共認し合う「話し合いの場」

社会変革実現家のソーヤー海(カイ)氏が、三宅洋平氏と会談したときの録音。(書き起こRec date: 2016/4/8)

ここでは、次の新社会を構成していく上で不可欠となる「合意形成」の在り方について学びを深めたい。合意・共認というのは、コミュニティを円滑に進めていく上で欠かせない。しかし、現実は対立する利害が衝突して、数の論理という暴力によって運営されている。そうしたなかで、合意・共認を形成する方法として会議体が決定的に重要になる。カイ氏は『同意ではなく、共感しあうこと』を重視している。三宅氏はインデアンの会議体を例示し、話し合いの技術が重要と説く(その意見には共感出来る)、が、現代社会においてそれをどのように現実化していくかは未知数である。なお、大阪の会社で全社員出席による会議体を運営の機軸にしている組織があるが、その会議風景を少し連想しつつ、合意・共認の在り方について考えていた・・・。


〇司会進行  Sawyer Kai氏 リンク1 リンク2

〇Guest   三宅洋平氏

         高尾洋平氏

三宅
「まぁ解釈改憲っていうのは、もう、その時点で
僕らは国のいうことをひとつも聞かなくてよくなったというわけだ。
立憲国家主義が終わったってことで。
ただね僕は、世界中の左派が立憲国家主義を掲げるんだよね。
俺はパッと気づいたんだよね。
立憲国家思想って
ナポレオンとかさ、フランス革命の頃に生まれた思想でしょ。
古っ。
いつまで、何百年それにしがみつくのっていうのが、最近
俺の中に起きてきた現象で・・・
だってそれは暫定的な処置じゃん。
王様はまぁ、ぶっ倒さなくていいから・・・
王様はありだけど民衆の意見というものを汲み取る
憲法もつくって議会もつくってやりましょう、
というシステムだから。
ぶっちゃけいま俺が思うのは
『王様の時代ってまだ続けていいの?続くの?』ていう議論を・・・
あぶないところにはいってきた。

高尾
「あ~叩かれますねー」

三宅
「だけど叩かれる人が少な過ぎる。」

カイ
「だから三宅洋平が代表として叩かれに行ってます」。

高尾
「勇気あることだとおもいます」

三宅
「勇気とかじゃなくてたぶんバカなんだけど。
そこでしかないじゃん。
外堀の話をしつづけていることがすげぇバカにみえる。
言葉多くしてなにも語れていない。
だか本質を言葉少なく語ろうよ。とおもっちゃう」。

女性
「いま日本て立憲君主制じゃないの?」

三宅
「立憲国家思想。でも実態としては立憲君主ですよ。
言葉尻にとらわれるのが外堀の話であって
本体は実質そうじゃない。じゃぁ、日銀の株主は?」

高尾
「でも民主主義って言う概念がさ
多数決できまるけど、
少数派の意見が正しくなくて
大多数が正しいとはかぎらないんだよね。

カイ
「でもそれは、民主主義と、いまいった具体的作法は
同じレベルの話ではないからね。
民主主義っていうのは思想だから
それをカタチにしたものが
6対4みたいなさ・・・
それは必ずしも民主主義の質を表しているものではなくて
しょうがなくつくってしまったひとつの作法。
でも、それのデザインとしてはかならず
4が負けると言うデザインになっている。
だからそこがけっこう難しくて
民主主義自体は問題ないけど、
実際民主主義を体験することってあんまりないんだよ。
みんなは投票が民主主義と思っているが、
でも投票しても
そもそも票が数えられないシステムもあるし
票を替えるっていうシステムもあるし、
色々考えると投票はべつに
ただの手段で
かならずしも民主主義の要素をもたなくていい・・・」

高尾
「そうだよね」

三宅
「『デモクラシーってなんなんだ』っていうのは結構さ・・・
資本主義も、共産主義も、デモクラシーも、
けっこう虚構論議なんじゃないかっていう可能性もあって。
例えば「自由と平等」って、
哲学的にけっして相成り立ちえないものでしょう?
平等を論じたら個々の自由はないし・・・」

カイ
「でも、完全にフリーダム化した変わり方だと
言葉のとらえ方によって全部、話が色々変わってくるからさ。
何が平等で何が自由かって言う、
定義そのものが
そもそも平等ってあることはみんな自由さが平等であるみたいな感じだと、
多様性もあるし・・・」

