それでも、あなたが好きです(第5話)
『ごめん。会えない』
浮かび上がる文字。哀しい痛みを帯びたその文字を蛍は指でなぞる。
夏生の立場ならそう言うだろう。理解はできる。できるけれどそれでも蛍は夏生ともう一度会って話がしたかった。
ちゃんと謝りたかった。
自分のことを理解してくれた彼を自分が傷つけたことがどうしても許せなかった。
『どうしても会って謝りたいんです』
そう送ったが、夏生からは『謝ることないよ。気にしないで』の一言だけが返ってきてそれっきり返信は途絶えた。
こうなると打つ手はない。彼との接点はLINEでのやり取りと、週に一度の公園での語らいだけなのだから。
そこまで思ってふと気づく。
あの人なら知っているかもしれない、と。
あの人。熊本勇子なら。
正直、そこまでするべきではないとも思う。
『会えない』というこのメッセージはこれ以上ないほど明確な彼からの意思表示なのだから。
また、今会うことでかえって彼を苦しめることになるのではないかという思いもあった。
だが、不安からこの先の行動を踏みとどまろうとする蛍の脳裏を掠めたのは、あのときの彼の面影だった。
「欠陥品だね」と自身を蔑んだ彼の、微笑みに似た、けれどどうしようもなく寂し気な顔と、いつも優しい光に満たされている彼の瞳に落ちた、ぞっとするくらい暗い影。それらが繰り返し胸を抉った。
あんな顔をさせた責任を自分は取らなければならない。
そう覚悟を決め、蛍は大通りから一本入ったところにある「クマ」の扉を開けた。
からん、とあの日聞いたのと同じドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
相変わらずやる気のなさそうな声が返ってくる。ランチタイムも終わり客の姿もまばらな状態では気合も入らないと言いたげな声だ。
「なににします?」
眉をひそめつつカウンターの一番端の席に腰を下ろした蛍の前に、水の満たされたグラスとおしぼりが置かれる。流れ作業で注文を取る彼女に、蛍は意を決し、口を開いた。
「コーヒーでいいです。あと、少し話をさせてもらっていいですか」
「話?」
気だるげにそう返してから、彼女はまじまじと蛍の顔を覗き込む。そして、ああ、と手を叩いた。
「君、あれだ。この間夏生と一緒にいた」
「野島 蛍です」
「ああ、そうそう。ケイくんね。……って君が私になにを?」
探るような視線が注がれる。蛍は一度唇を引き結んでから思い切って顔を上げた。
「夏生さんに会いたいんです。連絡を取ってもらうことはできますか」
すっと彼女の眉間にしわが寄る。が、彼女が口を開くより早く、奥の座席に座っていた客から、お会計お願いします、と声がかかった。
「はーい。ただいま」
そう客に顔を向けて返事をしてから、彼女は低い声で言った。
「よくわかんないけど、ちょっと待ってて」
そのままレジへと向かう。会計を済ませて戻って来た彼女は、鋭い目で蛍を見下ろして尋ねた。
「で、どういうこと? 会いたいなら普通に連絡すればいいでしょ。しないのはなんで?」
「連絡をしても返事をくれないからです」
「だったら仕方ないよね。それが夏生の意志だし。私から夏生に連絡なんてできないよ」
ばっさりと切り捨てられる。至極もっともだ。だがここで引くことはできない。
「俺は夏生さんに告白しました。ここで」
重苦しい声で言うと、うん、と彼女は顔をしかめたまま頷いた。
「聞こえてたよ。若いな、こいつ、と思った」
「でも、本当は告白するつもりなんてなかった」
吐き捨てるように言うと、彼女の眉間のしわが深くなった。
「なにそれ。思ってもいないのに言ったってこと?」
「違う! 俺はあの人が好きです。ずっと好きだった。けど、言ったらあの人が困ることはわかってたから言わずにいようってそう決めてたんだ。でも俺は、言ってしまった」
そこでふうっと蛍は息をつく。視線に粘ついたものがこもっているかもしれない。そう思いながら蛍は彼女を見つめた。
