グスタフ・クリムの帰郷 その3

 3

 再びコルドバ・ラガンの館が見えてくる頃には夜もとっぷりと更けていた。雨は幸いにも止んでいた。狼が人里に現れたら大騒ぎになるかと思ったが、出歩く人影とすれ違うことはなかった。
「ここまで来れば大丈夫。一人で戻るから」
「本当に大丈夫か?」
「むしろ一緒に行くと余計に話がややこしくなるでしょう!?」
 ハリエッタはここまでの案内についてぞんざいに礼の言葉を告げると、そのまま一人で館に向かっていった。
 とにかく彼が何者なのかというようなややこしい問題を差し置いて、父や妹に会いに行く事に集中したかった。ちらりと振り返ると、人狼は去るでも付いてくるでもなく、立ち止まってじっとハリエッタの方を見ているのが分かった。
 ともあれ、目の前のコルドバ邸に向き直る。
 番兵のいる正門から挨拶して入っていけば、門番はハリエッタをすんなりと通してくれただろうか。それを試してみて無用な押し問答に至ることは避けたくもあったので、彼女は裏手の石垣をよじ登ってこっそりと屋敷に忍び込むことにした。
 そもそもヴェルナー砦が平地にあってあれだけ堅牢な城砦として築かれていたのは、遠い過去にはそこが国境の守りの要衝であったからと聞く。それに比べれば、クレムルフトの荘園はあくまで開拓民が切り開いた村であり、コルドバ邸のつくりもそういう意味では邸宅に過ぎなかった。
 ともあれ……そこにこっそり忍び込むなど、これが正騎士を志望していた者のすることか、と少し情けない気持ちになったりもするが、今は父と妹の身が気がかりだった。バルコニーの柵を乗り越え、暗い廊下を忍び足で歩いていく。間取りを思い出しながらどうにかして父と妹が通された一室にたどり着いた。
「お父様? エヴァンジェリン?」
 居室にたどり着くと、父は幾分体調が戻ってきたのか、ソファに身を預けるようにしてぐったりと腰かけていた。エヴァンジェリンがその傍に付き従っていた。
 だが妹は驚く素振りも見せず、ただただ深くため息をついたのだった。
「姉さま、結局戻ってきてしまったのね」
 なぜ妹が呆れ顔なのか、と疑問に思う間もなく、今しがた彼女が入ってきたドアがいきなりけたたましく開かれて、鎧姿の男たちが殺到してきた。
 その中に、ガレオン・ラガンの姿があった。
 そのあとに続いて心配そうな表情のコルドバ・ラガンが後に付き従ってきたが、彼には一言もしゃべらせるつもりもない、といった様子で息子のガレオンが横柄に口を開いた。
「クリム家の名をかたる詐欺師どもめ!」
 放たれた一声に、そうきたか、とハリエッタは半ば呆れつつも感心した。確かに、領主が自分の領地に文無しで転がり込んでくるなど聞いたことがない。最初にそう決めつけてかかってしまえば、いやそんなはずは、とそれを覆すにもいろいろ弁明の材料が必要だった。
 一番泡を食ったのはガレオンの父コルドバで、息子がそのようなことを言い出すなどと事前に何一つ相談を受けていなかったのか、ぎょっとした表情を見せたのだった。
「む、息子よ、いったい何を根拠にそのようなことを……」
「むしろ父上、何を持ってこの者たちをクリム家の皆様方とみなせばよいのか、その根拠を私や騎士団の者たちに示していただきたい」
「この方はグスタフ・クリム伯に間違いない! 実際にわしは以前この方にお会いしたことがあるのだから、間違いない!」
「それは一体何年前の話ですか。多少風体の似ているものなどどこにいてもおかしくはない」
 息子のその言葉に、コルドバは顔を真赤にしてわなわなと震えだした。そのコルドバか、グスタフ・クリム当人が、無礼者め!と叱責の言葉の一つでも吐いていればその場の状況は変わっていたかも知れないが、むしろ父グスタフはがくりと肩を落とし、力なく呟いた。
「無理もない。私が本物のグスタフか否かに関わらず、文無しになって転がり込んできた厄介者であることには間違いがない。領主の務めも果たしておらぬ、という意味では紛い物呼ばわりされたところで何の反論も出来ぬな……」
「お父様! そこはちゃんと反論してもいいのよ?」
 娘二人がほとんど声をそろえてそのように反論したところで、病める父は力なくため息をつくばかりであった。
 そんな一家を前に、ガレオンは冷徹な表情を崩すことなく、配下の兵士達にクリム一家の面々の身柄を取り抑えるように命じた。
 そんな折だった。おのが息子の予期せぬ告発に憤慨するやら狼狽するやら気が気でいられないコルドバ・ラガンが、窓を見やって唐突に大声をあげたのだった。
「ひっ! お、狼!?」
 その言葉通り、開け放たれた窓から、見れば実に無造作に、一匹の狼が身を乗り入れてのそりとこちら側に足を踏み入れてきたのだった。
