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眺望を歩く

   坂道を歩いていた。息はまだ切れていない。立ち止まり、眼下を振り返る。白く霞んだ景色の中を、新潟では信濃川、ここで千曲川と言われる川が横切っている。川にかかる大きな橋を車が何台も走っているはずだが、それも霞んで判然としない。ほんの数十分前に歩いていた橋を眺めて、それから信二はスマートフォンで自分の位置を確認した。画面のすぐ下、つまり少し南にスクロールすれば地図上に姨捨の駅が現れる。ここまで来た行程を指で追うと、出発地の屋代駅からここまで、行程のほぼ8割まで来ていた。時刻は11時12分。発車時刻までまだ28分ある。信二は上着のポケットに手を入れ、そこに収まっている小さなGPSの感触を確認し、再び歩き出した。

 別に計画をして長野に行こうと言ったわけではなかった。信二は、電車を使った沿線旅行が好きで、時々山を登っていた卓也とたまたま休みが合い、流れで信州へ一緒に行くことになった。須坂のゲストハウスを拠点に、1日目は湯田中方面へ一緒に出掛け、2日目はそれぞれ別経路で帰る。そんな旅程だった。
 1日目、温泉に浸かる猿を見た後、クラフトビールの店に入った信二たちは、ここにも西洋人が多いのを改めて認識した。雪の凍る道、野猿公苑から帰る二人の横を「失礼」と追い抜いて行った西洋人は窓際に座っていて、彼の前に置かれたグラスはもう半分以上空いている。ニット帽で分からなかったが、金髪の頭は少し薄くなりかけている。信二らが入ってきたのを見てニッコリ笑うので、信二も自然と笑顔になった。
「あの黄色いハードシェルよさそうだな。メーカーどこかな?」
 卓也が色の濃いビールをぐいと飲んで信二に言った。
「ハードシェル?貝?」
「彼の上着のことだよ」
 卓也は笑って、信二に登山装備のうんちくをざっと語った。防水のことや重ね着のこと、靴下や靴の話。
「八甲田山の遭難では替えの靴下や軍手さえ持って行かなかったって。あの時代の 装備ですら無謀なのに本当、ひどい話だよ」
登山に凝っているせいか、卓也の口からは次々と山のエピソードが出てくる。旅先の緊張がビールで緩んだのかも知れない。少し日焼けして引き締まった頬を紅潮させながら卓也は饒舌だった。
「でも、一番大事なのはやっぱりこれ」
 そう言って卓也がポケットに手を入れ、コトンと、カウンターの上に小さな電話のようなものを置いた。アンテナの部分が飛び出て、出始めのころの携帯電話のような恰好だ。
「電話?」
「GPSさ」
 卓也によると、スマートフォンのアプリでも十分なのだが、先輩から中古をもらったので、今回試しに持ってきているらしい。
「一応、使い方に馴れといたほうがいいと思ってね」
 そう言って、卓也は画面を操って信二に見せた。小さな液晶の中に等高線が見える。なんかすごいっぽい。ということしか信二には分からない。卓也は専用ツールが好きだ。高校時代はオーディオ凝っていた。専門性の高い登山装備はきっと卓也向きなのだろう。宿に戻ると、卓也はゲストが集まるラウンジでビールを飲みながら他の客と談笑を始めた。冬場の閑散期で、信二らの他にビジネスマンが一人泊っているだけだ。信二は卓也ほどの社交性はない。一緒にいると卓也が喋ってくれるから、無理して自分で喋らなくてもいい。同級生の集まりでも、合コンでも、昔からなんとなくこういう感じでつるんでいる。盛り上がる卓也とビジネスマンをよそに、卓也は悠々とカウチソファに体を沈め、乗換えサイトで翌日の電車の時刻を調べていた。突然、卓也が隣の信二に問いかけた。
「明日どこ行くんだっけ。ナントカ鉄道乗るんだよな」
 ビジネスマンが信二に、明日はどこへ行くのか尋ねたのだが、検索に夢中だった信二は聞いていなかったのだ。それで卓也が信二に水を向けたのだった。
