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血がつながっていなくても

私には、おばあちゃんが3人いる。

母方と父方の他に、もうひとり。
両親が若い頃、大変お世話になった人で、小さいころはその人がおばあちゃんだと信じ込んでいた。それくらい、祖母よりも帰省のたびに会っていた。

祖母に関しては、こちらのnoteに詳しく書いたけれど

いまだに、祖母という感覚をもてずにいる。父方の祖母が、いわゆるおばあちゃん的な役割や振る舞いをすべて担ってくれたせいもあるかな。

母には言えないけれど、誰かのうちのおばあちゃんという感覚、いや、患者さんに見えてしまう。

祖母は、若い頃からお店を経営していた人で、ほとんど家に居なかった。それに自由で多趣味な人だったから、娘や孫に会うよりも大好きな趣味にお金と時間を使っていた。

いわゆる、おばあちゃんらしい振る舞いをしてくれたことが一度もない。


だから、もうひとりのおばあちゃんのほうが、私にとっておばあちゃんだった。毎年、母から会いたいと連絡して3人で会っている。

一緒に旅行もしたし、家にも泊まらせてもらったし、小さい頃は毎年お年玉だってもらっていた。小さい頃から今に至るまで、一緒に撮った写真もたくさんある。

彼女とは買い物へ行き、欲しいものを全部買ってあげて、最後においしいご飯を食べるというのが近年の定番コースになっている。まるで親孝行のような時間。

彼女の旦那さんは、大阪にある有名料亭の板前だった。彼女もめちゃくちゃ料理が上手で、舌が肥えている。煮付けと煮物が、本当に美味。

だから、毎回連れて行くお店に頭を抱えるのだけれど、気に入ってくれてよかった。


一方で、祖母のお見舞いは本当に顔を見せるだけ。

母も、祖母のお見舞いのことをミッションと呼んでいるけれど、会いたくて会いにいくというよりかは、会わなければならないから会いに行っているという感覚。

言い方が冷たいかもしれないけれど、タスクのひとつなのだ。

だから、私にとっても母にとっても血縁者である祖母よりも、もうひとりのおばあちゃんのほうが家族に近い。


食事をするときだって

私たちは、家族じゃないんです

と、毎回言う。端からみると、祖母、母、娘に見えてしまうけれど、実際はそうじゃないから。

今回も、私が彼女をおばあちゃんと呼ばないことに店員さんが疑問を持っているような表情をしており、母とは親子だけれど、彼女とは他人なんですと私から説明した。

私たち3人の関係性を他者へ説明するとき、ものすごくカロリーを必要とすることが悲しい。

もうひとりのおばあちゃんにだって、お孫さんも含めた血の繋がった家族がいる。

なのに、彼らよりも私たちと会う機会のほうが多いそう。


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血縁ゆえに家族関係がうまくいかないことは多々ある。看護の仕事でも、そういう家族をたくさん見てきた。

反対に、大家さんや近所の人のほうが、他人であるというボーダーがあるためにお互いに配慮のある関係性を築けるのかもしれない、と思う。

いくら家族であっても、心理的・社会的なパーソナルスペースは個人やその関係性によるもの。

家族や血縁ってなんだろう。
家族になるってどこがボーダー?
本当の家族とは?

結婚や終身雇用の概念が変わるということは、おのずと家族のあり方も変わる。


いつか、もうひとりのおばあちゃんを
おばあちゃんと言える日がきたらいいのに。
それをなんとも思わない世の中になったらいいのに。

なんてことを考えた帰省だった。

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