三宅
「でも、自由さが平等ってありえないとおもう。自然律のなかで。
だから結局、自然じゃないものを
追いかけさせられる時点で
答えのない式、
解のない式(方程式)をずっと解かされている状態に、
民衆がおとしこまれているような気がして・・・。

だから、政治議論になると
たとえばさっき言った
これは立憲君主制なのか国家制なのか立憲民主制なのかみたいな
議論になるし、たとえばこのラジオ聞いているもうちょっと
ふだん赤旗超よんでるとかっていうひとは
もっと細かい部分で「イヤイヤ三宅君が言ってることは違うよ」ってなってくるわけ」

カイ
「たたくんだったら洋平くん叩いてください。僕はSNSやってませんので。
俺はSNSやってませんので叩きようがありません」

三宅
「そしてみんなが叩いているのはSNS上の僕のアイコンでしかない。僕じゃないから・・・。
それおいといて、そこの論議になったとき
デモクラシーってなんなんだってことで、でも
おれは民主主義は大事だとおもうの。
信じたいものがあるの。
それは何ですかって言うと
『話し合いで解決しよう、殺し合いではなくて』。
ていうこの大前提が
これ以外ないとおもう。民主主義は。
だから、話し合い方の技術を高めましょう。
それが議会であり社会でありエデュケーション教育である。
そこにおいて、おのおのの自由が担保される。

『私はこういうニーズがある』と。
だから巨大な社会ファシリテーションとしての政治機能、
それが僕はデモクラシーだと」。

高尾
「むずかしい」

三宅
「むずかしいかな」

高尾
「いやいや概念それぞれで
それが絶対的に真実かどうかって言ったら
あくまで洋平さんの意見・見解と見方の問題であって、
デモクラシーって言う概念は
ひとの数ほどカタチ化されるから、
すごくカオスやなっていう意味で、
これを統一させようと論議をして
『俺のデモクラシーって言う見方が正しいんだ・・』というのをSNS上で
やりあってる人をめちゃくちゃ見るから
こりゃすごく迷走しているなと感じるから、むずかしいなと・・・」

カイ
「でも、なんか、ここで僕がとってる手段は
『共感コミュニケーション』というものを広めているのね日本で。
なぜこれを広めているかっていうと、
社会運動としてやっているんだよ。
夫婦の関係や子供との関係にメッチャ役立つんだけど、
ぼくのなかでは社会運動なのね。
なぜかというと、
~話し合える空間~
いろいろ議論して対立的な(敵っていってたけど)
違う価値観でなにかをしないといけないとき
ぶつかってしまうという。
でも、僕はただ話し合いだけじゃなくて
話の質っていうのがだいじで、
それが『共感』。
『共感』し合える。
同意しなくていいけど、共感はし合いたい。
そうすると、最低『つながり』はあるから。
つながりがないといっしょにできない。
だから、みんながつながりをつくっていって、
つながりの質を高めあう文化にしていけば、
いろんな問題をともに解決出来るようになる。

で、なるべく犠牲者が出ない解決策ていうのができる。
いちばん実践しながら希望に感じているからやってる。
だから
セオリーはあんまりなくて、
どっちかっていったら実践しながら感覚的に『あこれはいける』みたいな。

この意識の領域にはいるとけっこう難しい話しもできて、
べつにだれもわるいとみえなくなる。
ただみんな最善を尽くしていて、置かれている状況で。
で、現実のとらえ方が違うし、影響のされ方も違うから
そこを素直に表現しながら、共感しあうみたいなさ・・・。」


三宅
「なんかね、そこで俺は
イロコイ連邦の話しっていうのが民主主義の原点といわれてる。
ネイティブアメリカンのイロコイ族の・・・。
けっこうそのイエズス会の宣教師たちが、
植民地が進んでいくアメリカのなかで
ヨーロッパとアメリカを行ったり来たりしているあいだに、
最初はやっぱり原住民たち先住民たちにすごく救われて
(トウモロコシの種から何からもらって)教わっていた立場だから。
そこで最初の入植者たちがおどろいたのは
『なんて平和な社会をつくってやがるんだこいつらは』と。
血で血を争う欧州からきた自分らからすると、
理想の社会をつくっていて、
そこには高度な議会制度があった。
じつはこれがにヨーロッパに持ち帰られて
けっこうワイマール憲法とかのもとになった。
いまデモクラシーと言われているものの
じつは原型になったアイデアがイロコイ族にあって、
彼らの議会がもってるルールってものがすごくシンプルでマトを得ている。

