日本的霊性と日本語

非力で無力なアリンコみたいな人生にみえるが、そうではない。わたしたちは日本語という霊性に響くことばに真心をのせて話すことで、宇宙のバランスに貢献している。

日本的霊性の本源は日本語であるという知見は、まさに西欧イルミが日本語を攻撃する理由だ。楽天のように会社の公用語を英語にしたり。大学の授業を全部英語にしたり。彼ら魔界の者どもは、日本語の50音の神(霊性)を破壊したくてたまらないのだ・・・。あと芸人による、気持ち悪い言語破壊といったら・・・。

では、霊性とは何か。

今後、世界の金融秩序が大崩壊して、世界を席巻する消費価値観も大崩壊して、民衆の暴動に次ぐ暴動で共食い状態になったとき、『では、人間的霊性の本源とはなにか』を会得している民族とそうでない共食い民族に分かれてしまう。必然的にそうなる。霊性とは「良心・まごころ」のことだから霊性ある者は助け合うだろうが、霊性なき者は奪い合い殺し合い人肉すら食い合う。

現在でもグローバル資本主義だの、新自由主義だのわけのわからない共食い合戦を奨励している悪魔どもが割拠しているが、そこに見られるのは現代的な支配秩序の根幹にある「人間霊性の破壊」であり、悪魔的な収奪の正当化である。それが現れているのが「大銀行は利益をまるどりし、つぶれたら政府が補填」そういう略奪の図式である。

こういう非人間的な強奪思想の正当化を経済学と呼び、それを国家間、また世界金融資本たちで正当化し、勝手なルールをつくって世界中にBISが押しつけていく図式は、どうみても、人間から霊性を奪い、人類からマネーを収奪し、環境も人類もなにもかも破壊していく道のように見える。

このような状況を『非人間的である』とみなすことのできる感性は、人間らしい魂の感性である。その根底にあるのは西欧が虫の音を雑音とみなし皆殺しする感性なのに対し、日本は虫の音に秋を感じ、自然を感じ、宇宙を感じ、人生を感じる感性である。つまり、日本人の使う日本語には、素晴らしい霊性の基盤が存在するのだ。

ちょっと専門的な話になるが、日本人に存在するD2遺伝子というのがある。この遺伝子がどうも縄文日本人の感性を遺伝させているらしい。つまり、日本語の源流はD2遺伝子のもつ霊性が反映しているということだ。日本語とは、すなわち、霊性の言語である。それは合理主義やマネー収奪主義の言語ではないのだ。そこに決定的な差異がある。

また、日本語には音読み訓読みの二種類があるが、それはある意味、日本語の持つ包容力の大きさを象徴している。藤原権力の漢字導入によって漢字の音読みが日本語を席巻した。それは異国の文化さえ受け入れ包容するという日本的霊性を象徴しているように、私には感じられる。

その包容性の結果、なんだかヘンなことになってしまった。つまり現代も、藤原律令制を受け継ぐ官僚どもの作文は、とことん漢字と英語を多用した音読みと英語まじりの『奇妙奇天烈』なものになっているのだ(笑)。

それに対して、万葉古語の世界観はどうか。

万葉古語の世界観、すなわち、訓読み、万葉がなによる、うつくしくたおやかな日本語の響きのすばらしさは、いったいなんと表現したらいいのか。まるで、全宇宙に町内放送のマイクを占拠して放送したくなるほどの、ゆたかでみずみずしい響き。宇宙に溶けいりたくなってくるほどなのだ・・・☆。

この、うつくしい万葉古語の世界観を凝縮したことばに「祝詞(のりと)」がある。神官が神社で読み上げる文章であるが、その言葉も、中臣氏(藤原の先祖)が漢字に書き換えてしまった。つまり、縄文神道が、藤原によって藤原神道になってしまった。しかし、さいわいにして、「響き」だけは残った。

藤原神道が漢字を当て字にして書き換えた祝詞も、声に出して読めば、そこには縄文神道の響きがよみがえる。(※残念ながら完全にではない、大祓祝詞は真ん中の天津祝詞の太祝詞ごとが欠落・隠蔽・消去されてしまったが)。日本語の霊性というものは、本質として「響き」として、神力を宿している。だから、声が大切なのだ。

声が大切だから、斉藤というひとが「声に出してよみたい日本語」という本を出したが、それは道理である。そして、読み聞かせで、子供達に絵本や紙芝居を読んで聞かせることが、ものすごく霊性の開発に役立つのだ。日本語の霊性の神秘は『音・声』にあるからだ。

