採銅所駅の黄花コスモス

採銅所駅の黄花コスモス

 採銅所駅の駅舎は大正四年三月(千九百十五年)に建てられたが、当時としては珍しい洋風の木造駅舎だった。

 正子が文雄に出会ったのは国鉄添田線から日田彦山線に変わった年だった。きりのいい千九百六十年という年で二人ともよく覚えている。

 前から通勤で両者とも駅を使っていたが時間帯が少しだけずれていて会うことはなかったが、文雄の通勤場所が四月から変わったため、乗る電車が同じになった。

 駅舎のベンチで座って待っていると時折見かける男性のことを正子は気にも留めなかったが、文雄が一目惚れをした。

 筑豊炭田と呼ばれる地帯の炭鉱で二人とも働いていたが、田川市までの通勤の電車で文雄がしばらく正子の前で顔を赤らめながら一言も声をかけられずに過ごすことが一年は続いた。

 文雄はハイカラなデザインの木造駅舎も一人で通勤している時には気がつかなかったが、好きな人と出会える場所だと思うと途端にお城のようにも見えてきていたある日、ハンカチを落とした。

 炭鉱労働のため一日洗わなければ真っ黒になってしまう。手ぬぐいもあったが、それもすぐ黒くなる。あくまで手洗いの際に使うつもりでいたが、その日は前日の疲れのまま寝てしまい、寝坊しそうになったため慌てて出てきたというわけで充分な支度ができなかった。

 汚いハンカチを正子に拾われ文雄は恥ずかしい思いで「すすすすすすいいません」と慌てながら言うのが精一杯だったが、正子は代わりのハンカチを渡してくれた。

「女物で使いにくいでしょうけど、使ってください。このハンカチは洗濯してお返しいたします。明日もこの駅にいらっしゃいますか?」

「は、は、はいっ!」

 渡された正子のハンカチは使えなかった。女物の花柄をあしらったもので綺麗だったし、ましてや血気盛んな男たちの職場ともなると女物を所持しているだけで軽蔑されるだろうし、女の話となると茶化されたりするのが目に見えているため、紙に包んで大切にリュックに締まっておいた。

 帰ってから身を綺麗にしてハンカチを取り出すといい匂いがした。

 文雄は匂いを嗅ぎながら正子のことを思った。胸がはち切れんばかりの鼓動が脳を打つようだった。惚れすぎてどうしていいかわからぬほどだった。

 ハンカチの一件があってから会話が増えた。会話、と言っても挨拶をし、お天気の話をする程度だったが出会ってから二年目に正子がお弁当を作ってきてくれるようになった。

 毎日が幸せで文雄は正子の作るお弁当に舌鼓を打ち、毎日のようにお弁当のことを褒めるのが日常になった。同僚のからかいも幸せな響きに思えた。

 炭鉱閉山の予定も見えてきた三年目、正子から「お見合いの予定がありまして、もしかしたら会えなくなるかもしれません」と告げられた。

「石戸破る手力もがも手弱き女にしあれば術の知らなく」

 お弁当を包む風呂敷と共に句が入っていた。だが文雄には意味がわからない。中学校の恩師を訪ねて事情を話し意味を聞くと万葉集からの句であることと「今の状況が女の身ではどうにもならないことを伝えたかったんじゃないだろうか」と教わった。

 恩師とどうすればいいのか相談していくと返句でも考えるのがいいんじゃないか、と言われ必死に考えたが浮かぶものではない。多少意味は違っても大意は通じるのではないかということから、

「梓弓引き豊國の鏡山見ず久ならば恋しけむかも」

 と書いた句を洗ったお弁当箱と一緒に渡した。正子は句を見て大事に抱えるように紙を胸に当てた。

 渡した日の夜考えていた。正子に会えなくなることが文雄には耐えられなかった。この年北九州市が誕生した年だったが、閉山もあり新しい職場を北九州市に探そうと考えていたところだった。

 十月。初秋の黄花コスモスが咲き乱れている頃、文雄は早めに来て、駅舎の入り口をうろうろとしていた。

 正子の姿が見えると駆け寄り、

「正子さん! 俺と一緒になってくれ! 正子さんがいなくなることには耐えられない!」

 大胆にも文雄は正子をきつく抱きしめた。

 正子の手には文雄の最後になるはずだったお弁当が持たれていた。

 正子は「はい」とだけ答え、お弁当箱と一緒に渡すつもりだった紙を破り捨てた。

 その後正子は渡した句の万葉句碑が千九百七十九年に民族史家の村上利男によって建てられたことを偶然知る。十八年後には夫が贈ってくれた句も町によって建てられた。文雄も正子もそのことを知った時、互いの皺の多くなった顔をじっと見合わせ、柔らかな微笑を浮かべた。

 文雄が亡くなる七年前には懐かしみながら一緒に採銅所駅からゆっくりと歩いていった。

 まさか文雄が亡くなった四年後に長男が大動脈瘤剥離で亡くなるとは思いもよらなかったが、娘の子供も育ち、夜叉孫にも恵まれた。

 毎朝の仏壇への挨拶は欠かさずやる。

「お父さん」と子供のいる前ではやるが、一人になった時だけ「文雄さん」と呼びかける。

 初秋のあの日結婚を決意した二人だったが、同じようにコスモスが咲きだした頃に文雄は旅立った。

 長男のことは悲しく残念なことだったけれども、悔いのない人生を過ごしてきたと感じ出すようになっていた。

 正子は文雄のことを、いつも胸に思い浮かべ、りんを鳴らす。

「文雄さん……」

 仏壇の前に生けられた黄花コスモスが朝日を受けて輝いていた。



参考写真:GMTfoto @KitaQ
http://kitaq-gmtfoto.blogspot.jp/2016/10/blog-post_13.html

あたたかなお気持ちに、いつも痛み入ります。本当にありがとうございます。