グスタフ・クリムの帰郷 その1

 1

 ハリエッタ・クリムにとって、それはまさに失意の旅路であった。
 まだ見ぬ新天地へ向かう旅であり、彼女にとっては途上の旅のさまざまな事柄が、初めて見聞きするものばかりであったはずだが、だからと言ってそれが必ずしも慰めとなるわけではなかった。
 そんな鬱蒼とした思いをまるで代弁するかのように彼方の空には重い雲が垂れ込めていた。雲行き次第ではそのうち雨になるやも知れず、それがまた、彼女の心を鬱々とさせるのだった。
 馬上にまたがったままそうやってぼんやりしていると、まるで彼女を促すかのように、馬がぶるりと身を震わせる。
「ごめんね、ミューゼル。先を急ぎましょう」
 むずかる愛馬をなだめつつ、彼女は街道の続く先へと視線をやった。同行している馬車からいつの間にか幾分距離が開いてしまったのに気づいて、彼女は慌てて馬を走らせる。
 先を行くのは中古で買い求めた、二頭立ての古びた馬車だった。御者台に座るのは父グスタフで、あとは姉のリリーベルと妹のエヴェンジェリンが乗り込んでいた。一人馬上にあるハリエッタも含めて家族四人の長旅であった。
 一人だけ騎馬での随伴であり、その上で旅装姿の腰に剣など下げていては、いつまでも未練がましいと妹にからかわれても仕方のないところではあった。
 女だてらに騎士になりたいと言えば、大抵の人には笑われた。笑わないまでも、物珍しい目で見られることも少なくはなかった。
 だが実際のところ、正騎士団の入団試験の要綱には性別に関する規定など一行だって記述がありはしないのだった。
 事実、女性の騎士団員も何名かはいて、要人警護などの任に当たっているのをハリエッタも見かけた事がある。……その事実を知らなければそもそも自分も騎士になれるかも、などという憧れを抱いたりはしなかった。
 そしてハリエッタはただ漫然と憧れを語るばかりではなかった。何はなくとも剣と馬の実技が伴わなければ入団試験に合格することは難しい。父に頼み込んで剣の先生のところに通わせてもらっていたし、やはり父にねだって乗馬を修練するために買い求めた馬が、今またがっているミューゼルであった。クリム家のような貧乏貴族にしてみれば必ずしも娘にそれを許す経済的余裕があったわけではないことも承知してはいたが、だからこそハリエッタは日々の修練を怠らなかった。
 昨年初めて受けた入団試験には合格することはかなわなかったが、男子の志望者であっても一度で合格するものは多くはなかったし、ハリエッタとしては充分な手ごたえを感じ、今年こそはと再試験に意欲を燃やしていた。
 そんな矢先の事だった。父グスタフがある日突然このようなことを言い出したせいで、状況は一変してしまった。
「わしらはこの屋敷を、立ち退かなくてはならなくなってしまった」
 すまぬ、と言って父は三人の娘たちに、深々と頭を下げた。
 大事な話がある、とあらたまった前置きをされた上に、切り出された話がそのような内容であったから、三者三様に面食らったまま二の句が継げなかった。
 ……いや、実際に間抜けのように口をぽかんと開けたのは次女のハリエッタだけで、あとの二人は態度だけを見れば実に冷静そのものだった。
 長女のリリーベルは器量良しのしっかり者、亡き母に代わって父とともにクリム家を支えてきたのであるから、その財政事情からこのような成り行きになりうることも重々覚悟の上だったのかも知れない。三女のエヴァンジェリンに至っては彼女が生まれた頃には一家はすでに今の小さな家屋敷に移ったあとで、それ以前の暮らし向きなど知る由もなかったから、貧乏貴族の末路としてはいかにもありそうなことだ、とばかりに涼しげな表情をまったく崩しもしなかった。そのように悠然と構えていられるのがハリエッタには不思議だったし、羨ましくもあった。
 話の経緯はこうだった。
 クリム家は由緒ある名門貴族ではあったが、そのような栄光は遠い過去の話だった。本当に深刻な貧困に直面していたわけでは無いが、一般の庶民とさして違いのないその暮らしぶりは、残念ながら貧乏貴族、没落貴族と言われても仕方のないところだった。
