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それでも、あなたが好きです(第6話)

『明日、夏生さんお休みですよね? 一緒に映画行きませんか』
『いいよ。何時?』
『じゃあ、九時に』
『早くない? 君、起きられないと思うけど』
『いやいや。その台詞そっくりそのままお返ししますよ』
『起きれるし。じゃあ九時で』
『ええ、九時で』

「気持ち悪いよ。ケイ」

 休憩室でメッセージ画面を眺め締まりなく口許を緩める蛍の顔を見て、向かいでまかないのパスタを食べていたリオが顔をしかめる。

「うまくいったの? 新しい恋」
「新しい……ではないけど。まあ、そう、かな」

 蛍が夏生を訪ねたあの日、蛍は夏生に言った。
 好きな気持ちは変わらない。けれど同じ思いを返してもらおうとは思っていない。ただ友達みたいに会ってもらえないか、と。
 彼は弱り切った顔で額を押さえながらこう返してきた。

「そんなのは君が辛いだけだ。俺は君に応えられない。だから会うべきではないと思う」

 そう言われることはわかっていた。
 彼は真面目な人だ。自分が理解できない感情を向けてくる相手にどう接すればよいか見当がつかないのもあるのだろうが、それと同じくらい申し訳ないと彼は思ってしまう。
 同じ気持ちを返せないことがいたたまれなくなってしまう。
 そんな彼に対して自分の希望はあまりに残酷なものかもしれない。
 けれどそれでも蛍は彼の傍にいたかった。
 どうしてもいたかったのだ。
 だから蛍は彼に懇願した。

「友達でいいから。友達として傍にいたい」と。

 友達でいい。友達としてなら傍にいられる。
 失うくらいならそれでいい。
 その思いを込めた訴えを、夏生は迷いを隠せない顔をしながらも受け入れてくれた。
 あれから二か月以上。壁に貼られたカレンダーの暦はもう二月。
 友達となってから夏生との距離は随分縮まったように感じる。もちろん年齢差が埋まったわけではないので敬語が取り去られるということはなかったけれど、中学時代、くだらないことをずっと言い合えていたあのころが戻って来たみたいに笑い合うことができるようになった。
 ときどきはこんな風に一緒に出掛けることさえ今はできている。
 幸せだと思う。とても。
 笑ってくれる彼がそこにいてくれることが。

「なあ、ケイ。それ、なんて読む? ナツ、セイ? ナツイキ? ナツキ?」

 ふいに彼の名前が聞こえてぎょっとすると、リオがにやにやしながらスマホの画面を覗いていた。

「お前なあ! そういうのエチケット違反だろ!」
「だってあんまりに幸せそうだから。で、なんて名前?」

 あっけらかんと問われ、毒気が抜ける。

「なつき」

 呼び捨てにしたらなんだかどきどきしてしまった。せわしなく後ろ頭を掻くと、なつき、と唱えてから、リオはふいに確認するように尋ねてきた。

「ケイの名前、ホタル?」
「あ? ああ。そうだけど」
「そかそか。じゃあとってもお似合いだ」
「お似合い?」

 リオの長い指がくるん、とパスタ皿を回す。

「蛍は夏にしか生きられない。離れて生きられない。とっても素敵」

 お幸せに、とにやにやしながらリオが出ていく。音高く閉じられた扉を見送り、蛍は思わず口を押さえた。
 離れて生きられない。
 ぱたん、と蛍は半身をテーブルに倒す。夏生さん、と小さく呼んでみる。彼は今頃何をしているのだろうと思いながら。
 さっき、LINEで彼も昼休憩だと言っていたからそろそろ仕事に戻ったのかもしれない。あのしゅっとした立ち姿でてきぱき仕事をしているのかもしれない。
 会いたい。とメッセージを送りそうになってから、友達はそんなことは送らない、第一、明日には会えるのだから、と思い留まる。
 赤く火照った頬を持て余しながら蛍はスマホを取り上げ、明日の映画のチケットの予約をする。