「あなたが、夏生さんにとっての特別に見えたから」
「………なるほど、ね」
ふん、と鼻で笑い、彼女はカウンター越しに身を乗り出してきた。
「やきもちを焼いた、と。で、かっとなって言ってしまった、と」
「そうです」
「私のせいだと言いたいんだ? だから協力しろって?」
「いいえ」
否定すると意外そうに彼女が眉を上げる。その彼女に気圧されないよう蛍は腹に力を入れた。
「言ってしまったのは俺のわがままだから。きっかけは熊本さんだけど、悪いのは俺でしかない。しかも夏生さんをもっとも傷つける言い方を俺はした。だから夏生さんにちゃんと謝りたい」
「謝ったところで夏生はあんたを受け入れたりはしないよ? 夏生は人を好きには」
「知ってます」
ふっと彼女が呼吸を止めた。その彼女に向かって蛍はくっきりとした声で告げた。
「知ってます。だから、謝りたいんだ。俺が男にフラれて自分を嫌いになったときに夏生さんだけが味方でいてくれた。その夏生さんにだから俺はちゃんと謝りたい」
彼女はしばらく考え込んでいたが、ややあってカウンターを出てくると、無造作に入口の鍵を掛けた。ぎょっとした顔をする蛍に、取って食やしないよ、と面倒くさそうに呟き、カウンターに戻る。流れるような動きで彼女はコーヒーサイフォンにセットされたままのコーヒーをカップに注いだ。
「一つ聞かせて。あんたはさ、夏生とこの先、どうなりたいと思ってるの」
どう、なりたい。
思案する。正直、わからない。自分はあの人が好きで、でも……あの人にその想いは届かない。
それがわかっている自分は、彼になにを望んでいいものなのか。
「わかりません。けど……ただ、笑ってる顔を、傍で見たいって……思う」
思い出す。中学時代、一緒にいつまでもいつまでも語り続けたあのころを。
柔らかく澄んだあの笑顔を。
自分はあの笑顔をまた見たい、それは、確かだ。
蛍の言葉を聞き、彼女は悩むように眉間を揉む。しばらく唸ってからさらに問いを重ねた。
「夏生がそんなこと望んでなかったら? 辛すぎるだけだって言ったら? あんたはどうするの」
「………わかりません」
ああ、本当に自分はわからないことだらけだ。かっこよく「諦めます」と言えたらいいのかもしれない。でもやっぱり自分は言えない。
それくらい彼のことが自分は好きだ。
「わからないけれど……俺は今、あの人に会わないといけないって思うから。傷つけてしまったことをちゃんと謝らなきゃって。ただ、思うんです」
まっすぐに彼女を見上げて言うと、彼女はしばらく考え込んでいたが、ややあって頭髪をがりがりと掻き、思い切ったように口を開いた。
「この話、本当は私なんかがするべきじゃないとは思うけど。まあ、でもあんたは知っておいた方がいいかもと思うから話す。夏生の傷に当たる部分のこと」
前置きしてから彼女は確認するように言った。
「夏生さ、医大行ってたのは知ってるよね」
「はい」
頷く蛍の前に、かちゃん、とコーヒーが満たされたカップが置かれる。そのまま彼女は自分用にも大ぶりのマグカップにコーヒーを注ぐ。
「けどね、結局卒業しなかったの。できなかった、というか」
「なんで、ですか」
家庭教師をしてくれていた彼は頭脳明晰で教え方も実に見事だった。その彼が学業で遅れを取ったから退学というのは考えにくい。疑問を口にした蛍を見て彼女は迷う素振りを見せてから答えた。
「家、勘当されたから。学費も全部止められて。医大って馬鹿みたいに金かかるじゃない。さすがにそれをどうにかはできなくてね」
「勘当……って。なんで」
「跡を継げそうにないって夏生が親に打ち明けたから。自分のこと」
──君は顔を上げていい。誰になにを言われても君は君でいい。
あの日、夏生が言ってくれた言葉がふいに耳元で蘇った。
彼は多分、信じていたのだ。自分は自分だとはっきり言うことが正しいと。
けれど、現実はそんな簡単ではなかった。
「夏生の家はさ、代々続く総合病院なんだよね。で、夏生はそこの跡取りになるようにって小さいころから言われて育ったんだって。
