応仁の乱_研究者と学ぶ日本史講座

応仁の乱の動画(高校レベル&文学部レベル)

応仁の乱をテーマにした日本史オンライン講座を録画して、Youtube に公開しています。「大人のための高校日本史・応仁の乱」は一般的な知識を得たい人向け、「研究者に学ぶ日本史・応仁の乱」は文学部レベルの知識を得たい人向けに作っています。

高校日本史 応仁の乱

応仁の乱では、細川勝元の東幕府と山名宗全の西幕府が争った。斯波家・畠山家の家督争い、播磨守護職をめぐる赤松氏と山名氏の対立がからんで乱は長期化する。乱の結果、守護在京制が崩れ室町幕府は衰退に向かう。

研究者と学ぶ日本史 応仁の乱

応仁の乱の原因は何か。現在では日野富子が悪い、という見解だけは消えつつあります。
日野富子は自分の生んだ義尚を後継者にしたくて山名宗全と組んで細川勝元に対抗した。それが応仁の乱の原因だと言われます。
しかし、宗全は富子とは結んでいません。ではなぜ宗全と富子が結び付けられてしまったのでしょうか。私はそれを誤って結びつけてしまった人物がいると考えています。その人物の誤りが現在まで引き継がれていると思います。ではその間違いとはなんだったのでしょうか。

以下の動画は「研究者と学ぶ日本史」の一部を抜粋したものです。

応仁の乱の前年9月、細川勝元と山名宗全は連携して将軍側近伊勢貞親を追放し、幕府の主導権を握りました。1467年1月、山名宗全は畠山義就と手を組み、御霊合戦で畠山政長を破ります。細川勝元が対抗して軍勢を集結、応仁の乱が始まります。応仁の乱に至る数か月の動きから室町幕府の体制を考えます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?