☆☆☆

 翌日は雨だった。あいにくの天気に口を尖らせる蛍を、黒い傘の縁を上げて空を仰いだ夏生がなだめる。

「映画だし。雨でもいいだろ。どうせ屋内だ」
「公園、帰り行きたかったんだ」

 すねたように言う蛍の横で夏生はくすくすと笑う。その顔を見て心がぽっと温かくなる。
 平日の雨の日のがらがらに空いた映画館で蛍と夏生はホラー映画を観た。前評判のわりにはあまり面白くない映画だと蛍は思ったが、夏生は観終わった後も楽しそうだった。

「心臓に悪いと思いながらもああいうのたまに観たくなるんだよ」
「驚かせよう感がどうかと思いましたけど」

 不平を漏らすと、驚かせよう感、と呟いて夏生が笑った。

「確かに。来るな来るな、と思ったらばーんって来たね。ゾンビが」
「もうちょっと面白い映画にすれば良かったですね」

 ごめんなさい、と謝る蛍に、嫌だなあ、と夏生がひらひらと手を振った。

「俺にも楽しめるように考えてくれたんだろ? ありがとう」

 さらりと言われてふっと顔を上げる。彼はこちらを見てはおらず、コーヒーカップを片手に窓の方をぼんやりと眺めていた。
 彼の視線の先、雨の雫が窓ガラスを次から次へと伝い落ちていく。
 確かに恋愛映画は意図して避けた。恋愛映画では彼が感情移入できなくて楽しめないかもしれない、と思ったから。けれどそのことに彼が気づいていたとは思わなかった。

「別にそんなつもりじゃないですよ。俺も観たかったから」

 明るい声を会えて出すと、窓から目を戻した夏生が微笑みかけてくる。
 その笑顔を見て、ああ、本当にこの人が好きだ、と思う。

「あ」

 コーヒーを飲み終わり店を出ようとした夏生がふいに声を漏らす。怪訝に思い振り向くと夏生がため息をついた。

「傘、間違って持っていかれたっぽい」
「え」

 確かに今朝から持っていた彼の黒い傘がない。ガラス張りのドアの向こうには、先ほどよりは小降りになってきたがまだ傘なしではきつそうな雨が降っていた。

「俺のに一緒に入ってください」

 余分な熱が入らないように注意しながら言う。夏生は降り続く雨に目をやってから、ありがとう、と頭を下げた。
 ビニール傘をぱさり、と広げ、彼に向かって傘を傾ける。少し笑んで傘の中に入ってきた彼と共に雨の町へと足を踏み出す。
 雨粒が傘に当たるパラパラという音を聞きながら、蛍は速過ぎる鼓動を持て余していた。
 いつもなら屈託なく話を続けられるのになにも話題が思い浮かばない。
 歩く彼の肩が二の腕に触れる。服越しに触れただけなのにふわりと彼の体温が腕に伝わる。
 どきどきしてしまって頭の中が真っ白だ。でもこのまま沈黙していたら窒息して死んでしまいそうだ。

「この間、バイト先のやつに言われたんです」

 闇雲に動かした口から言葉が零れ落ちる。隣を歩く彼が、なにを? とこちらを見上げるのがわかった。
 蛍はそちらを見ないようにしながら、口が動くままに続けた。

「俺の名前、蛍じゃないですか。ほたるって書く」
「うん」
「で、夏生さんは夏に生きる、って書く」
「うん」
「蛍は夏にしか生きられないから……夏から離れなられないな、って」
「ああ、なるほど。確かにそうか」

 くすくすと彼が笑う。あまりにも自然な顔で。
 蛍とはまるで違う顔で。
 当たり前だ。当たり前なのだ。なのにどこかでそれを苦しいと思ってしまう自分がいる。
 自分は彼との名前の符号をこれほど嬉しいと思っているのに彼はそうじゃない。
 ただ、ああ、本当だ、くらい。
 別に彼とは恋人同士じゃない。けれど蛍が自分に好意を寄せていることを彼は知っている。だったら少しくらいこの符号に対して意味があると考えてくれてもよくないだろうか。
 そう思いかけて、ああ、違う、彼にはその感覚がわからないのだったと思い至る。
 それは仕方ないことであり違う感覚だからといって非難していいものではないことだと理解している。それなのに。

