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無用の大量物が苦手な話

今地方でもっともホットなイベント「ひな祭り」。地方のひなまつりイベントは大体3月一杯は開催される入れ喰いイベント。商店、旅館、お寺に温泉。観光客が訪れるありとあらゆる施設に、村中、町中から集めたおひな様をこれでもかとテンコ盛りに並べ、7段飾りどころか、10段、いやいや、うちは20段!!いやなんの、こちらは座敷に1000人並べてみたぞ。

ひな祭りだけではありません。

4月にもなると、今度は田舎の川や橋、渓谷なんかにこれまた大量の鯉のぼりがぶんぶん舞うようになります。こちらもすごい数です。

近年になって、地方のちょっとした観光地は軒並みそれをやっています。しかも、ひな祭りも鯉のぼりもそれぞれ同じ時期に開催されますから、どこかで差をつけて集客しなきゃいけない。一番簡単なのは、数で圧倒する方法です。つまり、その数は増えるばかり。

確かに、数が多いことで人は驚き、感動さえします。「ほら見て、すごいでしょ!感動するでしょ!」そう言って誘導されてる気がする。白けてしまう。そう感じるのは私くらいなのでしょうか。大勢の人がやっぱり見に行くわけです。ですから、毎年どんどん数を増やしてギガひな祭り、メガ鯉のぼりになっていくのでしょうか。

さらに、これからの季節、河畔や城跡など、大量に植樹された桜の花が満開になってきます。夏になれば何百発も打ち上げられる花火、お盆にはびっしり埋め尽くされたキャンドルでギネスに挑戦。秋にはみんな仮装して渋谷へ、クリスマスにはオーナメントぎっしりのツリーでこれまたギネス。

いやいや、そんなに大量じゃなくていいんです。ちょっとでいいんですよう。たくさんはもうたくさんなんですよう。

近所のお菓子屋さんの隅に飾られた陶雛を見て「あー、そんな季節だなぁ」と思ったり。オモチャ屋さんで買って来た、持ち手のところにお菓子が入っているような安物の鯉のぼりが、通り道のアパートの窓に括り付けられてるのを見て「ここは男のがいるんかー...」と思ったり。さくらは近所の公園に一本だけあるやつでいいんです。近くのおばあちゃんと子連れのおかあさんがいるくらいでいいんです。花火は線香花火でいいんです。ろうそくは仏壇でいいんです。ハロウィン行かずに時々回らないお寿司屋さんに着物で行くくらいでいいんです。クリスマスはとくになんもやらなくていいんです。

大量のものに感動するときというのは確かにあって、でも、それって、意図せず見つけたり、登場するから、興奮したり、感動したり、驚いたりすると思うんですね。お膳立てされて「ほら、ここにこんなに沢山用意しましたよ」ってされれば、探したり、見つけたりしなくてもいいから、楽なんだろうけど。

昔、ソ連に行くことがあって、その時にモスクワ→ウィーンの列車で移動をしてたんですが、もうね、どこへ行っても景色が大して変わんない。ロールにした麦の束の形が変わると「あー、ちょっとは移動したんだなぁ」くらいのもので、12歳の私はずいぶんと退屈していました。その時。突然目の前に現れたのが、ひまわりでした。

地平線の向こうまで、視界のすべてがひまわり。それは、わたしを驚かしたり、感動させるために用意されたものではなく、当時ソ連で行われていた、農業共同体「コルホーズ」や「ソフホーズ」で、ひまわり油を得る為の大掛かりな畑に過ぎなかったのですが、あの絨毯のようなひまわりの景色は私の細胞全体に記憶として残りました。

それがあったからかどうか、ついつい偶然や発見をしたくなる性分なのでしょう。用意されると「それじゃないのよ」と言いたくなるのかも知れません。だって自分で見つけた方が断然楽しくない?面白くない?独り占めできなくない?むしろ、用意されたものでいいの?ねえ、ホントにいいの?満足できんの?って、思ってしまうけど、それはそれで、考えなくても得ることできる感動だし、そういう商売の人たちもいますから、世の中の仕組みとしては与える人たち、受け取る人たちとして全然ありです。

特別イベントに行かなくても、普段の生活の隙間でささやかな楽しみを見つけて充たされている自分は、相当省エネで効率はいいと思うんですけどねぇ。

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