 次男であった父グスタフ・クリムが長兄の病没により予定外に家督を相続してまず直面したのは、まさに火の車というべき惨憺たる財政の実態であった。もはや家名の由緒正しさなどにずるずるとこだわるような状況ではない、と彼はまず大ナタを振るうべく、生まれ育った生家を手放すことにした。大きな家屋敷や広大な庭園だの、何人も使用人を雇わないと手入れしていくことすらままならない。にも拘わらず彼らに支払う給金にすら事欠くありさまだったのだ。
 古くからの使用人たちも、未払いの給金を受け取ったあとはさしたる未練も忠義も見せず、躊躇なくクリム家を去っていった。さらに残された莫大な負債を返済するために、所有する土地などの不動産もいくつも手放すこととなり、どうにか手元に残ったのは自分と妻と娘達がひととおり暮らしていけるだけの古い小さな邸宅ぐらいで、一家はそこに移り住むこととなった。
 そのほかに残ったいくつかの不動産については、土地を人に貸したり、あるいはそれらを担保に金を借りて何かしらの事業に投資してみたり、といったことで多少なりとも利益が出ればと試行錯誤してみたものの、残念ながらグスタフはそういった商才には恵まれてはいなかった。知人のつてで紹介を受けたとある事業に多数の出資人の一人として連座していたところ、逆に多額の負債を何故か一人で抱えることになってしまい、その返済のために今現在一家が住む邸宅までもを手放すことになってしまった……というのが、唐突に突き付けられた立ち退き話の成り行きであった。
 唖然とするハリエッタと、話半分に聞き流すばかりのエヴァンジェリンに代わって、長女のリリーベルが父に問うた。
「ではお父様、私たちはこれからどうすればいいのです? どこかの邸宅に、使用人として奉公にでも出ればよいのかしら?」
「いや、いくら何でもお前たちにそのようなことをさせるわけにはいかぬ」
「では、どのようになさると?」
「王都を出ようと思う。クリム家の父祖の地である、クレムルフトにわれら一家で引っ越しをするのだ」
「クレムルフト」
 リリーベルがさも困ったといった口調でおうむ返しにその名をつぶやいて、三人姉妹は思い思いにお互いの顔を見合わせた。
 クリム家は過去には王宮の要職に就いていた歴史もあり、王都に居を構えてずいぶんにはなったが、そもそも元をただせば王国の西のずっと外れにある、クレムルフトという小さな荘園を所有する一介の地方領主であった。
 その領地を離れ、王都に暮らすようになって以来、領地は代々土地のものに管理を任せたままになっており、毎年収支連絡やら現況報告といった書面がグスタフの元に届けられていることは娘たちも知っていた。
 とはいえ、彼女らが実際にそこへ行った事などはもちろん無かった。
「お父様は、そのクレムルフトには行ったことがあるんでしたよね?」
「うむ。かつてクリム家の家督を継いだばかりの折に、一度は挨拶に赴かねば、と足を運んだことがある」
 静かでよい所であった、と父はしみじみとつぶやいたが、そこが王国の最果てである、ということくらいはハリエッタも知識としては知っていた。いきなりそんな土地に引っ越すといわれても、心が浮き立つよりも先々についての不安が内心を占めていくばかりであった。
 だがほかにどのような選択肢があるわけでもなし、父の提案に姉妹の方からこれといった反対も代案も出てくる事はなかった。とくにハリエッタとしては黙ってこのまま王都を去るのは可能な限り避けたくはあったが、正騎士の試験に受かったあとならまだしも、彼女の夢は無料で叶えられるものではない。姉は奉公に出るといったが、今だって針子の内職で家計を助けていたくらいだったのだ。わがままを言って王都に残るというのであれば、正騎士になるより先にハリエッタ一人で生計を立てていく必要がある。結局のところ、父の言うことに従うよりほかに彼女には選択肢がなかった。
 話が決まれば後は早かった。一家は早々に家屋敷を引き払い、差し押さえを免れたわずかな身のまわりの品々を荷物にまとめ、新たに買い求めた二頭立ての中古の馬車で、そそくさと王都を後にすることになったのであった。
