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歩く

 うねる坂道を、時折けたたましい音を立ててトラックが通り過ぎる。人が歩くような道路ではないと叱られているようだ。中天に昇る陽が容赦なく降り注ぎ、木陰の隙間からアスファルトを焼いている。
 私は車道の脇、ほんの少し言い訳程度に作られた歩道をゆっくりと前に進む。まだ標高はさほど高くなく、空気もなまぬるい。
 じっとりとした汗をシャツの下に感じる。ふもとから丘の上までおよそ1時間、80才を越えたばかりの体には、途方もない距離だ。立ち止まり、水を飲み、そしてまた前に進む。
 やがて、木立の間に、あの塔が見えてくる。灰色と青のタイルで覆われた、窓もない四角い塔。
 あれが私の出口だ。

「お父さん、すみませんけど、どいてもらえます?」
 ソファに座りテレビを見ていると、娘の夫が掃除機を持ち、申し訳なさそうに愛想笑いを向けてきた。二世帯同居マンションと言えば聞こえはいいが、リビングは共用で風呂場も同じ。 夏休みに入り、孫たちは連れ立って海外へと旅に出た。久しぶりに夫婦二人になれるのだ、役に立たない老人が昼間からテレビを見ていれば、図書館にでも行けと言いたくなるだろう。
 平均的な生活基準で言えば、豊かで恵まれている。貯金もある。だが、ほかには何もない。
 75才で定年を迎えて知ったのは、私には将来の夢がなかったということだ。老後の時を共に過ごせたはずの妻はもういない。発達する医療の速度よりも早く、彼女の体はガンに蝕まれた。
 私には何もできなかった。

 その塔の噂を聞いたのは、図書館へ行く途中に立ち寄った床屋だった。ここの主人も私と同じくらいの年だが、補助義手に補助脳を政府の援助で借りて現役を続けている。
「この義手のエンジニアが言ってたんだ、宇宙に行く道が山の方にあるって」 ナノブレードを私の喉にあてがって、ヒゲを削りながら彼は笑った。
「その代わり、肉体は捨てなきゃ行けない、精神だけポーンと宇宙に放り投げるんだそうだ」

 もう、10年も前の話題だった。図書館にはその当時の記事が残されていた。
その塔は、宇宙から音もなく降りてきたらしい。丘のてっぺんに刺さり、それからウンともスンとも言わず、そこにある。白と青のタイルで全面を覆われて、さわるとひんやり冷たいのだとか。
 はじめに話題にした若者たちが数名、そこで行方不明になった。残されたモバイル機材には彼らが塔の中に入り、消えて行く姿が残っていた(という「噂」だ)。
 それからゴシップマスコミが押し寄せたが、目撃例もないまままた付近で複数名が行方不明になった。政府は重い腰を上げ調査に乗り出し、付近の立ち入りは禁止されたが、その後相次いで行方不明になったはずの者たちが(生死を問わず)発見され、事件と塔との関係はなかったことにされた。
 だが、それからもぽつぽつと、塔に向かって帰ってこない者の噂が絶えないのだという。
 どこまでいっても、噂の域は出ない。政府にとっても、害も得もないただの塔を壊す意味もなく、それは放置されたままそこにあるという。

 片道切符で路線を乗り継ぎ、降りたことのない駅に降りた。山のふもとにある観光駅の二つ前、民家がすぐそばにあり、しなびた商店街の跡がある。見上げれば近くに山があり、霞む山頂へロープウェイが伸びている。そういえば妻が一度、あのロープウェイに乗りたいと言っていた気がする。彼女の望みくらい、いくらでも叶えることはできたはずだろうに。真面目に生きてきた彼女は死に、何も考えずに生きてきた私は生きている。
 軽い罪悪感に耐えかねて視線をそらすと、丘の上に塔が立っていた。白くて青い、つやのある四角い塔だ。

 そしていま、私は塔の前にいる。持っていた水はもうなくなった。塔の周りをぐるりと歩く、あっと言う間にはじめの位置に戻る。根元には草木が生い茂り、ずっと昔からそこにあったように見える。足元の草木をよけ、壁面にそっと手を触れる。
 ひんやりと冷たい。
 両の手をつけ、塔の上を見上げる。雲の浮かぶ青空に、塔の先がかすんで溶けて行く。
「連れて行ってくれ」
 思わぬ声が口をついて出た。そのまま壁面に体を預ける。壁が消えることもない、体が溶けることもない。ただひんやりとしたタイルの感触が頬に伝わった。
「もういいんだ、連れて行ってくれ」

 しばらくすると、私の肉体は塔を離れ、振り返ることもなく歩道へと向かった。私の精神だけが、ポーンと放り投げられて宇宙へ向かったのだ。そのことを肉体である私が知る由はない。それでも私の魂はあの宇宙へ飛んだ。精神をなくした私の肉体は、そう信じることで落ち着きを取り戻し、元の道を下っていった。駅に着いたら電車に乗り、ロープウェイのある駅まで行こう、そして肉体をロープウェイに乗せて、また別の景色を見せてやろう。精神は消えてなくなったが、肉体は朽ちるまで生きる。
 この星に、とどまり続ける。

 

↓あとがきです

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