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謳歌するって、楽しいだけを指すのじゃない

横断歩道を渡るだけのことなのに
きゃー!といいながら楽しそうに
全力疾走する子供を見て

あぁ、これだけのことが
そんなに楽しいんだなぁ、と
目を細めてみつつ思い出したのは
 
道路を渡る遊びをしてて
車にひかれた幼少期の思い出でした。笑

そうあのとき、よくわからないけど
道路を渡る、というだけのことが
やたらと楽しかったことを覚えてて
 
あれがつまり
「子供らしさ」ということだったんだなぁと
なんかしみじみと思いました。
 
 
記憶に残ってる幼少期の思い出の多くは
出来ないことを恥じてるシーンです。
 
早く大人になりたい、そしたらきっと
あれもこれも出きるようになるのに、と
子供な自分を恥ずかしく思うばかりで
 
(まぁこれは90点とっても「残念」的な
 反応が返ってくる家庭環境も
 少なからず影響してるとおもうが笑)
 
あんまり子供時代を謳歌できなかったな
みたいな感覚がありましたが。
まぁ、根っこが子供みたいな性質だから
いまからやればいいか、みたいな。笑

でもあの、いまとなっては理解不能な
「道路を渡るだけで楽しい」とか
「その結果、車にひかれる」とか
 
いまとなっては当たり前にわかる
「90点取って凹む必要ない」が
分からなくて恥じてたこととか
 
つまり、その視野の狭さとか顛末が
まさに子供的なあり方だったんだなって
なんか、すとんと落ちた感じがありました。
 
そっか
謳歌するってこういうことなんだな。
楽しいだけを指すのじゃない。
 
視野が狭いときには
狭いときにしか感じられない感覚
 
分からないときには
分かるようになればあり得ないような発想
 
できないときには
できるようになったらやらないような失敗
 
悩んだり、苦しんだり、凹んだり
 
そういう
そのときどきにしかできないことを
しっかり経験していく、ということが
謳歌するっていうことなんだな。

そう、思いました。

そういう意味で、私は
幼少期も、思春期も、青年期も、成人後も
悩んだり、苦しんだり、凹んだりして
妙な経験をいろいろ積み上げてきましたし
 
こりゃあもう
山岡麻子、としての人生全体を謳歌してる
としか、言いようがありません。

きっとこれからも、謳歌するんでしょう。
たぶん恥もかく。いろいろ失敗する。
そうやって思い切り謳歌するんでしょう。
 
それでいい。
それでいい。

それで、いいのだ。

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