 言ってみれば都落ちである。ハリエッタだけではない、クリム家の誰にとっても愉快な旅ではなかっただろう。
 けれどやはり、騎士になる夢破れたハリエッタの落胆は決して小さくはなかった。剣の稽古にいつも使っていた古びた小振りの剣を腰に下げ、債権者との交渉の末にどうにか差し押さえを免れた愛馬ミューゼルに一人またがって、さびれた街道筋を進んでいく一家の馬車から、少し離れたところをとぼとぼと付いていくのだった。
 やがてスレスチナから西回りの街道に乗り、ファンドゥーサからさらに街道を西に向かうと、目指すクレムルフトまであと一日というところで、一家はとある廃墟の砦の前を通りすがった。
 近づく随分と前からその城砦の威圧的なシルエットははっきりと見て取れた。それほどに大きなものが寂れ果てた荒野の真ん中にぽつんとそびえたっているのだから、そこから見える光景は旅人の心を不安がらせるに充分だった。
 ハリエッタは彼方をじっと見やったまま、馬を馬車まで寄せて、御者台の父に言う。
「ずいぶん大きな砦ね」
「領民の住む街をひとつ丸々、城壁でぐるり取り囲んであるのだな。昔はここにも人が住む街があったと聞いた」
 父グスタフは何十年か前に同じ道を旅し、同じ廃墟の姿をその時にも目の当たりにしたという。その時からずっと変わらず、それは廃墟のままそこで行きすがる旅人を待ち構えているのだった。
 末妹エヴァンジェリンが馬車の窓から顔をのぞかせ、父に問いかける。
「父さんは行った事があるの?」
「いいや、あの当時は不慣れな一人旅であったから、旅の商人を金でやとって道案内を頼んでいたのだが、近寄っても良いことはないとそのまま通り過ぎてしまったのだよ」
「良いことはないって、一体何があるのよ?」
「さて。わしはべつだん、立ち寄って見物してみてもよかったのだが。案内を頼んだと言ってもその商人も旅の行商の途中であったからな。なるべく寄り道などせずに先を急ぎたかったのだろうとその時は気にも留めなかったが……」
 父グスタフのその回答を途中から聞いているのかいないのか、エヴァンジェリンは冷ややかな眼差しで、向こう側の廃墟の影をじっと見やっていた。
 それ以上彼女が何も言わなかったので、妹は何故そんな質問をしたのかとハリエッタは首をかしげる。その言い分はまるで、よくない何かがそこにはある、と言っているように聞こえなくもなかった。
 そんな不気味な廃墟から視線を巡らせて、進む街道のずっと先を目で追いかけていくと、彼方にはぼんやりと山影が見え始めていた。クレムルフトは山間の寒村であり、これより先には山越えの険しい道程が一家を待ち構えていた。
「あれがリヒト山だとして、やっぱり先の宿場町で聞いたとおり、日没までに山を越えるのは無理みたいね。ふもとに差し掛かるころにちょうど夜になるような頃合いだと思うけど」
「だとすると、この辺りで野営した方がよいのだろうか」
「お父さん、それは冗談? こんな薄気味悪いところで夜を明かすなんて」
 不満を漏らしたエヴァンジェリンに、ハリエッタがため息混じりに言う。
「かと言って、山中で一夜を明かすことを思えば、どっちがましかは何ともね……」
「いずれにせよ、ここらでいったん馬を一休みさせたいところだ」
「じゃあ、いっそあの廃墟に寄ってみる? 井戸か何か、もしかしたら残っているかも」
 ハリエッタがそういうと、父はもっともだ、と頷いた。荒れ地が続くこの近隣では小川のたぐいも見かけることはなく、山越えの道に差し掛かるまでは水の補給も期待できなかった。
 廃墟へと向かう中で、エヴァンジェリンだけが、なんの不満があるというのか厳しい眼差しで表情で行く手の城影をじっと見つめていた。長女リリーベルも不安は不安だろうが、一家の誰も旅慣れてなどいないところに、馬車の手綱を握る父と、一人騎馬を駆る妹ハリエッタに道中の委細を任せきりにしてあったので、ことさら余計な口を挟まぬようにという心遣いなのか何も言わなかった。彼女がそこで不安をはっきりと口にしていれば、四名のうち半数が反対とあって優柔不断な父はそれで砦に立ち寄るのを取りやめていたかもしれないが、あとから言っても仕方のない事であった。
