女子に進学を薦めた村長

江戸時代初期、西播磨に赤穂藩・龍野藩・山崎藩・平福藩が設置される。四つの藩は変遷を重ね、戦後の赤穂市・龍野市・山崎町・佐用町になった。一方、江戸時代の相生(あいおい)は赤穂藩の辺境に過ぎず、相生市は藩を母体としない珍しい自治体なのである。

相生が近代都市に成長したのは、唐端(からはた)清太郎の努力に尽きるといってもよい。一八八九年、町村制の施行とともに相生(おお)村が発足したが、村政は混乱を極めた。村の有力者は、赤穂郡の書記であった唐端清太郎を村長に招聘(しょうへい)する。時に三十歳、唐端は二十年余りにわたって村長を務めながら、県会議長に就任するなど阪神政財界で活躍し、村役場には不在がちであった。

一九〇七年、地域の未来を託して播磨船渠(せんきょ)を設立、一九一六年、鈴木商店の資本導入に成功、この間に町制を施行した。唐端は村長になる前の一八八八年、『町村制度未来(あした)の夢』を上梓(じょうし)している。「経費は余計要(い)るとも効能の比較的に多い事を企画(やら)ねばなりません」という一節は、積極的な村政を連想させる。

この本に、家出してでも大阪の梅花女学校に進学しようという十六歳の女性二人が登場する。当時、県内の女学校は神戸女学院しかなかった。『あさが来た』のモデル広岡浅子が日本女子大設立に奔走するのは十年も後のことである。

唐端のペンネームである雨香(うこう)散史(さんし)は二人にこう語る。「貴嬢(あなた)方が学問なさるに就いても・・独立の思想を養成(やしな)い・・婦女の品格を昇(たか)めて真正(ほんとう)に女権(じょけん)の拡張を計りなさるが肝要です」。

唐端の斬新な発想がわかるとともに、この青年を招いて村政を委ねた有力者の見識がうかがえる。

2016.04

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