「え、何?」
「お前、ホント話聞いてねーよな。何線の旅だっけ、って聞いたの」
「ああ、小海線」
「小海線か!いいね」
 ビジネスマンが応じ、ほかの路線の話を展開し始めた。長野在住であちこち出張に出ているので詳しいと言う。
「卓也くんは中央線で木曽福島、お友達はしなの鉄道か。卓也君が見る姨捨の景色の中にお友達がいる可能性があるってことだな。時間が合えばだけど」
 もちろん、信二はビジネスマンの言っていることを即座に理解した。卓也はと言えば、ポカンとしている。
「姨捨は日本3大車窓でよくポスターにもなってる駅だよ」
 信二が言うと、ビジネスマンも続けた。
「景色の他に急こう配を登るためのスイッチバックでも有名だけどね」
「ほら、昨日途中で電車がバックしたろ?」
「ああ!俺が寝ててビックリしたとこな。逆走してる!って」
 特急「しなの」でさえ、姨捨駅の前では徐行をする。標高545メートル。善光寺平を見渡すことができる絶景の駅だ。夜は長野市の夜景が見え、月が美しく見える上に、棚田もあり、稲作の季節もまた格別なのだった。
「はぁ、言われてみれば、なんか写真撮ってる人多かったもんな」
 ビジネスマンはストーブに手をかざしながら続けた。
「善光寺平と言っても、駅から見えるのは千曲なんだよ。で、その景色の中にしなの鉄道がある」
 信二は即座に地図を見る。北陸新幹線、しなの鉄道、篠ノ井線の3つが並んでいるのが見える。その時、漠然と地図を見ていた信二だが、自分がその善光寺平を歩くことになるとは思ってもいなかった。
 翌朝、善光寺へ行きたいという卓也は信二よりも先に宿を出た。ラウンジのソファの隙間に、卓也のGPSが挟まっているのを見つけた信二は、すぐ卓也に連絡を入れた。これを持って木曽福島へ行く予定だったわけだから、なければ困るだろう。だが、卓也からの返事は、困るには困るが、別に後で渡してくれればいい、というものだった。なら、帰ってから卓也に渡せばいいのだな。そう思ってポケットに突っこみ、信二は自分の電車に乗り込んだ。軽井沢行のしなの鉄道だ。途中、乗り換えて小海線に入る予定だった。ポケットに入れたGPSを手の中でくるくると触っていた信二は、川中島のあたりまで来たとき、急に何かを思いついたのか、スマートフォンを取り出した。夢中になって時刻表と地図を何度も切り替える。時折宙を見ては頭の中で何か計算しているようだった。電車が篠ノ井駅を過ぎた時、信二は決意めいた表情を浮かべ、スマートフォンから顔を上げた。しなの鉄道屋代駅から篠ノ井線姨捨駅まで、1時間20分で歩くことができる。1時間30分後に卓也の乗る電車が来るから、それに乗り込んで驚かせてやろう。なかなか気の利いた思いつきじゃないか。まさか俺が姨捨の駅から乗って来るとは夢に思わないだろう。卓也の驚いた顔を想像して信二は愉快な気持ちになった。小海線はまたいつでも行ける。楽しみが先延ばしになるだけだ。それよりも、こちらのほうがイベント性高かった。むしろ卓也がGPSを忘れてくれて、この機会をプレゼントしてくれたのではないかと思うほどだ。卓也が乗る電車を調べて時間を言い渡したのは信二で、すべて計算してのその電車だったから、よほどの理由がない限り、卓也が別の電車に乗るとは考えにくい。篠ノ井線としなの鉄道、それぞれの路線の時刻、姨捨と屋代、2つの駅の距離。これらの複雑なパズルを数分で計算した自分の集中力と頭脳に、信二は少なからず陶酔していた。篠ノ井駅の次が屋代高校前、その次はもう屋代駅だった。姨捨から見える善光寺平を、わざわざ歩くなんて、まあやるヤツはいないだろう。自分で思いついた未知の挑戦に胸を躍らせていると、電車はすぐ屋代駅に到着した。