けど自分が、恋愛感情を抱けない、性的欲求もない人間だって気づいてからどうするか相当悩んで。結局、打ち明けたの。その病院の院長であるお父さんに。そうしたら、
『そんなのは気の迷いだ。恋愛感情なんてなくても構わん。子どもさえ残せればいいんだから気にするな』って言われて、学生時代に見合いもさせられたんだって」
カップを口に運び、彼女は遠い目をする。かたん、とカップをカウンターに置き、彼女は続けた。
「確かにさ、夏生みたいな悩みを抱える人の中にはそうやって生きられる人もいるって聞く。でもね、彼はさ、それができなかった。見合い相手にもはっきり自分のこと話しちゃって。それが広がって大騒ぎになってね。
結果、勘当。病院は弟さんが継ぐことになって夏生は大学を辞めた」
あまりの話に言葉が出ない。見返すしかできない蛍に、熊本はため息交じりに言った。
「ほんと前時代的だと思うよ。でもこれが夏生を襲った現実。
アセクシャルは別に珍しいことじゃない。病気でもなんでもない。でもそれがわからない人も大勢いる。
こんな話、夏生は話したくはないと思うよ。勘当されるとき、相当ひどいことをお父さんにも言われたらしいから」
「どんな、ことを……?」
「跡取り云々の前に、お前は人として欠陥品だ。人の気持ちがわからない人間が医者になんてなってはいかん、だってさ。医者が、しかも実の父親がそれ言うとか最低だよね」
──俺は本当に、欠陥品だね。
「欠陥品なんかじゃない」
ぽろりと言葉が零れ落ちると、カウンターにもたれて明後日の方向を眺めていた彼女が、ふっとこちらを見る。
その彼女になのか、それともここにいない彼の父親になのか、あるいは……彼自身へ向けてなのか。わからないままに蛍は怒鳴った。
「夏生さんは人の気持ちが誰よりもわかる人だ。欠陥品なんかじゃない」
熊本がまじまじとこちらを見下ろす。その彼女の視線で蛍はらしくなく熱くなっていたことに気づき、頬を染めた。
「いや……あの」
しどろもどろになる蛍の前で真顔で固まっていた彼女の顔が緩む。次いで彼女はぷっと噴き出した。
あっけにとられる蛍の前でひとしきり笑ってから彼女は、そうだね、と言いつつ目尻を拭う。
「欠陥品なんかじゃない。だって夏生は私にも頑張れって言ってくれたし」
「あなたにも?」
「そう」
頷き、彼女はとん、とカウンターを叩いた。
「私もさ、親に言われて医大入った口だったの。けどねえ、元々医者じゃなくて料理人になりたくてね。ずうっと悩んでたときに夏生だけが『やってみれば』って背中押してくれたの。で、今、この店で働いている。
まあ、夢を優先した結果、夏生より前に大学辞めちゃったから、夏生が辛いとき、傍にいてやれなかったんだけどね」
悔しげにそう言う彼女の顔に蛍の胸の中がざわめく。ねっとりとしたそのざわめきを胸を撫でつけて飲み下しながら蛍は尋ねた。
「熊本さんは……夏生さんが、好き、なんですか」
わかっている。この問いに意味がないことくらい。
アセクシャルだからといって人と付き合うことができないわけではない。恋愛感情がなくとも、結婚願望を持つ人、実際にアセクシャルであることを隠して恋人を持つ人もいると聞く。だが、彼の性格を思えば、彼女がたとえ好意を持っていたとしても受け入れはしない。そういう、人だ。
だから彼女がたとえ夏生を好きだったとしても、それはただ蛍と同じ立場なだけ。それを確認したところでどうしようもない。そうだ、訊いてももやもやするだけの意味のない質問なのだ。
「すみません。今の質問は……なかったことに」
コーヒーをすすりながら早口に取り消そうと口を動かす。彼女は一瞬虚を突かれたような顔をしてから再び笑い出した。
「いや、出ちゃった言葉はなくならないよ、少年。そのせいであんた私のとこに来てるんだし。ほんと若いよね」
ずばっと言われ、顔が赤くなる。肩をすぼめるとカウンター越しに軽く額を突かれた。
「安心しな。確かに昔は好きだったけど今は違う。私、結婚してるし」
「結婚してるんですか?!」