「俺は、蛍って名前で嬉しかった」

 ぽろり、と出た本音が傘の中で弾ける。ふっと夏生がこちらを見上げる。蛍は思わず立ち止まった。
 不思議そうな目がこちらに向けられる。しばらく見つめ合った後、その目がふわりと和んだ。

「良い名前だよね」

 彼に悪気なんてない。これが彼にとっての当たり前の返答だ。頭ではわかっているのに思ってしまう。
 そうじゃない。そういうことじゃない、と。
 諦めにも似た苦い思いを感じながら再び歩を踏み出したとき、背後からエンジン音が聞こえた。
 狭い道路を爆音を上げて走ってくる車体が見える。蛍はとっさに傘を持つ手を持ち変え、車道側にいた夏生の肩を抱え込んで自分の方に引き寄せた。
 水しぶきを上げながら車が通り過ぎる。通り過ぎざま、耳障りなクラクションが一つ聞こえた。
 車が去り、車道が静まる。傘を打つ雨音が大きさを増す中、蛍は彼の肩に手を回したまま動けないでいた。

──彼の肩を引き寄せたのは、ただ危ないと思ったからだ。そこにやましい気持ちなんてまったくなかった。

 けれど今、危険が去った今もなぜかこの肩を離したくないと思ってしまっている。

「ありがとう。びっくりしたな」

 なにも感じていないらしい彼がいつもの口調で言う。そうですね、と手を放すべきタイミングが来ていることは蛍にだってわかる。
 わかるのに、なぜかできなかった。
 無言のままぎゅっと腕に力を込める。彼の柔らかい髪がさらり、と頬に触れた。
 好きだ。どうしようもないくらい、好きだ。
 思いが止められなくて腕に力を込めたとき、ごめん、と声が腕の中で聞こえ、次いで強い力で押し返された。

「ごめん。その……こういうのはちょっと」

 蛍の腕から抜け出し、夏生が困惑したように呟く。そうされて蛍ははっとした。

「ごめん、なさい。俺、なにやってるんだろう」

 焦りながら早口に謝るが、彼は返事をしない。強張ったその顔を見て蛍は青ざめた。

「本当に、すみませんでした。嫌な思い、させて」

 衝動的に動いてしまった自分への嫌悪から声が沈む。その蛍の前で夏生がゆるゆると口を開いた。

「嫌、というか」

 自分の中の思いをどう言葉にしたらいいか迷うように、夏生はこめかみに手を触れて俯いた。

「その……挨拶で軽いハグをするとか、そういうのが嫌ということはないんだ。人に触れられるのも嫌悪感があるわけでもなくて。ただ……。なんて言うんだろう……挨拶じゃないそういうのは、なんでこんなことをするのか、と思ってしまう、というか。意味がわからないというか。その」

 言いながら、ごめん、と苦しげに目を閉じる。その彼に蛍は詫びた。

「ごめん、なさい」

 彼の側からしたら当たり前の反応だ。またも自分は彼に気持ちを押しつけてしまっている。でもそれでもどうしても言わずにいられなかった。

「夏生さんにとって……俺って今、どんな存在ですか」

 傘の中、向かい合って彼の顔を見下ろすと、夏生がふうっと目を上げた。
 相変わらず綺麗に澄んだ目が蛍を捉える。が、覗き込もうとしたとたん、彼はその目を閉じて首を振った。

「わからない。友達、だと思う」
「じゃあ、熊本さんと俺だったらどっちが近い友達ですか」

 これ以上訊いちゃいけない、そう思うのに訊いてしまう。夏生が沈黙する。静寂の合間を縫うようにパラパラと大粒の雨が傘を叩く。
 やがてゆらり、と夏生が顔を上げた。

「蛍くん。もう、やめよう」
「なにを」
「友達を」

 静かな声が返る。その声に我を忘れた。傘を持たぬ方の手で、目の前の彼の自分より華奢な腕を強く掴む。

「俺が、鬱陶しいから? 友達って言ったくせに友達の顔ができないから? それとも俺が男、だから」
「どれも違うよ」

 言いながら夏生は蛍の手を腕から外し、そっと目を上げた。
 その白皙に浮かんでいた表情。それは、泣き笑いみたいな、痛みを孕んだ哀しいものだった。

「君がとても辛そうだから」

 掠れた声が水たまりの中に落ちる。

「俺はね、君のことが大切だよ。とても。けれどそれは君の気持ちとは違う。君の思う同じ心を俺は返せない。君といて楽しいのは確かだけれどそれだけだ。それでも君はいいって言うだろうけれど、君のそんな辛そうな顔を見れば見るほど、自分はやっぱりだめだって思う。なにより俺は君のそんな顔を見るのがもう」