 降り立った屋代の駅舎は新しく、降りる人も多かった。駅員もいた。駅前の時計は10時10分を指している。卓也の電車は11時40分。信二は武者震いをするようにリュックを背負いなおし、歩きだした。最初の道は単純だ。駅を背にして少し歩き、その後は左に折れてしばらく歩く。それから今度は右へ行き、ひたすら県道340号線を千曲川に向かって行けばいいだけだ。整備された道は住宅街の中を通っている。こういう景色はどの地方都市でもあまり変わらない。だが斬新な、ちょっと見ホラーのような手書きの安全標識があったり、「ねじ」と大きく書かれた工場の看板などが出現すると、やはりよその土地に来たという感覚を新たにする。国道18号線に突き当たると、道に横断歩道はなく、歩道橋を渡らなくてはならなかった。車が優先で人が遠慮して歩道橋を渡ったり、地下道へ潜らされたりするのは、地方における車社会の象徴でもある。中途半端な歩幅の階段を上り切ると、信二は目的地であろう方角を見た。だが建物や電柱に遮られてはっきりとしない。歩道橋から目的地が見えるものと思っていた信二はがっかりした。おまけに逆光なので景色がクリアではなく白けている。ガスがかかったようにすべてのものの境界線が溶け合っているのだった。山肌に貼り付いた高速道路はおぼろげに見えても、駅舎や電車はまったく判別できない。余裕でたどり着けるという、信二の自負は、早くもこの時点で頼りないものになっていた。あの山肌であることは確かなのに、到着地点を肉眼視できないことが、知らぬ土地を歩いている信二を不安にさせた。もちろん、歩いていけばたどり着けるのは分かっている。だが問題は時間制限があることだった。信二はやや早足に歩道橋を駆け下りた。
 地方都市の景色の中、チェーン店の衣料品店やホームセンターを見ながらしばらく歩いていく。近代的な校舎の中学校、その向かいに文具店。安っぽいサイディングの壁、アルミのサッシでピカピカの文具店は道路拡張で後ろに移動した様子だ。かつては味のある店だったのかも知れない。今でも学生のささやかな買い物の受け皿になっていたのだろうか。道脇にある畑は黒々とした土の色をしている。厳寒のこの時期に植わっているのはネギくらいだ。ふと、信二は今、自分は善光寺平を歩いている、と思った。昨日、姨捨駅に止まる電車の中から見た、あの景色の中に、今自分はいるのだ。はるか遠くの、自分には関係ないと思っていた場所を、見ているだけだった場所の中を、今自分は歩いている。だが、歩いている身としては、なんら変わったことがあるわけではない。そんな自分たちを見て、車窓から絶景だとありがたがって、何人もが写真に収めているのかと思うと、信二は少しおかしかった。道の先に上り坂が見える。千曲川に渡る橋だ。欄干の始まりに「へいわばし」と刻まれている。今から渡る橋があまりにも平凡な名前であることに、しょうがないと思いつつも信二はまたもやがっかりした。「へいわばし」なんて、あまりにもお行儀がよすぎる。歴史的な趣のかけらもない。「一級河川 千曲川 ちくまがわ 国土交通省」の看板はなおのこと趣がなかった。この時点で10時40分。歩き始めてからちょうど30分が経過していた。iPad上の地図を見るとこの千曲川を超えたら半分近くは来たように見える。もしかすると予定の1時間20分よりも早く着いてしまうかも知れない。信二の不安な心は少し落ち着いた。こういう地図の試算は大体にして多めに見積もっているものだ。静かに流れる千曲川の上を歩きながら信二は時間配分を考えていた。ここを過ぎるといよいよ姨捨へ向かう坂道で、棚田が見えてくる。平坦な地方都市の道を来たけれど、これからが景色を楽しめる行程だ。信二の足取りはうきうきと軽くなっていった。