「してたらおかしいみたいな顔すんなよ、少年。失礼だな、おい」
すごんでみせ、彼女はやれやれと首を振った。
「けどねえ、まあ、親友? みたいなものだし。夏生が困らされるのは見たくないんだよ、私としては。
だからね、あんたが夏生と来たときちょっと嫌だった。この子、絶対夏生のこと好きだろうなあって思ったから」
「そんな、感じに見えました?」
「見えた見えた。ってかダダ漏れ。ただね」
彼女は言いながら、蛍のカップにコーヒーを注ぎ足した。
「夏生はわかんないんだよね。そういうの。
恋愛感情ってものが存在することは知ってる。
けれど、それが自分のこととなるとわからない。
恋にまつわるときめきも、恋からくる独占欲みたいな胸が狭くなる感覚も夏生はわからない。
みんながわかることが自分だけわからない。
だから……しんどいよね。自分は人と違う。なにかが足りないって思っちゃうよね」
足りない。その呟きに蛍は唇を噛む。
覚えがあり過ぎるほどある感情だったから。
自分は、他と違う。自分は……完全な人間じゃない、そんな感覚。
彼もそうなのだ。ずっとずっとそうだったのだ。
「夏生さんに、会いたいです」
絞り出した声を受け、彼女はかすかに笑うと、仕方ないね、と零す。
「ただこれだけは言っておくよ。あんたの気持ちと夏生の気持ちは違う。続けるのはあんたにとってもしんどいと思うよ。それでもいいの?」
確かにそうだ。彼女の言うことはいちいちもっともだ。
けれどそれでも今、彼に会いたい。
会って言いたいことがある。
無言で頷いた蛍に彼女は、仕方ないね、ともう一度呟いてからとある場所を教えてくれた。
「正面からぶつかってちゃんと謝ってきな」
なんてエールと共に、あの人がいる場所を。
☆☆☆
熊本に教わったのは夏生の勤務先で、旅行代理店であるそこは駅を臨むビルの一つに入っていた。暦は十二月。駆け込みの正月旅行を検討する客もいるのか、閉店間際にも関わらず店内はごった返している。
その混雑した店頭に知った顔を見つけ、蛍は小さく拳を握る。
彼がいた。スーツ姿でにこやかに接客をする彼が。彼の前に座っているのは初老の夫婦で楽し気にパンフレットを眺めながら彼になにやら問いかけている。
質問に答える彼の顔には一片の曇りもない。たおやかに微笑みながら軽やかな手つきでパソコンを操作している。
てきぱきしたその姿を思わずうっとりと見つめてしまう。
家庭教師をしていたときも思ったけれど、この人はおっとりしているようでなんて仕事のできる人だろう。
ぼんやりとそんなことを思っている蛍の横でふいに声がした。
「お客様、なにかお探しですか?」
はっとすると自分のすぐ横に女性の職員が佇んでいた。不審そうな顔はされていない。いないが、ここで応えないとさすがに変に思われる。ええと、と返事に困り、手近のラックにあるパンフレットを目でなぞる。
が、うまい言葉が出てこない。冷や汗が背筋を伝った。
「お待たせして申し訳ありません。野島さま」
突如、背後からさらりとした声がかけられ心臓がひゅん、と跳ねる。
ぎくしゃくと振り向いた先、ゆったりと微笑んだ夏生が立っていた。ふと見ると先ほどまで夏生が接客していた夫婦の姿はもうない。いつの間に、と言いそうになる蛍に、夏生は微笑みを濃くした。
「お探しのパンフレットでしたらこちらですので」
ここ数日聴きたくて仕方なかった声が自分に向けられている。喜びなのか動揺なのか、判断つかない感情で頭がくらくらしている蛍をよそに、夏生は女性職員に会釈した。納得したように離れていく彼女の背中を相変わらずふわふわした頭で見送っていると、くいっと小さく袖が引かれた。そのまま店の外へと誘導される。
「ええと、なんで?」
夏生が蛍の袖口を放したのは、店からは死角になったトイレの前だった。
「君がなんでここにいるのか訊いていいだろうか」
「夏生さんに会いに。場所は熊本さんに訊きました」
「クマに? あいつ……個人情報というものをなんだと……」