 そう言う彼の目がわずかに揺らめいた。傘の縁から滴り落ちる雨の雫の一粒に、彼の声が重なった。

「辛いよ」

 ああ、自分はこの人になんて辛そうな顔をさせてしまっているのだろう。
 この人がもうこんな顔をしないで済むのはおそらく自分がわかったと言うことなんだというのは、蛍にもわかっていた。
 でも、蛍には、わかった、なんて絶対に言えなかった。今わかったと言ったら彼とはもう、会えない。
 その蛍の迷いを感じ取ったように夏生が後ずさる。夏生さん、そう叫ぶ蛍に傘の守りからはずれた雨の中で、夏生が哀しげに目を細めて笑った。

「じゃあね、蛍くん」

☆☆☆

 灰色の壁。
 人と人の壁の間をのろのろと歩きながら蛍は唇を噛む。
 あれから三日経つ。
 その間に蛍は夏生に一度だけメッセージを送った。

『本当にごめんなさい。夏生さんの気持ちを考えず、本当に申し訳ありませんでした』
『俺は、友達でいたい。友達でいさせてください』

 けれど夏生からの返信はなかった。
 既読にはなったからメッセージを読んではいるのだと思う。
 けれど彼からの言葉はなにも送られてこない。
 それが彼からの答えなのだろう。
 一緒に笑うことはできる。けれど気持ちを返すことはできない。
 ひっそりと灯る既読の文字に彼の思いが見える。

 応えられなくてごめん。
 でももう、放っておいて。
 もう……無理しないで。

 文字に込められた思いが彼の声となって聞こえる。
 傷つきながらそう言う彼の声。
 その声は蛍を責めはしない。責めずに謝り続けている。
 もっと責めたっていいのに。詰っていいのに。勝手なこと言うな、と言ってくれていいのに。彼は言わない。
 それが、彼だ。
 自分はそんな彼に甘え続けた。その結果が、あの顔だ。
 雨の中で哀しげに目を細めて笑う、彼の顔が蛍の脳裏に蘇り、蛍は思わず息を詰める。
 その蛍の前に立ちふさがるのは、人の壁。
 そこで気づく。彼と友達として笑い合っていた二か月ほどの間、自分はこの壁を感じていなかったことに。
 人、人、人。雑多な人の群れ。変わらずそこにあったその人の群れを、壁と感じていなかったことに。
 それはなぜだったのだろう。恋をしていたから? あの人が好きで、あの人のことばかり考えていたから?
 きっとそうに違いない。それ以外、ない。
 彼を苦しめる恋心が自分を救っていたなんて、なんて皮肉だ。
 苦い思いを噛みしめながら雑踏を抜け、蛍はバイト先へと向かう。ロボットのように機械的にエプロンをつけ、黙々と仕事をする。
 なにも考えずにただ手を動かして。
 頭の中で痛みをこらえて笑う彼の顔を見ないですむように。
 考えないように。それなのに。

 がしゃん、と音を立てて何枚目かの皿を床に落とし、蛍は床へ膝をつく。破片を拾い集める蛍の頭の上を、ホールバイトの数人の「失礼しました〜」という声が通り過ぎる。
 本当に自分はなにもできない。
 こんな風にみじめに破片を拾い集めることしかできない。

「蛍?」

 床に落ちたかけらを拾い集めていた頭の上で唐突に呼ばれた自分の名前に、蛍は無感動に顔を上げる。
 客らしい一人の青年が立っていた。
 長い首。ちょっと吊り気味の目。ぴんとした耳の形。
 目の前の青年が記憶の中の顔に重なった。