 橋を過ぎると、県道の周辺は裏さみしくなる。住宅や商店はまばらになり、代わりに空き地や田んぼが見え始めた。ここからは進行方向に対して左斜め前。地図で言うと南西の方角へ下る。橋の上からはかなり遠くに見えていた山肌は、渡り切って少し行くと、いくらかハッキリと見え、なんとなく手の届きそうな距離に思えた。カラオケ店と見まごいそうな「みもざ」と書かれた美容室を左に折れ、農道とも言えるような道が続く。道は、まだ平らだ。手元の地図がなければ到底分かり得ないような、目印もなにもない場所をいくつか曲り、道を横切って、それから国道の高架をくぐると、ちょうど目の高さに黒い土の畑があった。ここもほかの畑と同様、白菜の葉は薄茶色に枯れ、大根の葉も横倒しに萎れている。植えられたものもまばらで、風に煽られたのか寒さ除けの白い覆いは外れ、畝は半ば露出している。植えられた作物も寒そうに見える。ほとんど土と同じような色に朽ちた葉に覆われた一角は雨でどろどろになったり、日差しでカラカラに乾いたり、そんなことを半年も繰り返したのだろう。もはやそれは葉ではない。かと言って完全な土でもない。そんな植物の縷々とした屍の上に黄緑色の丸いものがぽつぽつと顔を出しているのが見えた。よく見ると、それはフキノトウだった。それは幼いころ祖母と一緒に摘んだフキノトウを思いださせた。死んだ葉の中から生まれた、この小さい若草色の生命は、道行きの後半に向かう信二の心を明るくするのに十分だった。いよいよここから上り坂だ。道の脇の水路には水が勢いよく流れてくる。コンクリで作られた水路はいささか趣に欠けるが、それでも田舎らしいのどかさの中を、信二は登って行った。振り返ると、さっき渡ってきた橋はずいぶんと遠くに見える。自分でも驚くほどの遠さだ。もういよいよ目的地のすぐ近くまで来ている。同時に、もしかすると想定の時間よりも早く着いてしまうのでは、という思いがよぎった。あわてて駅に行くよりも、今まで駅の上からしか見たことのない、この景色の中を堪能したほうがいい。信二は、田んぼの畔に佇み、少し息を吐いた。駅を出た時は、今の自分のいる景色が白いガスの中にあるように見えた。今、信二はそのガスの景色中にいて、歩いてきた白くかすむ道を見ている。あの、ほんの1時間前の駅を降りた時の自分と、今ここにいる自分とは別人だ。姨捨の景色しか知らなかった男は、姨捨の景色の中を歩いた男にすっかり変容している。人生とは、ほんの数十分、ほんの1時間で、別人になることができるのだ。その感覚が信二には爽快だった。電車の中で、スマートフォンをかざして写真に収め、それを拡散するだけの人間とは別格だ。もちろん、昨日の自分はそちら側にいた。景色に感嘆するだけの自分。だがこれから乗る電車の乗客は、今みんなが見ている景色の中を、信二が歩いてきたことなど知りえないだろうし、また、乗客のほとんどはこの景色の中を歩いたことなど、ないに違いなかった。それだけでも、頭ひとつも、ふたつも抜きんでたような気持に、信二はなっていた。

 地図はスマートフォンだよりだったが、あきらかに道ではない場所を示されることは多い。画面を頼りに歩いていた信二の目の前に、枯葉に覆われた土手があらわれた。道ではない。横には家があり、明らかに私有地に見える。人に見つかったら「不法侵入」とでも言われそうな経路を、地図は示していた。だが、別の経路を行くには少し戻らなくてはならず、それには再び坂を上がらなくてはならないうえに、大きく迂回をする必要があった。私有地の土手はほんの数メートルだ。信二は人目を気にしながら枯葉の上を何度も滑り、土手を這い上がった。アスファルトの道に戻ったが、気づけば、坂道はかなりの傾斜になっている。道は何度も折れ、先は見えない。背後の景色と引き換えに、目の前には家屋と田んぼがそびえていた。標高が高いだけあって、平地よりも雪が多く残り、田んぼの中はほとんど雪だ。