ぶちぶちと言う彼に急に不安が募る。蛍は俯いて言った。
「ストーカー、ですよね。こんなの」
ごめんなさい、と謝ると、夏生は気を呑まれたたようにこちらを見上げてから、いや、と呟いた。
「そこまでは思わないけど。さすがに職場に来られると動揺する、というか」
「すみません。こうするしか夏生さんに会えそうな方法、思い浮かばなかったから。本当にごめんなさい」
深く頭を下げるその蛍の横を、トイレから出てきたサラリーマン風の男性が怪訝そうな顔で通り過ぎる。
頭を下げた若者と頭を下げさせているスーツ姿の年上の男。
この図がどう見えるのか考えてこれはもしかしたらまずい想像をされるかな、と蛍が思ったと同時に、夏生があたふたと蛍の肩を押して顔を上げさせた。
「とにかく。そんな風に頭を下げさせたいわけではないから。いろいろその、困る」
「ごめんなさい」
「ああ、もう。いいって。というか君はなにも悪くないだろ」
彼にしては珍しく焦りが滲んだ口ぶりで言う。柔らかそうな髪を搔きあげ、彼は悩み悩み言葉を継いだ。
「その……この間の話なら俺の方が悪いから。君の気持ち、まったく気づかずに過ごしてしまっていて。きっと辛い思いも多かったんだよね。こちらこそごめん」
頭を下げられ、今度は蛍が慌てた。
「そんなことない。むしろ夏生さんの状況を考えずに俺が気持ちを押しつけただけだから。謝るのは俺の方で」
「いや。もとはと言えば俺が欠けているせいだから」
欠けている。
──俺は本当に欠陥品だね。
リアルの声に、記憶の中の声が重なり、胸がぎゅっと痛んだ。
「それ、やめてほしい」
「それ?」
思い至らないと言いたげに首を傾げる彼に、蛍は厳しい声で告げた。
「欠けているとか、欠陥品、とか。そういうの。やめてほしい」
当惑したのか、彼が唇を薄く開く。その彼に詰め寄るように蛍はさらに言った。
「夏生さんが欠けているなら俺だってそういうことになる。俺は異性を好きにはなれない。
それって正常な感覚がないって理屈になるだろ。夏生さんのその言い方だと」
「君は……違うだろ。俺には人の気持ちがわからないけれど、君は人をいたわれる。人の気持ちも汲むことができて、ちゃんと感情がある。だけど」
「夏生さんにだって感情はあるだろ!」
跳ね上がった声にふっと夏生が息を止める。トイレから出てきた今度は大学生風の男性がやっぱり不審そうに通り過ぎていくのを見て、蛍は声のトーンを抑えた。
「恋愛感情がわからないと人をいたわれないのか? 喜んでいる人を見て一緒に喜べないのか? 苦しいって言う人に手を差し伸べられないのか?
違うだろ。自分には感情がないみたいなこと夏生さんは言ったけど、楽しいとか悲しいとか嬉しいとか、そういうのちゃんとあるって見てればわかるよ。
ちゃんと夏生さんには感情がある。人の気持ちだってわかってるし、なによりわかろうとしてる。
見てれば俺にだってわかるのに、自分のことをあなた自身がそんな風にむちゃくちゃ言うなよ」
蛍の言葉に夏生は言葉を失って立ち尽くす。あまりに黙っているので、夏生さん? と小声で名前を呼んだ蛍の目の前で、彼の唇がふいにわなないた。
「ごめん。ちょっと」
言いながらくるり、と夏生が背中を向ける。かすかに肩が震えていた。
「夏生、さん?」
そろそろと声をかけるが、こちらに背中を向けたままひらひらと手だけが振られた。
「ごめん。本当にちょっと待って」
どれくらいそうしていただろう。徐々に彼の肩の震えが止まった。ふうっと大きく息を吐き、彼がこちらを向く。その目を見て蛍ははっとした。
彼の目は赤かった。
「なんかその、ごめん。感動してしまって」
整った指先で目尻を擦り、彼は照れたように笑った。
「そんな風に言ってくれて、ありがとう」
ささやかな声で言う彼に蛍は微笑みかけた。
この人が笑ってくれることが嬉しい。そう思えた。心の底からそう思えた。
第6話に続く
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