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私が呪いをかけるとき

私、時々呪いをかけるんです。それはこんな時。

先日も田んぼへ行ったら、お弁当のプラスチックパックが、収穫の終わった田んぼの真中に落ちていました。コンビニの袋や菓子パンの袋も落ちています。畦には缶コーヒーの空き缶が。田んぼの中ですから黒いプラスチックや白いコンビニの袋は結構目立ちます。そして田んぼの泥にまみれて半ば埋まっています。それをつまんで引き剥がし、凹んだ空き缶も持ち上げて土と雨水でドロドロになった水を捨てます。

次に、担当である水路沿いの土手を草刈機で刈る仕事をしました。草の中にはファミチキの黄色い袋、水のペットボトル。菓子パンの袋、すっかり茶色く枯れた草を刈っていくと、嫌な金属音がします。そこにあるのは錆びた缶コーヒーの缶。見ると1つや2つではありません。ここは夏にも自分で刈っています。ほんの数か月の間に、これだけのごみが捨てられています。

どうして、このようなところに、食べるものを作っているところに、口に入れたもののゴミを捨てるのだろう。この人は食べ物をなんと思っているのだろう。そんな思いばかりが頭の中を占めます。きっと食べること、食べるものを大切にしたいない人なのだろう。なぜ、私があなたの食べたものの、後始末をするのですか?食べ物を作るところに、あなたが捨てたゴミを。ここはゴミ箱ではありません。口に入れるものを作っているところなんですよ。つまり、あなたは自分の口にゴミを入れているのと同じことをしている。そんな思いが最高潮に達した時、私は呪いを発動します。

「これを捨てた人が大切にしている人が、食べることで、死ぬほど苦しみますように」

この呪いを「当人」にかけるのではありません。マクラーレン刑事にダメージを与えるため誘拐されるのは奥さんだし、ジグソウが刑事エリックを痛めつけるために誘拐するのは息子です。そう、その人本人ではなく、「その人が最も大切にしている人」に向けた呪い。これが最も相手にとってダメージがあるであろう呪いなんです。

どこの誰が捨てたのかはわかりません。けど、このゴミはあなた自らの手で捨て、それを私が自分の手で拾っている。ゴミを媒介して二人はつながるわけです。すなわちこの呪いは成立するのだと、心のどこかで強く念じています。そんな風に思わないとやってられません。

その人は自分の車の中にゴミを置いておきたくないから外に捨てるのでしょう。けれど、それはきれいなことでしょうか。捨てたらなくなると思っているのでしょうか。みかんの皮ではないのですから腐ることはありません。そのまま田園の中の不快な景色として放置されるか、あるいは私のような誰かが拾っているのです。捨てた人の後始末を、誰かが引き受けているわけです。おそらく、誰かに拾わせている、という想像すらしないでしょう。しかし、ゴミを拾うほうは負のダメージを負います。田んぼの中に、コンビニの袋は本来あるべきものではありません。空き缶がススキの中に挟まっているのは美しいことではありません。

自分の大切にしている田んぼにゴミが捨てられているのを見るのはショッキングなことです。ですから、呪いなんて言うけれど、私は自分が受け取った負のエネルギーを、そのまま捨てた本人に返しているというだけなんです。もちろん相手から来たエネルギーを受け取って返すから質量的には倍くらいにはなっているかも。もちろん、そのような呪いが現実に効果があるとは考えていないけど、私のせめてもの発散方法ということで。

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