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それでも、あなたが好きです(第1話)

【あらすじ】
中学時代、男性でありながら男性を好きになったことで学校で阻害され、不登校となった蛍(けい)の前にやってきたのは家庭教師の夏生(なつき)だった。夏生の「君は君のままでいい。人を好きになれた自分を誇りなさい」という言葉に救われて以来、彼のことを好きになってしまった蛍だったが、夏生にも抱えている苦悩があった。蛍に夏生は語る。「俺はアセクシャルなんだ。恋愛感情というものも俺にはわからない」と。五年後、大学生になった蛍は夏生と再会する。変わらぬ笑顔を見せる夏生に蛍は再び恋心を募らせるが、打ち明けられぬまま想いだけが大きくなっていき……。



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(ここから1話本編です)

 まるで、壁だ。

 この駅に降り立つといつも思う。ここにはなんて大きな壁があるのかと。  
 壁を形成するのはうねうねとうごめく人の群れ。
 そこには個性なんてまるで感じられない。
 けれど、立ちはだかるあの壁が一続きの壁などではなく、一人ひとり別の人生を歩く人が寄り集まって構成されたものであることを蛍はちゃんとわかっている。
 今、目の前を行き過ぎたカップルも、疲れの抜けない顔でネクタイを緩めたサラリーマンも、甲高い声をあげて笑い合う女子高生たちも、歩む人はすべて別の個であって塊として捉えていいものではない。
 自分と他人は違うものであるということ。
 自分の当たり前が必ずしも他者にとっても当たり前とは言い切れないこと。
 普通が普通ではないこと。
 常識が常識ではないこと。
 今視界に映る全ての人の中にそれらは共通認識として刷り込まれていることだろう。
 そして、学校教育やマスメディアによって植え付けられた正しい思考、すなわち他人が自分と違っていても否定してはいけない、異なる面があったとしても受け入れていくことが大切といった良識的思考を頭の片隅に情報として記録してもいる。
 でも、それらは本当の本当に彼ら一人ひとりが信じていることだろうか。
 自分とはあまりに違う他者の顔を見たとき、彼らは全員、脳に書き込まれた思考通りのことが言えるのだろうか。
 それは別におかしなことじゃないよ、と。
 あなたの当たり前は私とは違うけれどそれでもいいよ、と。
 そう言って笑って受け入れられるのだろうか。
 蛍にはそうは思えない。
 だって自分自身が今も、人と違う自分をこんなにもおかしいと思っているのだから。

──悪い。お前のこと、友達とはもう思えない。

 吐き捨てられた言葉と怯えるような目。

──気持ち悪いんだ、もう。
──ごめんな。

 申し訳程度に付け足された謝罪の言葉は蛍を救いはしなかった。
 ただ、向けられた背中と絶対的な距離で離れゆく心に絶望感だけが募り、胸が押しつぶされただけ。
 過去からの声に耳を塞ぎ、蛍は足早に人の壁をすり抜ける。
 今日はこれからバイトなのだ。苦い思い出に足元を掬われて遅刻するわけにはいかない。
 けれどこんな気持ちのままホールに立てばミスをしてしまいそうだ。そう感じ、蛍が足を向けたのは、商業施設の屋上に作られた庭園だった。
 広大な芝生に覆われたそこ。休日は人でごった返すこの場所も、平日のまだ朝早いこの時間は駅の混雑が嘘のように人がいない。
 人と人の壁をすり抜け、屋上公園へと向かう。建物を抜けた先は、広い空。
 初秋の真っ白に洗われた陽光が涼しげな芝生の緑を撫でる。人の息遣いのないそこに出て、蛍はそっと深呼吸をした。

 ああ、やっと自由になれた気がする。

 わかってはいる。もちろんここだって人と人にまみれた街の一部であることは。でもそれを忘れさせるくらい、ここの空気はいつも澄んでいる。
 空が、近いからだろうか。
 そこまで思ってふっと蛍は自嘲する。

「人がいないから、気持ちいいだけだ」

 呟きがぽろり、と落ちた。と、その蛍の声に反応するように小さく咳払いが聞こえた。
 え、と慌てて視線を彷徨わせると、蛍のすぐ脇で芝生に無造作に寝転がっている青年と目が合った。

「すみません。人、いて」

 ぼそりと言い身を起こした青年は、目元にかかった色素の薄い髪をさらりとか搔きあげる。

「お邪魔してしまって」

 言葉を重ね、くすり、と笑う。陽光の下で大きな目がいたずらっぽく細められていた。

「あ、いや……すみません」

 おそらくこの人の方が先にいたのだろう。先程の自分の呟きは、聞きようによっては嫌味に響いたに違いない。
 まったく。今日はついていない。
 赤くなりながら後ろ頭を掻き、すみません、ともう一度口の中で侘びて頭を下げた蛍は、姿勢を戻そうとしてふっと息を呑んだ。
 目の前の青年の茶色がかった柔らかそうな髪を、陽光に照らされ白く光る頬を、穏やかな光が湛えられた焦げ茶色の大きな目を、確かめるようにそうっと視線で辿る。

