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皇室領矢野荘

十年ほど前、相生の町のアイデンティティは何だろう?と尋ねられた。「播磨造船所と矢野(やのの)荘(しょう)かな」と答えると「矢野荘について話してくださいよ」とリクエスト。それが、私と矢野荘の出会いである。

私は高校で世界史を担当しているので荘園には詳しくない。そこで、相生市史を読み、市内を歩いてみることにした。相生市は矢野荘と同じ領域にあり、若狭野の大避(おおさけ)神社や那波の大島城など荘園の歴史を物語る史蹟が点在している。荘園の研究者が「宝石箱」と賞賛するのもうなずける。

矢野荘の成立を振り返ってみよう。十一世紀、普(ふ)光(こ)沢(さ)川(がわ)流域が開発されて藤原顕季の所領となり、孫の美福門院に受け継がれる。彼女は鳥羽上皇の皇后になると、一一三七年、自分の所領を正式の荘園にする手続きをとって皇室領矢野荘を成立させた。

ここで、一つ疑問が湧く。相生北部の矢野川流域には優良な田畑があり、古代から公有地となっていた。この土地はいつの間に矢野荘の一部になったのか。

今年になって、やっとその謎が解けた。美福門院は鳥羽上皇の皇后という立場にものを云わせて、矢野川流域の公有地を自分の荘園に取り込んだのである。こうした荘園を領域型荘園といい、まだ高校の教科書には登場していない新しい用語らしい。

鎌倉時代室町時代を通じて、矢野荘では領主・悪党・地頭・農民らが生活をかけた争いを繰り広げる。こうした記録は東寺に大切に保管されてきた。相生は歴史に恵まれた町なのである。

東寺百合文書の世界記憶遺産指定を契機に、故郷の歴史の再評価が進むと良いなと思う。

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