190711_平治の乱NOTE

平治の乱 後白河上皇首謀説

平治の乱は12月9日の反信西クーデターと12月25日の源義朝軍の六波羅攻撃という二つの事件から成り立っています。かつて平治の乱の原因は源平の対立とされていましたが、二条天皇親政派と後白河上皇院政派の対立という見方に変わっています。

では、二条派・後白河派のどちらが仕掛けたのか。12月9日、後白河上皇が二条派の信西の打倒に成功。しかし、二条派の巻き返しによって後白河が離脱、12月25日、追い込まれた藤原信頼・源義朝が平家軍と戦って壊滅しました。学説としては少数派の後白河首謀説をもとに平治の乱を見ていきます。

研究者と学ぶ日本史は120分版です。以下は、抜粋した短縮版です。

大学講師と高校教師のコラボ日本史

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?