 一行の乗った馬車はゆっくりと城門に近づいていく。だがなぜか、馬車を引く馬たちが門をくぐる直前で歩みを止めてしまった。
 何故か馬はそれ以上先には進もうとしなかった。中古の馬車と一緒に買い求めた二頭だが、ここまでの道中では比較的気性は大人しく、不慣れなグスタフにもよく従ってきてくれていた。ここまではっきりと言うことを聞かないというのは今日その場所が初めてだったかも知れない。
 状況はミューゼルも同じだった。無理を言えば従ってくれたとは思うが、城門に近づくと確かにそわそわとした様子であまりそちらには進みたくはない様子だった。
 そんな馬たちの様子を見て、エヴァンジェリンが言った。
「私はリリーベル姉さんと一緒に、ここで馬車と馬の番をしているわね。父さんとハリエッタとで、ゆっくり見物してくるといいわ」
「こら。ハリエッタもお前の姉さんだぞ。姉さんといいなさい」
「はあい」
 歳も離れているし、母を亡くした姉妹ゆえにエヴァンジェリンから見ればリリーベルはある意味母の代わりとも言えたが、それと比べれば、騎士になるだのと言って女だてらに剣だの馬だのに興じているハリエッタは年齢も近い分、幼稚に見えていたかも知れない。
 だが貴族の子女として年長者への敬いに欠ける態度はいささか行儀が悪い。父グスタフにしてみればそこは諫めなければならないところだが、庶民とそう代わり映えのない暮らし向きの上に、母親との死別も重なって子どもたちには色々苦労をかけているという思いが、厳しい叱責をためらわせる一因でもあった。
 横で見ていたリリーベルが、代わりに優しい口調でたしなめる。
「エヴァンジェリン。お父様のいう通り、ハリエッタのこともちゃんとお姉さんとして大事にしてあげてね」
「はあい……つまんないの」
 エヴァンジェリンはやる気のない返事をもう一度すると、馬車の座席に行儀悪くあお向けに転がった。
「エヴァ、番をするといったからにはちゃんと番をしているのよ? ……リリーベル姉さんはどうするの?」
「私? そうね……」
 彼女はしばし思案ののち、言った。
「薄気味悪いのは確かだけど……どちらかというとハリエッタと一緒の方が心強いかしら」
 おや、とハリエッタはエヴァンジェリンと顔を見合わせた。話の流れから言えば普段の姉ならば留守を守ると言いそうなものだったので、二人ともがそれを意外に感じたのだった。
 よほどその場所が薄気味が悪かったのか、それとも何かの気まぐれか。
 前者であればエヴェンジェリンをここに一人でおいていって大丈夫か、とも思ったが、彼女はもう一度、つまんない、と小さくつぶやいて、ふてくされた態度で馬車の座席でごろりと今度はうつ伏せになって足をばたつかせる。今しがたちゃんと見張れと念押ししたハリエッタだったが、本当にそれを期待していたわけでもないので、やれやれとつぶやいて、自分もミューゼルを置いて徒歩で城門をくぐっていくことにした。馬車も馬も置いていくのであれば父も姉も徒歩になるので、自分だけ騎乗したままというわけにもいかなかったし、水場があるのなら水を飲ませてやりたいという思いもあったが嫌がるのを無理強いは出来ない。手綱を馬車にもやいで、ハリエッタは父と姉と一緒に城門をくぐっていった。
 城門からは、大きく開けた目抜き通りが、一直線に奥にある城砦に向かって伸びていた。
 かつては物売りの店がいくつもいくつも軒を並べていたのであろう、かつての往来の賑やかしさがどうにか窺い知れる街並みだったが、今はただただ、石積みの廃屋がどこまでもずっと立ち並ぶだけだった。
 その目抜き通りを進んでいくと、先で道が交差している広場のような場所に出た。そこにまずは井戸を見つけたが、近寄ってみて覗き込んでみても、水はすっかり枯れてしまっていた。
 その広場のさらに先へ進むと、また新たに立派な城門が見えてくる。そこをくぐってしまえば、威風あるたたずまいのこの城砦都市の、実際の城砦の部分へと足を踏み入れていくことになるのだった。
「……廃墟なのよね? 人はいないのよね?」
