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ハイレベル日本史 歴史学科の世界

講師は京都の大学で日本史を教えている研究者(専門は鎌倉・室町)。司会は京都の大学で史学科を卒業し高校で教えていた社会科教師。ここに、日本史の研究者や歴史マニアが加わるオンライン講座「研究者と学ぶ日本史」。

毎週木曜日の夜の講座の録画から抜粋して15分程度にまとめました。高校の日本史や受験の日本史とは異次元の世界だから超ハイレベル日本史。受験のハイレベルまでは暗記ですが、超ハイレベルになると史料にもとづいて史実に迫ります。

東日流外三郡誌 つがるそとさんぐんし

1970年代、東北日本の知られざる歴史を記した江戸時代の書が発見されます。つがるそとさんぐんし。この書に書いてあることは歴史的事実なのか、この書そのものが偽りの書なのか、専門家の意見が二つに分かれました。それから半世紀、東日流外三郡誌の評価はどうなっているのでしょうか。

藤原道長

一家三后が実現した夜、藤原道長は「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」と詠んだ。ところが、道長は御堂関白記にこの和歌を書き記していない。この和歌を伝えるのは、道長に批判的であった藤原実資が書いた小右記。道長が書き残さなかった理由を考えます。

源義家

源義家は摂関政治から院政への転換期を生きた河内源氏の棟梁。陸奥守として東北に赴任し後三年の役に介入します。義家は源氏を代表する武将で新興武士層の象徴とみなされてきました。しかし、その一方、官位は陸奥守にとどまり、父頼義の伊予守に及ばなかったことを考察します。

白河上皇

堀河天皇に譲位したとき、白河上皇は堀河・師通による摂関政治への復帰を思い描いたかも知れません。しかし、師通、堀河の相次ぐ死去によって、予想もしなかった院政が始まります。持統上皇と白河院の権力の源泉の違いなどを含めて院政の仕組みを学びます。

平治の乱

保元の乱の続編のように見られがちな平治の乱。旧説は源平の争いでしたが、今は、二条親政派と後白河院政派の争いと見られています。院政派の藤原信頼と親政派の藤原経宗が連携して信西を倒そうとしたことから始まった平治の乱、最終的な勝者は誰か、最も打撃を受けたのは誰か、を考えます。

後白河法皇と源頼朝

以仁王の挙兵の結果、伊豆の知行国主が平時忠に代わります。平氏が令旨を受けた源氏の追討を企てたため、頼朝と伊豆の武士は挙兵せざるを得なくなります。勢力を拡大したとき、頼朝が目指したのは平家滅亡や幕府設立だったのか、を考察しながら、後白河法皇と頼朝の動きを学びます。

後鳥羽天皇と源頼朝

後鳥羽天皇から征夷大将軍に任命された源頼朝は、大姫・乙姫を入内させようとします。こうした源頼朝の行動にはどのような意味があったのでしょうか。「研究者に学ぶ日本史」からの抜粋です。

源実朝と皇族将軍

源頼家の追放により鎌倉幕府は混乱に陥りましたが、源実朝は権威の回復に成功します。実朝は京都から皇族将軍を迎えようと考え、後鳥羽上皇はこの構想を歓迎しました。しかし、実朝暗殺という想定外の事態が起こります。

応仁の乱

応仁の乱の原因が日野富子ではないことは明らかになりました。応仁の乱の発端は何だったのか。1466年9月、細川勝元と山名宗全は連携して将軍側近伊勢貞親を追放し、幕府の主導権を握ります。1467年1月、山名宗全は畠山義就と手を組み、御霊合戦で畠山政長を破りました。細川勝元が対抗して軍勢を集結、応仁の乱が始まります。応仁の乱に至る数か月の動きから室町幕府の体制を考えます。

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