棚田の看板が見え、信二はせっかくだから楽しもうという気持ちに忠実であることを自ら示す必要がある、とでも言うように、近寄って説明を読みかけた。舗装の道を歩くのに飽きた信二は、この田んぼ沿いに上がっていくのもいい、おそらく、歩き続けた疲れが彼の判断を鈍らせたのか、あるいは、逃避させようとしたのか。未舗装の畔を歩き始めた信二は、行く先が雪に埋まっているのを見て、すぐにさっきの枯葉の土手を思い出した。地図ではちゃんとした道に見える。だがこのまま進むのは危険だと判断した信二に、後戻りをする時間はなかった。6キロある全行程のうち、ほぼ平地の4キロを歩き、残りの2キロで150メートルの坂を上る。ビルで言えば50階分の高さだ。それを2キロかけて歩く。加えて信二は3次元の現実に気づいていなかった。2次元の地図に見える駅はすぐそこだが、たどり着くための道は直線ではない。坂道というものは山肌に貼り付くように、何度も折れ曲がっている。見た目の距離の何倍も歩く必要があるのだった。歩いても、歩いても、まったく距離が稼げていない。棚田の散策をしている暇などないことに、ようやく気付いた信二は、慌てて先を急ぎ、舗装の道へと戻った。その時、メールの着信が響いた。
『急げ!もう快速は篠ノ井駅を出たぞ』
 卓也からだった。卓也からどうしてこのメッセージが来たか、ということよりも、電車がもうすぐ来る、という知らせのほうが信二にとっては重要だった。この時点で残り31階分を歩く必要があった。画面の中の時計は11時24分。あと15分しかない。なんてことだ。信二は急いだ。急いで歩いた。走れればどんなにいいだろう。だがここまで5キロ歩いて来た信二にとっては、走るどころか、急ぎ足にすらならない。それでも、信二は急いだ。上着はとっくに脱いだ。額から汗が吹き出す。歩きながら見上げる信二の眼前には、姨捨駅のコンクリート色のプラットフォームと、茶色い陸橋がはっきりとした輪郭で浮かび上がっていた。もうすぐそこだった。なのに歩いても歩いても全然近づけない。段々息が上がってくる。馬鹿みたいじゃないか。電車に乗れないとしたら間抜けにもほどがある。卓也の乗る電車に颯爽と乗り込んで、「ホラ、これ」と言って、GPSを渡すんじゃなかったのか?乗り遅れるのも間抜けだし、自分の目の前で電車が過ぎていくのを見るなんて屈辱にもほどがある。頭の中で激しく思考が回転した。乗り遅れた場合、次の電車まで1時間半。何がなんでも卓也の電車に乗り込む必要があった。ついさっきまで「時間より早く着くかも」などと思っていた自分を呪い、畔から景色を見て茶を飲んでいた自分を呪い、呑気に平地をキョロキョロ歩いていた自分を呪った。今に始まったことではない。いつもこんな風に時間いっぱいいっぱいになるのが信二だった。最初は調子がいい。だから油断する。で、痛い目を見るのだ。自分自身の生き方への甘い姿勢に対する、これは試練なのか?だがいくら自分を呪っても時間は刻々と過ぎる。足は思うように動かない。さっきまであんなに軽快に歩いていたのが、今では両手をだらしなく垂らし、まるで追われるゴリラのように一歩一歩でなければ歩けない。背中のリュックの重みが今になってのしかかってくる。平坦な道は金輪際ない。とにかく、坂を上らなければ電車に乗ることはできないのだ。
何がなんでも電車に乗らなくては。
はあはあという呼吸は次第に声と重なり、日中の閑散とした集落に響く悲壮な叫びとなっていた。
「おーい!しんじー!」
 見上げるとプラットフォームから手を振る人物がいた。卓也だった。
「がんばれー!」
 卓也、なんでお前そこに、信二の驚きの声は、憔悴のあまりただのつぶやきとなって吐く息とともに霧散した。卓也は追い打ちをかけるように叫んだ。
「もうすぐ電車来ちゃうぞ」
