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少数派である意味と意義、と最強メソッド「気にしない」

近頃、あらゆる「問題」の一番の特効薬は
「問題にしないこと」だと思うようになりました。

要するに
「気にしない」ということが最強のメソッドだと

だから、いま私が努力していることがあるとすると

気にしない心でいられること
気にしないですむ関係性
気にしないで生きられる社会

つまり

出来事を「問題」たらしめる仕組みはどれだ?
そこにどうやったらアプローチできるんだ?

ていうあたりなんだとおもいます。

そう思う人は、案外少ないみたいで。
それが息苦しさに繋がったりもしています。
少数派って、生きづらい。理解者がもっとほしいな。

そんな思いがありました。

でも、このあいだ、ふと、それってよく考えたら
当たり前だなって思い至りました。

「気にしない」て、ほんとに最強のメソッドなんです。
「問題」に対応する必要がなくなっちゃうから。
一つ一つの些末なことに囚われなくてすんじゃうから。

でも、世の中には「問題」があることによる恩恵も
実はたくさんあるんですよね。

対応していくことで魅力が磨かれるヒト
些末に見えることから大きな楽しみを見いだせるヒト
「問題」があるからこそ動かせるビジネス

「問題解決」というプロセスが
ヒトやコミュニティや社会のまだ見ぬ可能性を
開いていくツールのようなものだと捉えたとき

「問題」もまた、必要で大切な恩恵だと言えます。

そして、「問題」たらしめる仕組みの数より
「問題」そのものの数のほうがどう考えても多い。

だから、仕組みにフォーカスがあたる私が
少数派なのは当たり前のことなんだとおもいます。

「問題」全体に及ぼす影響のでかさを考えれば
一騎での破壊力がでかいぶん、世界のバランス的に
そんなにたくさん、居る必要がないんじゃないかな。

民族や、思想や、ジェンダーや、いろいろなシーンで
少数派というのは息苦しく生きづらい思いを
することが多いかもしれないけれど

それだけ大きな影響力がある
ということなんじゃないかなぁと、思いました。

だから、多数派は本能的に彼らを恐れ、差別したり
虐待したり、排除したくなるんじゃないかな、と。

まぁ、多数派も少数派も
あくまで私の思い込みのフィルターが生み出した
勝手なるカテゴライズに過ぎないけれど

少数派だな、やりにくいなっておもったとき
その感覚にこそ、自分の意味や存在意義が
宿ってるのかもしれないなって思ってみても
いいんじゃないかと思います。

そんな多数派のヒトたちがいてくれるおかげで
そこでの違和感が私の個性を教えてくれる

違う!とおもうから自分の意見が外に出せる
息苦しさがあるから声をあげられる

だから、気にすんな。

そんな気持ちをもって、自分の中の真実を
大事にしていきたいな、とおもうのでした。

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