パラソル天動説

彼は怒っていた。それはとても大変物凄く。
「だから、ごめんって!」
「絶対許さん」
彼が怒っている理由は、目の前で土下座している人物である。喧嘩ばかりしている二人であるがこれでも彼らは恋人同士なのである。
ことの発端は彼女の物忘れにあった。普段から教室、自宅、コンビニ、駅……ありとあらゆる所に物を置き忘れる。ボールペン、眼鏡、帽子、読みかけの本、本当に何でも忘れていくのだから困ったものだ。その都度、注意をするのだが当の本人は全く反省の色を見せず忘れものを繰り返していたのであった。
そして昨日、彼女は大切なものを駅に忘れてきてしまったのである。

「大事にすると言ったのはどの口だ」
「……反省してます」

彼女が昨日忘れてきたというのは、日傘だった。
「最近日傘女子がきている。私は今日から日傘女子になる」と訳の分からない主張を始めた所から始まった。
「日傘何かいらないだろ」「いや、いる」と散々やり合った末に、結局折れたが彼が誕生日にプレゼントしたのが件の日傘なのだ。黒地に、ワンポイトに白抜きでたぬきの絵が入ったシンプルな傘で雨の日でも使えるものだった。
実は彼がこの傘を選ぶのに一日がかりで五軒の店舗をはしごしたのだが、それはまた別の話である。勿論、渡す際にそんな苦労を見せる彼ではないのであくまで偶然見つけた、ということにしていたが。
そんなわけだから、プレゼントを渡した際とても嬉しそうに「ありがとう、絶対大事にするね」と言った彼女の顔をとても鮮明に覚えていた。そしてそれと同じ口で「ごめん、。貰った傘駅に置き忘れた」と言われた彼の気持ちをお分かり頂けるだろうか。今までのことから彼女の物忘れは分かっていたことであったがまさか贈り物をしてからたった一日で駅に置き去りにされるとは誰も思わないだろう。探したのかと問えば、駅員にも聞いたし思い当たる場所も探してみたが見つからないのだという。
いつものように彼女の柔らかい頬でもつねりながら何してんだと軽口でも叩ければ良かった。どうやら彼にとって思った以上に彼女が傘を紛失した事実がショックだったらしい。
「二度とお前にプレゼントなんかやらんっ!」
思わず口をついてでた言葉に彼女がびくりと体を揺らしたが、何より言った本人がこんなことを言った自分に驚いていた。
そして冒頭に戻るわけである。
乱雑に物が置かれた部屋の中に奇妙な静寂が落ちる。大学に入り、一人暮らしを始めた彼女の部屋はとんだガラクタ部屋だった。時々部屋を訪れる友人はため息をつき、部屋を片付けるのを手伝ってくれるのだが元々ズボラな所のある彼女はすぐ散らかしてしまうのだった。
コチコチと時計の針が時を刻む音が耳にこびりつく。まるでこの部屋だけ世界から切り離されたような不思議な感覚だった。ふと鉢屋が机の上に視線を向けると無造作の置かれた眼鏡が最初に見た時より僅かに動いている。そういえばコップはこんな位置においてあっただろうか・・・・・・。
ぼけっと呑気なことを考えているとずっしりと背中に負荷がかかる。
「それはそれとして」
「あ?」
重さの正体は彼女だった。ぐいぐいと体重をかけて体を押し付けてくる為、重いし苦しい。彼女の体を押しのけると先程までとはうって変わって満面な笑みを浮かべた顔と向き合うことになった。
「私、凄いことに気がついた!」
あまりにも嬉しそうにそう告げる彼女に、彼はこれまでの喧嘩は何だったんだと頭の片隅で思ったがとりあえず気づかないふりをする。何も言ってこない彼に気を良くしたのかガシリと肩を掴みじりじり距離を詰める彼女。
「例えばの話をしようか。仮に貴方が私にくれた傘が、実はこの場から動いていなかったとする」
「なんの話だ」
「まぁ、聞いてよ!実は動いていたのは傘ではなく、周りのほうだった。私たちを含む周りの物体が傘を中心に回っているとしたらどうだろう?」
はて、彼女はこんな電波な人だっただろうか。くらくらする頭の中で彼は思う。
「そう考えるとすべてが驚くほど単純になるわけだ」
「ごめん。全く訳が分からんぞ」
いつの間に押し倒されていたのか、気づくと部屋の天井と尚もニコニコと自論を展開している彼女の顔が写っている。
何故だろう、その後ろで適当な場所で開かれたままになっている本がふわふわと浮いているのが見える。
「んー、まぁ・・・・・・詳しい説明は省略しちゃうけど要するに――」
ふわふわ、ふわふわ。訳の分からない彼女の話を聞きながら今度は枕がゆっくりと回りだした。
「私の愛はとてつもなく深いということである!」
「ぐぇっ」
上から伸し掛かるように抱きついてきた彼女に彼はカエルが潰れたような声を出した。そして、気がついた。
――傘だ。
昨日、彼女の為にプレゼントしたあの日傘が開かれた形でふわふわと宙を漂っている。思わず手を伸ばすと傘は一定の距離を保ちつつ彼らから離れていった。気がつくと部屋にある全てのものがごちゃごちゃと漂っている。
もはや考えることを放棄していた彼はゆっくりと瞬きをすると首にしがみついている彼女に視線を落とす。
「おい」
「なに」
「落ちないように掴まってろよ」
はぁ?とか、え?とか、意味をなさない言葉を繰り返しながらも彼女はしっかりと腕に力を込める。彼もしっかりと彼女の腰のあたりを抱え直した。こうして宇宙の緯度から外れた彼らは天空へ向け落ちていく。
どうやら世界は彼らを中心に回りだしたらしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?