「良平……」

──気持ち悪いんだ。

 どくんと心臓が嫌なリズムを刻む。その蛍の顔を見た良平の顔が険しくなる。何か言葉を紡ごうとする彼の前で拾い上げた破片を手に蛍が立ち上がったとき、誰? と別の声が割り込んだ。
 良平の連れらしい。長い栗色の髪を毛先で柔らかくカールさせた、目鼻立ちのくっきりした女性だった。

「あ、あのさ、ほら、前話しただろ、中学のときの……」

 良平が彼女を見返りながら言う。その言葉を聞いてすっと顔から血の気が引いた。
 話した? なにを?
 蛍が良平に告白した、そのことを?
 気持ち悪かった、その感想を? 彼は今も言うのか?
 たまらずに背中を向けようとした蛍の背中で突然、彼女が声を上げた。

「え! そうなの? だったら、ほら、良平! ちゃんと謝りなさいよ!」
「あ、ああ。そうだよな………蛍」

 その彼女の声に押されたように良平が蛍の名前を焦ったように呼ぶ。
 ぎくしゃくと振り向いた蛍が見たのは、頭を下げた良平の姿だった。
 呆然として見下ろす蛍に深く礼をしたまま、良平が言った。

「蛍、ごめん。中学のとき、ひどいこと言って」

 ただ良平の後頭部を見下ろすしかできない蛍の前で、良平は言葉を継ぐ。

「その、驚いただけだったんだ。本当にただ、それだけで。でもどうしていいかわからなかったし、急にそんなこと言ってくるお前にちょっとむっと来ちゃったとこもあって。だから、ついあんな言い方」
「ちょっと、ちょっと待って」

 蛍は慌てて良平を遮る。気がつくと店内中の目がこちらに向いていた。

「今、その話は……」
「あ、そうか。そうだよな。でも、あのさ」

 さすがに大声で言うことでもないと気づいた良平は慌てたように頭を上げる。笑みを作った彼が周囲に、お騒がせしました、と言いたげに会釈すると、人々の視線が自分達から逸れ、元通りのざわめきが戻ってきた。
 それを見届けた彼の顔から作り笑いが消える。ふっと息を吐いた彼は、頭を掻きながらぼそぼそと言った。

「これだけは言っておきたくて。俺、そこまで嫌じゃなかったんだ。あんな風に言っちゃったけどそこまで嫌、ではなくて。ただ、戸惑っただけで。友達と思ってたから」

 友達。
 夏生と友達にすらなれていない自身を振り返り胸が痛む。
 蛍の胸の痛みを知らぬまま、良平が続けた。

「次の日、謝ろうと思ってたんだ。けど、その、誰かが見てたらしくてさ。お前が俺にその……告白したとこ。気がついたら結構噂になってて。もう、どうにもならなくて。だから」

 告白、を低めた声で言ってから、良平はもう一度頭を下げた。

「ごめんな。ひどいこと言って。お前に声をかける勇気も持てなくて。俺」

 背中が直角になるくらい礼は深い。その良平を見下ろしながら、蛍は混乱していた。
 良平があのとき蛍に投げつけた言葉は現実に放たれたものだ。
 だが、実際はあの言葉ほど拒絶されていたわけじゃなかったということなのか。
 良平の本心はそうじゃなかったと。
 とはいえ、あの当時の自分が言葉の裏を考えられるわけもない。そう思えばやはり、彼の言ったことは蛍を抉るナイフに他ならない。
 真実がどうであれ、許せるわけがない。
 その蛍の耳の奧で、ふいに声が響いた。

──人を好きになった自分を誇りなさい。

 それは夏生の声。中学時代、不登校になった自分にかけられた、彼の言葉。
 恋をわからない彼が自分にかけてくれた、彼にとっては身を裂くような精一杯の言葉。
 自分にはない感情を持つ蛍を心から敬って言ってくれた、彼の、言葉。
 自分はそんな彼の言葉に救われていた。
 同性だろうと誰かに恋をすることは否定されるものではなく大切にしてよい感情だと彼に言ってもらえて、自分を蔑まないでいいのだと思えた。
 その言葉を支えにここまで生きてきた。
 でも、顔を上げながらも、どこかでやっぱり自分は信じ切れていなかったのかもしれない。
 だって拒絶は現実にあったことだから。
 拒絶されるということは、その感情は間違ったものなのじゃないかとどこかでまだ思っていたから。
 でも今、はっきりとわかった。
 夏生の言うことはやっぱり正しかった。
 自分が好きになった、その事実は決して間違いではなかったと今、本当の意味で信じられた。
 目の前で謝罪を繰り返す良平への恋。実を結ばなかった思い。
 でもそれは過ちとして闇に葬っていいものじゃない。
 自分は、好きになって、よかったのだ。
 自分は、自分で、よかったのだ。
 受け入れられなくても、思いの真剣さは決して消えない。
 こうして自分にまっすぐに頭を下げてくれるくらい、良平の中でもあの告白は意味があるものだったのだから。

