見出し画像

裸が普通になる日 「ザ・サークル」

最近、映画の中で中国の存在が顕著になってきている。映画「オデッセイ」では火星からの帰還をヘルプするのは中国企業。「ザ・サークル」の主人公、メイのSNSにも英語メッセージの他、中国語のメッセージが届く。

去年、公開された「ブレードランナー2049」では日本語の看板が登場するが、それは1982年製作された「ブレードランナー」継承しているからだ。1982年と言えば、高度経済成長を終えた日本がバブル経済へと駆け上っている時代。日本が経済成長に伴って世界で存在感を増してきていたから、日本語の看板が出て来るのか、あるいは、原作がそうだったからなのか。フィリップ・K・ディック原作の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を読んでいないので、原作も日本の看板が登場するのかどうかは不明。だけど、私は勝手に日本の経済成長と連動させて考えている。

今まで、映画で「中国」と言えばエキゾチックな「香港」だったのが、今や時代の先端をいく「中国そのもの」にフォーカスされている。なぜなら、当然今がそういう時代だから。今後、映画の中で中国がどんな扱いになって行くのだろう。果たして日本の出る幕はあるのだろうか。

さて、映画のテーマである、すべてをオープンにすることで楽になる、というのは、このnoteの竹村さんの記事と、内容的には近いものがあります。

有名人やインフルエンサーという人々がオープンになり、透明化して裸になれば多くの人が覗きに行く。彼らの生態から成功の秘訣を盗み見たい人、彼らの成功を妬む材料を探しに行く人。最初はすべてをオープンにすることが珍しいから、目立つ。けれど、どんどん色んな人がオープンになって行けばどうでしょう。そうなると、今度は、

・質のいいオープン
・質の悪いオープン
・どうでもいいオープン
・むしろ閉じておいてくれ、というオープン

となって行き、結局オープンであることが珍しくなくなっていくのではないでしょうか。

ヌーディストビーチに初めて行ったときは、ドキドキして恥ずかしいけれど、全員が裸で、自分も裸になれば、そのうちにそれが普通になり珍しくなくなる。あるいは、裸族の中の誰かが服を着れば目立つけれど、次々服を着る人が現れれば、今度は裸であることが目立つ、というのと同じです。

この映画のように、「24時間すべてがオープンである」ことに、最初はみんな興味を持って接するけれど、それが普通になってきた時点でオープンであることに麻痺し、興味を示さなくなるでしょう。果たして本人はそれで楽になるのか、あるいは、もっと注目をして欲しくて、なにか事件を起こすのか。

全員がオープンになって、裸になれば今度はその質が問われるようになってきます。ある意味中身が充実している人にとっては朗報ですが、箱ばかり飾ってきた人には悲報。今までは箱を見て中身を推測していたのが、中身の充実度が問われるようになるのでしょうか。ちょっと情勢を眺めたい気持ちです。

映画の中で「すべてをオープンにすることは正義である」と言う台詞が出てきます。人は見ていないところで悪事を働くというのが、その理由。でも、これには疑問が。日の当たる部分があるなら、その後ろには必ず影ができるものです。それが自然。もし、全方向から光が当たれば、必ず消耗します。でも、今はそれが街角のカメラで気付かずに行われ始めています。まあ、もうそう言う時代なのでしょうか。AIやブロックチェーンなど、技術の進歩がじわじわと周囲を浸して行くようなそんな時代の変わり目に、自分がいるんだなぁと感じずにはいられません。

映画はスクリーンで。どちらさまもステキな映画ライフを。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

サポートありがとうございます!旅の資金にします。地元のお菓子を買って電車の中で食べている写真をTwitterにあげていたら、それがいただいたサポートで買ったものです!重ねてありがとうございます。