 分かってる。もうこの数メートルの直線を登り切ったら…。その時だった。信二の目の前に、再び道でない道が出現したのは。そこは枯葉に覆われた暗く、小さな公園で、道はなかった。舗装の道は大きく迂回している。信二は迷わず枯葉の道に飛び込んだ。道が迂回しているのは勾配が急だからだ。公園を横切る経路は距離は短いが勾配がきつい。信二は枯葉の土手にしがみついてよじ登った。これが最後の難関だ。そう自分に言い聞かせながらも、一層足を滑らせていたのは、遠く線路から電車の音が聞こえてくるような気がしたからだった。焦り、もがきながら土手を上り切った。道路に出て、「姨捨駅」の看板が目に入った時、信二はようやく人並みの地点に立てた心持ちだった。すぐ前に単線の線路と遮断機のない素朴な踏切がある。信二は安堵した。姨捨の駅舎はホームの向こう側だ。残った気力を振り絞って線路を渡った信二の目の前に、今度は急な階段が出現した。顔を上げてよく見れば階段があることは分かる。一方、目の前しか見えていない信二は駅舎があると思い込んでいた。突如現れたトラップに向かって「なんだよ!この階段!」と叫んだ。叫ぶことで腹の底の気力を奮い起こした格好だ。
「信二!もうすぐだ!もうすぐだぞ!」
頭上で卓也が笑いながら絶叫している。ありていに言えば、真っ赤に火照った顔で、ぜいぜいと息を吐き、ヨロヨロ歩く信二の姿は滑稽であった。
「おめー、なんでここにいんだよ!」
卓也に向かって叫んだが、そんな信二の脳裏に「コトトトン、コトトトン…」と、再び電車の音が響いてきた。いや、だめだ。急ぐんだ。もう駅まできているじゃないか。手すりに寄りかかりながら一歩一歩上る信二の中の電車は、次第に近づく様相だった。そして2つ目の踏切が、階段を上り切った信二を待ち受けていた。一つ目の踏切よりもうんと広くて立派だ。信二は線路の稲荷山方向を見た。電車の姿は、ない。スイッチバックのための線路のことを、信二もすっかり忘れていた。
すぐ横のホームを見ると、卓也が手を振っている。
「がんばれー!」
 信二も投げやりに手を振り返す。なんでヤツがここにいるんだ。次の電車に乗っているはずだろ?それで俺がお前を驚かせる予定だったんだぞ。息を切らしながら踏切を渡り終え、無人の駅舎に入ると、信二は乗車チケットをむしり取り、ホームへ向かう茶色い陸橋を渡った。下りで足がもつれそうになったが、これこそが、正真正銘、最後の上り下りだった。
「すごいな!お前、歩いて来たの?」
 やけに嬉しそうに迎えた卓也を前に、信二は柵に手をかけ、乱れる息を整えた。
「なんで…」
「え?」
「なんでここにいんだよ」
「いやぁ、時間余ったんで、早い電車に乗っちゃったんだよね」
「お前…」
 信二は突然卓也の肩に掴みかかった。だがまるで力がない。卓也は笑い転げている。
「ちゃんと俺が言った電車に乗れよ!」
 喚きながら信二も笑った。
「いや、だって、何気なくスマホみたら俺のGPSがなんか動いてっから」
「え?」
 信二は腰に巻き付けた上着からGPSを取り出したのと同時に、卓也がスマホの画面を信二に見せた。
「ほら、ここに連動させてあったんだよ」
 それまで歩いて来たルートが克明に卓也のスマホに記録されている。
「なんだよそれ…」
 卓也の胸にGPSを押し付けると信二は脱力した。ホームは、景色がよく見えるよう一部がテラスのように張り出し、善光寺平の景色が広がっている。
「いい景色だなー、おい」
 卓也が気持ちよさそうに言った時、遠くから電車の音が響いてきた。それは信二が頭の中で想像していた音とは少し違っていた。電車は駅を通り過ぎると今度はバックでホームに入った。「開」と書かれたボタンを押し、二人は電車に乗り込んだ。停車時間が少しあると、アナウンスがあった。何人かがホームに出て写真を撮り始めた。

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