 ガレオンとその配下の騎士達には、それは見覚えのある狼だった。山中にてハリエッタ・クリムを連れ去って姿を消した。あの巨躯の狼だったのだ。
「ちょっと、どうして入ってきたりしたのよ……?」
 ハリエッタが問うたが、狼……人狼は彼女でもガレオンでもなく、何故か妹のエヴァンジェリンの姿をじっと無言のまま捉えていた。
 エヴァンジェリンもエヴァンジェリンで肝が座っているというべきか、大きな狼にじっと見つめられても、恐れるでも怯えるでもなく、視線をまっすぐに受け止めて不思議そうな表情のままじっと狼を見つめ返していたのだった。
 何を思っているのか両者がしばしじっとお互いを見入っているのを、周囲は固唾を飲んで見守っていた。その行為にどんな曰くがあるものかと、誰もが成り行きをじっと見守っていたのだった。
 だがハリエッタは、何もせずにぼんやりしている時ではない、と意を決した。
 次の瞬間、彼女は腰の剣を抜き放ったかと思うと、コルドバ・ラガンの腕をつかんで力任せに手繰り寄せ、喉元に刃を突き付けたのだった。
「動かないで!」
 果たしてそれが懸命な判断だったかどうか――。
 コルドバにしてみれば息子による告発自体が晴天の霹靂、クリム家の人々の潔白を疑ってもいなかったから、彼らが荒事に巻き込まれるのを諌めなければ、という思いこそあれどまさか自分が切っ先を向けられるとは思ってもいなかった。
 ハリエッタは声が震えるのをどうにか抑えて、あくまでも毅然とした態度を装った。
「詐欺師呼ばわりも結構。私の方こそあなた達ラガン家の人々には大変失望しました。こんな屋敷に滞在するなど、頼まれずともこっちから丁重にお断りいたします」
 ハリエッタはそういうと、コルドバ・ラガンの襟首を乱暴に引きよせ、これ見よがしに刃を押し当てた。
 小声で、コルドバに告げる。
「私たちがここを無事出られるまでの辛抱です。悪いようにはしないから、しばしこの三文芝居に協力していただきたい」
 そしてガレオン達に向かっては、精一杯に虚勢をはるのだった。
「さあ、私たちを馬車まで案内しなさい。でないとこの人がどうなるか分かったものではないわよ!?」
 ハリエッタは決して自分を冷静に見せることには成功しているとは言い難かったかも知れないが、結果的にはどう出るか分からない危うい状況だとガレオンに思わせることには成功していたようだった。ガレオンは苦虫を噛み潰したような表情で、ハリエッタ達が部屋から出て行くのを黙認するしかなかった。
 まずは人狼が先導するように先に廊下に出て、娘に促されたグスタフがおぼつかない足取りで部屋を出て行く。エヴァンジェリンは冷静なもので、ずらり包囲を固める兵士たちが見守るまさに目の前で、荷解きした身の回りの品を鞄にてきぱきと詰め直すと、何食わぬ顔で父のあとに続く。
 二人が廊下に出たのを確認すると、ハリエッタはコルドバを脅したまま、じりじりと後ずさって部屋をあとにした。
 もちろん、ガレオンも配下の兵も、一定の距離を保ったまま、警戒を崩さぬままにハリエッタ達を追う。人狼が一家の行く手を先回りして塞ぐ兵が現れるのを警戒して、一同の前方に立って先導する。グスタフは狼にはさすがに気安く近寄れなかったが、エヴァンジェリンはなぜか慣れた風に……まるで元から付き従えている手飼いの猟犬か何かと連れ立っているかのようにやけに堂々とした足取りで後に続いた。
 屋敷の外までたどりつくと、コルドバを盾にしたハリエッタに促されて、屋敷の使用人たちが馬車に馬をつなぐ。体調を崩しているのもあったとはいえ思わぬ荒事に動転したままのグスタフは終始蒼白な表情で、対するエヴァンジェリンはけろっとした表情のまま、落ち着いた足取りで馬車に乗り込む。
 コルドバを解放し、ハリエッタは自分が御者台に乗って自ら馬を走らせた。乱暴に駆けていく馬車は正門を潜って、夜闇の中を走っていく。
 ガレオンらもそれを黙って見送るわけにも行かなかったが、狼が彼らの前に立ちはだかって、馬車の影が彼方に消え行くまで、じっと人間たちと向き合っていたのだった。その狼が頃合いを見計らって踵を返して一目散にかけていくと、ガレオンは慌てて追撃の号令をかけたのだった。
 そのガレオンに、憤怒の表情のコルドバが詰め寄る。
「息子よ、そなた自分が何をしでかしたか、わかっておるのだろうな!?」
「無論です、父上。私なりに考えがあっての事です」
 お任せ下さい、と大見得をきるガレオンだったが、父の怒りは解けなかった。ガレオンもまた、それを気にした風でもなく、整然と配下の者を従えて、馬車の後を追っていくのだった。

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