たとえば、話者はけしてさえぎられずに最後まで話す権利をもっている。
だから誰かが話している間に割って入ってはいけない。
みんなそれを最後まで聞く権利・義務をもっている。
そして一定の休息を経たあとに話者は
いまじぶんが話したことの修正を許される。
その後、こんどはそれに反論する者がおなじように
自分の立場を述べる。
そしてそれをサードアイ的な第3者の部族が、かならずみている。
このひとたちは何も裁定しない。ジャッジもしない。
ただ、いちじるしく話題が脱線したとき
そういうときに
いまは、どっちのたんぼの水を引くかの話しなので屋根の材質の話はあとでみたいな、
戻しがある。
で、その両者が納得がいくまでこの話し合いは、永遠に続くんだよ。
この議題に関して終わりがない。
両者が納得がいく決着点がつくまで
3日でも5日でも7日でも酋長と酋長が村の大変さをうったえ続ける。
ただし、ルールがあって日が沈んだら終わり。
よるはみんなで同じテーブルを囲んで ごはんをたべて寝るわけ。
つぎの日はコケコッコーとニワトリが鳴いたら、
また話し合いを続ける。
ともかくそれをやってくと
どっちも大変だとわかってくる。
どっちかが得をしようとしているんじゃなくて
両方たいへんだという共感がうまれてくる。
おまけに3日とかフラフラになるまで話し合いをしていると
4日目の朝には「おたがいたいへんですね」みたいになってきて
そしてよる食べるという時間を共有しているから
やっぱそこに人間としてのシンプルな共感がやどってくる。」

カイ
「そうですね
ともにたべるってすごい大事だよね。
やっぱりさ、たべる、とくに「持ち寄りごはん」。
おれはほんとに「持ち寄りごはん」ってのは
革命的な市民のまぁひとつの儀式でもあり運動でもあるんだけどさ。
やっぱり、たべものをもちよって、
やっぱりこれって完全な贈与経済じゃん。
与え合う。なんかもらいにいくわけじゃないじゃん。

みんな与えるためになんか、つくったり、残り物出したりいろいろあるけど、
で、他の人の食べ物をじぶんのからだに入れる。
やっぱり、なにかをからだにいれるっことってあんまりないじゃん。
だから、かなりの信頼があるんだよね。
たべものを口にするって言うのはね。
で、それをともにたべあうというのは

だれも毒を入れていないし、だれも不潔なキッチンでつくってないみたいな、
いろんな信頼がそこにやどっていて、
それがほんとにコミュニティの形成だったろうし
それができればさっき言ってた対立があっても、
なんとなく深い調和が保たれている対立っていう・・・」

三宅
「だからさ、その、問題なのは
対立があるかないかではないし、
対立は必ず生まれる・・・。
だから、じょうずな話し合いのプロレスのなかで
お互いそのストレスをぶつけあうみたいな。
ただしそのなかで、けっしてやってはいけないことというのを守りながら。
ジャッジする第3者がいて。
『あんたそれちょっと言い過ぎやで』とか、
『中傷はやめやて話し合え』、とかそう言うひとがいるわけよ。
その係は議題によってつねに交代するわけ。
『きょうはおまえ審判ね』みたいな。
『今回俺関係ないから俺やるわ』みたいな。
これってやっぱり今の日本の国会をみていると、
これらの基本的な要素がなにもないんだよ。
まずひとが答弁している最中に
首相がヤジを飛ばしてしまう。」

カイ
「しかもさたまに殴り合いとか
野球のさ外国人にボール当てたときみたいな
みんなつっこんでワーッと」

三宅
「それだけはやってはいけないのオンパレードじゃん」。

カイ
「それを子供に見せたらどうおもうんだろうね。
こんなのやっていいんだってなっちゃうよね。」

高尾
「イロコイ連邦のやり方って
非暴力コミュニケーションに限りなく近い政治手法というか。
すごく合理的よね。」

三宅
「その以前に、100年近い6部族の戦乱の時代があって・・・。
もう、こりごりたときにその方法にたどりついた」

高尾
「こりごりってキーワードだね」

女性
「そのときの議題はなんだったのか」

三宅
「いっぱいあるよ。
川の鮭のとる場所。
女性問題。
木の実をどっかがとりすぎてる。
なんで栗がこんなにねぇんだ・・・どっかがとりすぎてる・・・」

ユーチューブ

https://www.youtube.com/watch?v=n3D9HZ0gIAY

36分50秒~51分37秒を抜粋



アセンション実践倶楽部 http://asejitsu.jimdo.com/




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