 そこまで来ると、ハリエッタもまた堂々たる石積みの威圧感に不安を覚えたのか、思わずそう漏らしてしまうのだった。姉のリリーベルは妹の傍に寄り添いながら、ただただ不安そうな表情を見せるばかりで、終始無言だった。それを横目に見やって、父も娘二人をこれ以上廃墟にとどめおくのも偲びなく思い、そろそろ引き返そう、などと声をかけるのだった。
 丁度そんな折だった。通りの向こう側に、人の影が見えたのは。
 よろよろと頼りない足取りで近づいてきたのを見て、廃墟に住み着いた者でもいたのだろうかと思っていると、やがてリリーベルが短く息をのむように悲鳴をあげた。
 その人影は、骨と皮だけの状態で立って歩いていたのだ。
 それはまさに亡骸が歩いているがごとき光景であった。うら若き乙女達が遭遇するにはそれだけでも目を背けるに充分と言えただろうに、不気味を通り越してもはや滑稽ですらあったのは、その歩く亡骸が鎧かぶとを見にまとい、手には剣を握りしめ、ハリエッタ達の元ににじり寄って来ようとしていたのだった。
 警戒したハリエッタは、腰に下げたおのが剣の柄に手をやった。
 だが、彼女がそれをその場で抜き放つことはなかった。
 歩く亡骸の出現を訝しんだのも束の間、物陰やら通りの角から、同じように鎧姿の屍が次から次に姿を現し、あっという間にハリエッタ達をぐるりと取り囲んでしまったのだった。
 ハリエッタは悟った。むしろハリエッタ達こそが、彼らの縄張りに無粋に足を踏み入れた侵入者だということを。
 父も姉もここではただ不安と恐怖におののくばかりだった。
 ハリエッタはそんな二人に、ゆっくりと来た道を引き返すように促した。
 だが、屍の兵士たちはそれを許さなかった。ハリエッタ達の退路に回り込んだかと思うと、彼らは一斉に剣を抜き放ち、威嚇するように切っ先を突きつけて来たのだった。
 こんな局面で下手にハリエッタが剣を抜こうものなら、どんな反撃に出てくるか分かったものではない。一行は屍の兵士どもに促されるままに、城門を潜っていくのだった。
 城壁に囲まれた向こう側、ひときわ堅牢な作りの城砦がハリエッタ達の目の前にあった。広い中庭はかつては庭園として綺麗に整備されていたのであろうが、今は枯れた木立がまばらに立ち並ぶ、埃っぽい薄ら寂しい広場だった。
 ハリエッタがふと見上げると、城砦の二階部分のバルコニーに、人影があるのが分かった。
 その人影は、兵士たちがハリエッタらを連行してくる様子を上からじっと観察していたようだった。ようだった、というのはハリエッタがその存在に気づいたと同時に、向こうもハリエッタに気づかれたのを察知してか、そそくさとその場を離れていってしまったからだったのだが。
 やがて一行は屋内へと連行されていく。中庭から入ってすぐが階段になっていて、ハリエッタ達は促されるままに石段を登っていく。
 たどり着いた二階部分が大きな広間になっていて、そこがどうやら謁見の間のような場所であるらしかった。ハリエッタ達を取り囲んでここまで連れて来た屍の兵士達も、それで全員であったなら良かったのだが、足を踏み入れた謁見の間にも、一体何を守っているというのかずらりと整列して、ハリエッタ達が連れられてくるのをまんじりともせずに待ち構えていたのだった。
 その先の一段高い場所に、これは明らかに兵士たちとはいでたちの異なる男の姿があった。装束や立ち振る舞いを見やれば、彼こそが恐らくはここの城砦の主人であるらしかった。
 そして……ハリエッタが息を呑んだのは、その男もまた豪奢な衣装を除けば、骨と皮だけでそこに立っていたのだった。
 そのひときわ位の高そうな屍は、ハリエッタら一行を見やると、ごうごうと風が唸るようなしゃがれ声で――屍なのだから生きた人間のようには喉をふるわすことがうまくできないに違いなかった――彼女らに語りかけて来たのだった。
「旅人か。哀れにも呪われたこの街に迷い込んできてしまったのだな」
「あなたは、一体……?」
 父や姉を差し置くつもりもなかったが、思わず声を漏らしてしまったハリエッタだった。
「私が一体、何だというのだね。私の、まずは一体何について訊きたいというのかな?」