「もう、いいから」

 気がついたらそう言って笑えていた。蛍の笑顔を見て、良平の顔にもゆるゆると笑みが浮かぶ。
 その笑顔は中学時代の良平より随分大人びていたけれど、それでも確かにあのころの彼と通じる明るいものだった。

「ケイ?」

 良平に手を振り、バックヤードに戻ると、厨房にいたリオが顔を出した。

「大丈夫? ケンカ?」
「いや。喧嘩なんてしてないよ」

 言いながら、ひょい、と蛍はホールを覗く。良平と連れの彼女は談笑しながら食事をしていたが、蛍に気づいて小さく会釈を返してきた。

「トモダチ?」

 リオの問いに、蛍は、ああ、と頷いてついでのように言った。

「あの彼氏の方、昔俺が告白して振られた相手」

 少しどきどきした。今なら軽い感じで言えるかな、と思ってついカミングアウトしてしまったけれど、もしもリオにも「気持ち悪い」と引きつった顔をされたら、と。
 怖かった。でも、言いたかった。今、なぜか言いたいと思った。

「ああ、それは複雑だ」

 そう言ったリオの声には負の色は一切ついていなかった。ただ気づかわしげな響きだけがそこにあった。

「けど、ケイも新しい恋、してるしね。お互い良い関係だね」
「まあ。俺の方はうまくいかないかもだけど」

 やっぱり軽さを装って呟く。リオが丸い目でこちらを見返す。その彼に蛍はゆっくりと告げた。

「俺の好きな人、アセクシャルなんだ。恋愛感情もわからないって彼は言う。
 でもさ、俺はやっぱりその人が好きで。その人がいたから今、あいつの前でも笑えて。その人がいたから俺は今、リオにも俺の話ができている。
 けど、彼は俺が辛そうなのを見ると辛いから離れようってそう言ったんだ」

 リオのどんぐり眼がじいっと蛍を見据える。が、真剣な顔はやがて満面の笑みにとってかわった。

「大丈夫大丈夫。世界は作れるから」
「……どういう、意味?」

 もしかして彼を諦めて他の人を探せとそう言うつもりなのだろうか。まあ、そう言われても仕方ない。でも、やっぱりそう言われるのは辛い。
 顔を曇らせた蛍の前でリオはぷるぷると首を振った。

「枠組みとか関係ない。人が二人いれば、その人同士の世界ができる。それはみんな違う。その人たちだけのもの。だってみんなこの世に一人しかいない人なんだから。
 傷つけたくない、辛い、離れる。それもその人同士の結論。それも多分正解。けどそれだけが正解じゃないこともある。
 うまくいかないかもはケイの思い。ケイはその人にちゃんと寄り添ったの? まだ二人で世界を作るための対話、ケイもその人もしてないんじゃないの?」

 世界を作るための、対話。
 リオの言葉が心に沁みこんでいく。
 彼と自分は恋人同士でもなんでもない。友達かどうかすら怪しい。
 その自分達で世界が作れるかなんてわからない。
 けれど、夏生は言ってくれた。「君のことを大切だと思っている」と。
 それは恋心ではなく、蛍と同じものでもない。おそらく彼にとっての特別というわけでもないのだろう。しかし彼の中で蛍はどうでもいい存在でもない。
 それだけで十分じゃないだろうか。
 思わずリオの首にかじりついてハグをすると、おおう、とリオがよろめく。大きな掌がぽんぽんと蛍の背中を叩いた。

「世界を作れ。ケイ」

第7話に続く


#創作大賞2023

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