえている人がいたことで、少し救われた経験を持っているからかもしれない。

だからこそ、向き合い続けることで救われるという事実は、自分がだせる「結果」であると思うし、世間的には、認められにくい「結果」であっても自分が出すべき「結果」であれば、世間体にとらわれず、「自分が出すべき結果」を出すことの方が価値があると自負している。

私は、目の前に、その人なりに努力して頑張ろうとしていても「わかられない」ことで自分らしくいられなくなることをなくしたい。
「向き合うこと」でその可能性をなくせるのなら、向き合う行動をしていきたい。それが私の譲れないことだ。


2.死まで考えた過去


私は中高時代、日本語ディベートの部活に所属しており、
競技ディベートで全国大会常連の有名校に所属していました。

暗黙の了解で自分の学校だけ顧問の先生に主導権握られており
準備8割と言われるディベートの世界で、
本来自分たちで準備を含めやって勝つからこそ嬉しい試合を、準備を先生にやってもらうことで試合に勝っているようなチームでした。

これは『演劇ディベート』と称されて全国教室ディベート連盟(NADE)でも問題視されており、ディベート関係者の間では周知の事実でした。

(演劇ディベートの問題に関しては、競技ディベートについて書かれている愚留米さんのブログが参考になるので読むとイメージがつきやすいかもしれません。(以下ブログの方《参考》として挿入させていただいてます))
http://lawtension.blog99.fc2.com/blog-entry-55.html


ただ、関係者も先生が作っている手前、指摘することもできないという現現状で何もできないという状態でした。

私は部長を長年やってきたのですが、この『演劇ディベート』を強要されるのがで嫌で、このような演劇ディベートを強要される環境において何とか『自分たちでディベートがしたい』とおもい行動し続けました。

他校の先輩方に声をかけて何も知らないところから議論を作成し、スピーチを1通り自分1人でできる状態まで持っていきました。部内で自分たちのディベートをして勝てるように手探りで、後輩への教育も自分の時間はすべて部活に費やして、ディベートへの興味を持たせるから始めましたが、できたのは全く興味のない後輩にディベートを面白いと思ってもらうことまででした。
ただ、いくら時間を使っても、熱意をもって接しても、「自分たちで勝つのには自信がない」に落ち着き、チームで作ってきたものは総崩しになりました。
結局、顧問が作ったもので出場し、勝つこともできず、
公的に認められるような「結果をだす」ことはできませんでした。

わかったことは、この環境下だと、いくら頑張ったとしても、いくら努力しても、何時間時間を使おうと、私たちの部活では「顧問の先生」の存在は大きくどこか逆らうことのできない存在であったということです。

チームでの決定で自分たちの議論は使わないことになりましたが、それもどこか顧問の存在があった気がします。

私たちの上には顧問という存在がいて、今までは顧問の議論を使っていたのにいきなり自分たちの議論をつかうということになれば、「何言われるかわからない」という共通した感覚を無意識的に部員全員が持っていた気がします。

そしてこの時、いくら努力しても、
環境によって、結果は出せないことはあるし、成長の機会や楽しみを奪われることになることを学びました。

「わかられない」ことの”孤独感”はここで初めて得ました。

当時は追い詰められていて、単純だったので後輩に機会を作ってあげられなかったこと、これ以上辛い思いをする人を増やしたくなかったこと、

自分の責任感の強さとこれまでの努力や頑張ってきたことが無駄になったこと、この辛さを誰にもわかられないこと。

外に弾き飛ばされたような感覚が、
「自分が死ねば顧問も気づいてくれるかもしれない」
「そうすれば、これから後輩は救われるかもしれない」

全てが相まって、自分自身で死のうと思うまで追い込まれました。

1時間だか2時間だか、踏切の前で電車が通るのを呆然と自分の心が無になるのをまってた記憶があります。

結局、死ぬことはできなかったのですが、
その時に思ったのが、自分が死んだら、後輩が助かった確認はとれないし、自分のような人がでなかったという事実も自分が死んだあとでは確認が取れないと思いました。

我ながらに自分のことがよくわかんないなと思います。

これを思ったと同時に、NESというビジネスコンテストやまじプロという起業体験プログラムをFacebookで見つけていたことを思い出します。

今までの課外活動で社会起業家に出会って話を聞いていた経験や外部のビジコンやプログラムの存在が瞬間的に頭によぎり

もしかしたら、自分が感じている辛さは部活以外でも同じような思いで苦しんでいる人がいるかもしれない。

自分が死んでも、100%後輩を助けられる確証はない。
でも、生きることで自分にしかわからない辛さをわかることができる。

死ぬことで気づかせようとしたら、後輩のように成長の機会を奪われたり、自分でやることの楽しみを教わることができなかったり、
私のように「わかられない」"孤独”によって潰れてしまう子がでているとき、自分の目で助けられた確証は得られない。
でも、生きることで死ぬ以外の解決策を見つけることができるかもしれない。

もし、部活以外で自分のような「わかられない」”孤独”によって消えてしまう命があるとしたら、
後輩のように成長の機会や自分でやることの楽しみを教わることができに人たちがいるとしたら、
それは自分しか助けられないことかもしれない。

そして、過ったビジコンやプログラムから、社会起業家の話を思い出し、
経営者になるしか辛い思いしてる人たちをいなくするには、方法がないと
高校2年の秋ごろか冬に思ったのが経営に興味を持ったきっかけです。

自分が死ななかったのは本当に優柔不断と謎の突然の自信が功を奏したとしか言えません。本当に今生きているのがたまたまな気がしている気がします。

だからこそ、自分は「がんばろう」という思いがあっても、
頑張っていると思われない子や結果が出ないのが環境要因によって発生していることに対して、何とかしたいという意思が強いのだと思います。
見捨てられないんだと思います。

それが、行動して模索する中で、
教育問題、キャリア問題に関心を持つようになったきっかけです。
大学2年になってやっとここまでたどり着きました。

世間とのハードルのギャップによって挑戦できない、就活自殺、といった問題をなくしたい。
自分らしく生きられる選択がその子の中からなくなることをなくしたいと思ってその問題を解決するような事業を作りたいと思っています。


自分を発信することによって、経営者になるにおいて自分の師となる人に出会いたいです。
少しでも思いに共感してくれる人がでてくると嬉しいなと思います。
これから自分の過去について、想いについても発信していきたいなと思います。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?