「そうね……では、まずはお名前をお伺いしてもよろしいかしら?」
「名前か」
 ふむ、と屍は相槌をうった。
「このような屍に、生ける者どものような、名乗るべき立派な名前などありはしない。とうの昔に忘れてしまったよ」
「では、生きている時分には名前はあったとして、あなたはかつて何者であったというの?」
「そうだな……死の呪いに覆われとうの昔に途絶えてしまった、この街を治めていたヴェルナー伯爵家の最後の跡取りが、この私であった」
「では、取り敢えずはヴェルナー伯、ということでよろしい?」
「名前が必要であれば、そう呼ぶといい」
「ではヴェルナー伯、この街はいったい何なの? この屍同然の兵士たちはいったい何者?」
「この街は呪われてしまっているのだ。死の呪いに覆いつくされ、人々は死に絶えてしまった。彼らはかつてこの城砦を守る任についていた兵士たちの成れの果てだ。別に何と戦っているわけでもない。兵士というのはああやって侵入者を取り締まって捉えるものだ、と思っているから、誰か来るたびに捕まえているだけなのだよ」
「あなたは捕らえられないの? それとも、囚われ人としてここにいるの?」
「さて、それはどちらであろう」
 そう言って、伯爵を名乗る屍はごうごうと音を立てて笑った。
「私もまた囚われ人であるというのは言い得て妙だな。確かに、私もまたこの呪いによって、肉体も魂も安らかに眠りにつくことを許されてはいない、という意味においては、呪いに囚われていると言えよう。……ともあれ、この城の中の事情で言えば、彼らは一応はこの私があるじだとは思ってくれているらしい。と言って、私があの者たちに好き勝手に命令出来るわけでもないのだがな」
 どれ、試してみよう……伯爵はそこで一つ咳払いをすると、朗々と語りかけた。
「兵士たちよ。彼らはこの私の客人だ。失礼のないように丁重に扱い、この砦を去ることを望む場合は速やかに帰して差し上げるのだぞ」
 兵士たちは承服の返答のように一斉にうなりを上げたが、それだけで彼女らを解放するでもなく、それどころか身じろぎすらせずにその場に立ち尽くしていた。
 伯爵がため息をついて肩をすくめると、それが何かの合図であったかのように、急に剣を突きつけてハリエッタ達に歩くように促して来た。伯爵の命令に従ってハリエッタたちを開放してくれるという風にはちょっと思えなかった。
「ちょ、ちょっと、伯爵。彼らは私達を何処へつれていこうというの?」
「やはり聞き分けてはもらえぬか。済まぬが、そなたらはこれから地下牢送りだ。居心地は決して良くないが、悪く思わないでくれたまえ」
 伯爵はそういうと、壇上の豪奢な椅子にどかっと腰を下ろし、ハリエッタ達が連れてこられたのと同じ通路へと曳き出されていくのを黙って見送るばかりだった。
 屍の兵士たちに促されるまま、一行は階段を下っていく。謁見の間は二階にあったが、階を二つ下って、兵士たちは伯爵の言葉通りにハリエッタたちを地下に連れて行こうとしているようだった。
 父グスタフと姉リリーベルはただ不安げに怯えているばかりだったが、ハリエッタは帯剣している分まだ気持ちに余裕があった。
 彼女は思案する。彼らは形式的にそう行動しているだけ、という伯爵の言葉に一理あると思ったのは、ここに至るまで誰ひとりとして、彼女が剣を帯びていることを咎め立てして、それを没収しようとしていないということだった。体格に恵まれているとは言い難い彼女でも取り回ししやすいようにと、幾分小ぶりの刀身ではあったが、それでも小太刀でもナイフでもない、立派に剣と呼べる代物だった。
 地下牢への道を歩きながら、ハリエッタはゆっくりと剣を抜く。それでも兵士たちはとくにそれを見咎めるでもない。
 ならば、いけるか。
 おもむろに、ハリエッタは剣をふるって前を行く兵士の足元を薙ぎ払う。骨と皮だけののろくさい兵士は、ハリエッタの剣の一閃でひざ下の骨を失ってしまい、バランスを崩して倒れ伏した。
 その調子でハリエッタは続けざまに剣をふるい、死せる兵士たちをなぎ倒していく。
「逃げましょう」