「夏生(なつき)、先生?」

 蛍の声に青年は不思議そうに首を傾げる。相変わらず芝生に座り込んだまま蛍を見上げていた彼の目が徐々に見開かれていく。

「え? あの、もしかして……野島、蛍(けい)くん?」

 覚えられていたことに胸の奥がぽっと熱くなる。蛍は勢いよく頷いた。

「そうです! 中学時代、先生に家庭教師に来てもらってた」
「あの蛍くん!」

 声が跳ね上がる。彼は目を見張ったまま芝生に手を突いて立ち上がり、振り仰ぐように蛍を見た。

「ああ、そうなんだ。いや〜久しぶり。五年、くらいになるかな」
「はい。それくらいに」

 微笑んで言うと夏生はまじまじと蛍を眺めて唸った。

「背、随分伸びたね。昔は俺と変わらないくらいだったのに」
「高校入ってからも伸びが止まらなくて。今、185、くらいかな」
「それはすごい。もうすっかり追い越された。歳を取るわけだ」

 そんなことを言って彼は笑うけれど、蛍の家庭教師としてうちに来ていた頃の彼は大学二年生だったはずだ。あれから五年。今の彼と自分は同じ年になるわけだが、目の前の彼はあの頃とそれほど変わって見えない。
 相変わらず線が細く優しくしなやかなままだ。

「今は? 大学?」

 微笑みながら問われ、蛍は大きく首肯した。

「はい。二年生で。文学部に」
「やっぱりそっちに進んだんだ」

 そう言って満足げに目を細める彼の声が、ふっと記憶の中の彼の声に重なる。

──好きなことを好きなようにする。人生でそれを叶えられるのは自分だけだよ。

 本が好きでいずれは本を作る仕事をしたい。漠然とながらも夢を持てるようになった自分がそう打ち明けたとき、彼が言ってくれた言葉だ。

「先生は……? 今は」
「この近くの旅行代理店で営業している」
「え」

 ちょっと驚いた。だってこの人は確か医大に通っていたはずだったから。

「お医者さんにならなかったんですか……?」
「ならなかったというよりはなれなかった、かな」

 かすかに笑ってそう言ってから、俺の話はいいよ、と手を振って夏生は蛍の顔を覗き込んだ。

「それにしても大きくなって。なんだか感動するね。すっかり大人になった」

 うんうん、と嬉しそうに言う彼の顔を蛍は見返す。
 この人はまるで変わらない。整った顔立ちも、静かな、じっと聞いていると眠りを誘ってしまいそうな話し方も。
 なつかしさと同時に胸に疼きを覚え、蛍は彼に気づかれないよう注意深く呼吸を整える。

「先生、その……俺は先生にずっと言いたいことがあって」

 言いかけた蛍の言葉を遮るように短い電子音が響く。あ、と小さく声を零し、夏生が薄手のコートのポケットからスマホを取り出した。

「そろそろ行かないと」

 そう言って夏生はスマホの画面を操作する。アラームだったようだ。元通りスマホをポケットに戻そうとする彼に、蛍は焦りながら声を投げた。

「LINE。LINE交換しませんか」

 彼の手が止まる。怪訝そうにこちらを見上げる彼に、蛍は早口に言った。

「俺、先生ともっと話がしたくて」
「話って?」
「いや、ええと」

 大きな目がすうっと眇められる。流れる沈黙を埋めるべく蛍はぎくしゃくと言葉を継いだ。

「学校のこととか、進路のこととか。いろいろです」

 夏生はしばらく黙って蛍を見つめていたが、ややあってしまおうとしていたスマホを再度引っ張り出した。

「いいよ」

 元通りの笑顔で言い、スマホの画面を蛍に向けた。表示されたコードを読み取り、蛍はほっと小さく息を吐く。
 良かった。これでまた会える。

「それじゃあ、俺行かないと。またね」

 そう軽く言い、夏生はあっさりと背中を向ける。その彼の名を蛍はとっさに呼んだ。

「夏生先生」

 振り向いた夏生は照れたように笑った。

「もう先生ではないし、夏生でいいよ」

 確かにそれもそうだ。少し赤くなりながら蛍はスマホを軽く掲げてみせた。

「あとで、LINEします」
「LINE予告って」

 面白そうに肩を震わせて笑い、じゃあね、と夏生は手を振って今度こそ去っていく。その細い背中を見送ってから蛍はゆるゆると芝生の上に座り込んだ。
 嘘のようだ。会えるなんて思っていなかった。
 でもずっと会いたかった。
 だってあの人だけが、蛍を否定しないでいてくれた唯一の人だったのだから。

→第2話に続く

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