 父と姉を促す。だがその進路をふさぐように、別の兵士たちがぞろぞろと姿を見せるのだった。ハリエッタが目を剥いたのは、彼らは何もない古びた石畳の隙間からまるでにょきにょきと生えてくるように現れて見せたことだった。昔から死に絶えたままの屍ですらなく、まさに砂と塵で形作られて現出した、怪異と呼ぶに値する呪われた存在だったのだ。
 広間にあれだけの頭数がずらりと居並んでいた理由もそれで分かった。であれば、死者への尊厳などこの際気にかけても始まらなかった。ハリエッタは返す刀で、兵士たちを次々薙ぎ払っていく。地上への階段を目指し、どうにかしてその場から離れようと走るが、父も姉も決して足は速くなかった。
 やがて一人遅れていたリリーベルがすっかり兵士に取り囲まれ、それ以上身動きが取れなくなってしまった。
「姉さま!」
 ハリエッタは慌てて助けに駆け付けようとするが、彼女や父親の周りもまた、無数の兵士たちに取り囲まれていた。このままリリーベルを助けに戻ったら、三人ともがまた囚われの身になりそうだった。
 父を守るハリエッタと、一人取り残されたリリーベルとの間に屍の兵士たちが大挙してなだれ込んできて、両者は徐々に引き離されていく。リリーベルの姿が群れ集う兵士たちの影で見えなくなってしまうに至って、ハリエッタは苦渋の決断を下した。
「お父様、走って!」
 ハリエッタは意を決して、後方ではなく彼女らの行方をふさぐ前方の兵士に向かって剣をふるった。
 父だって歳も歳だから、早くは走れない。とにかく迫りくる兵士たちを薙ぎ払いながら進んでいくと、前方に上りの階段があるのが分かった。彼女は父の背を押して一気に石段を駆け上り、中庭に出た。
 そのまま一気に城門を目指して走っていく。彼女達を取り押さえようという屍の兵士達が、中庭の石畳の上ににょきにょきと姿を形どっては、追いかけて走ってくる。幸いなことに、骨だけの彼らは老いた父グスタフと比べても相応にのろくさく、前方に出現した分についてもハリエッタの剣の一閃でなぎ倒すことが出来た。
 無論、兵士たちはどこからでも勝手に姿を見せていたから、町の廃墟の往来を走って逃げているさなかにもあちこちから襲い掛かってくる。その頃には父もただおろおろと逃げ惑うだけではなく、道端で拾い上げた棒切れを振り回して、どうにか兵士たちを遠ざけようと奮闘した。
 こんなことならミューゼルを連れてくればよかった、と後悔しつつもどうにか外側の城壁の城門が見えてくるところまで、二人は息を切らして駆け通した。
 さすがにエヴァンジェリンも城壁の内側で起きている異変に気づいていて、城門の向こうからこちら側の様子を不安そうに眺めていた。
「早く! ふたりとも早くこっちへ! ……リリーベル姉さまはどこ?」
「それはいいから、あなたも逃げて!」
 そのままもつれるようにして、三人は城門の外へと飛び出していった。
 その頃には死せる兵士たちもその数を倍増させ、堰を切るように一家のすぐ近くに肉薄しつつあったが、城門を一歩出てみると、それ以上は彼らは追いかけては来なかった。後ろから押されるようにして城門の外側に一歩はみ出してしまった兵士は、その場で砂になって崩れ落ちてしまった。その有様に怯えるわけでもなかっただろうが、ハリエッタたちに届かないと知ると、兵士たちは城門から一歩距離を置いたまま、彼らを恨めしそうにじっと見ているのだった。
「どうして城門の外まで追いかけて来ないのであろうか?」
「それこそ、彼らは呪われた者ども故に、呪いの効力の聞き及ぶ範囲にしか立ち寄ることが出来ないんじゃないかしら? どうやら、ここから一歩でも出て来ることは、彼らには無理のようね……」
 ともあれ……本当に彼らが城門から外へとなだれ出て来ないと言えたものかどうか、じっと座して観察しているようないわれはない。それ以上屍たちとにらみ合いを続けていても仕方が無かったので、ハリエッタ達は馬と馬車に乗って、取り敢えずはその場所から離れることにしたのだった。

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