このように、素晴らしい縄文感性(霊性)を生まれながら遺伝子に保持するわれわれは、今後、現世界秩序の崩壊を経て、ほんとうにたいせつな自然との調和を霊性を通じて実現していかなければならない。それは日本人として生まれた使命である。この破壊的カルト資本主義を超えて、世界を再生させるのだ。

そして、すべての日本語使用者のみなさんに申し上げたい。われわれは日本語をこころをこめて使用し発声することで、この混乱深まるアンバランスな世界に、縄文感性というバランスを表現しているということだ。地位、カネ、権力なんて無くていい。日本語をしゃべることが、宇宙への貢献なんだ。

そして、もう一点申し上げたい。それは、言葉と心との関係性です。言葉は為政者やマスコミのようにいくらでも糊塗できる。嘘を重ねることができる。だが、言葉とはなんぞや。言葉とは事の葉、つまり心の事をのせる浮き舟(葉)なのだ。だから、心が乗らなければそれは言葉ではない。単なる記号に過ぎない。それが重要だ。

いまみなさんに問う。

われわれ最下層の者達は、世界に対して何ができるのか。無力で非力でアリンコ同然と思うだろうが、そうではない。為政者ができない言葉の使い手になれる!世界に調和をという真心を込めて、いつもその祈りを込めて、言葉を声にして発することができる。それこそ心=言葉、つまり宇宙の秘法の実現者ということだ。

このしごくアタリマエである『心=言葉=日本語=霊性』の関係を、ぜひ、おぼえておいてほしいんだ。そして、ふだんの言葉に心をのせて、ただふつうに生きていくだけだ。それがいかにすばらしい使命であったかを、死後、あなたは知ることになるだろう。

なぜなら、50音は神そのものなのだから。


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で、余計な話だが、仏道には「和顔愛語」という言葉がある。その意味は、おだやかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接することらしい。仏道には、無財(むざい)の七施(ななせ)という世の中への貢献方法があって、財がなくてもできる七通りの布施の中の和顔悦色施(わげんえつしきせ)と言辞施(ごんじせ)に通じる内容らしい。もっと仏道関係者に言わせると、布施行のひとつでもあるらしい。

 例えば、もし混んでいる電車の中で足を踏まれたとしましょう。その時、あなたは怒ってはいけません。にこやかな顔で、

 「あなたの靴が私の足の上に乗っているのですが」

 と、穏(おだ)やかに言わねばなりません。何しろ布施の修行をしているのですから。

 アランの「幸福論」に

 「あなたがレストランに入る。隣の客に敵意ある視線を投げ付け、さらに、メニューをジロッと見て、ボーイをにらむ。それですべては終わりだ。不機嫌がひとりの顔から他のひとつの顔に移る。すべてがあなたの周囲で衝突(しょうとつ)する。恐らくコップでも割れることだろう。そして、その晩、ボーイは細君を殴りでもするだろう」という話があります。

 あなたの不機嫌な行動や言葉は、あなたひとりに止まらず、次から次へと伝わっていくと言うことでしょう。それからまた、他人の不機嫌も自分に伝わり、楽しかるべき気分が損なわれることもあるのです。

 さて、不機嫌が他へ伝わるものならば、その反対の上機嫌も同じく他へ伝わるはずなのです。だとしたならば、不機嫌を他にばらまくより、気分よく人に接した方がいいに決まっています。それは、誰もが望むことですが、四六時中(しろくじちゅう)気分よくしようとしてもなかなかそうはさせてくれません。他人との間では、自分の思い通りにならなかったり、嫌な仕打ちを受けたりもします。そんな時、にこやかに思いやりある言葉で接することなどできませんし、もし、そのように振る舞えたとしても、相手に媚(こ)び諂(へつら)っているようにしか思われないでしょう。

 では、どうしたらよいのでしょうか。

 怒りには怒りをもって応酬(おうしゅう)しますか。それでは、ギスギスした心になってしまいます。和顔愛語は、先に申しましたように仏道修行なのです。布施行なのです。他人の思惑(おもわく)などどうでもよいのです。和顔愛語を行って、他人によく思われたいと思ったならば、それは布施ではありません。あくまでも自分自身の問題であり、仏の境地に近付く第一歩なのです。引用元

ここでは、おだやかな笑顔と思いやりのある話し方が「潤滑油」のように作用すると言っている。また、「出したものが鏡となって戻ってくる」ような説話も読み取れる。社会的な倫理とかマナーのたぐいで「こうしましょう」という言い方も、もちろんあっていい。だが、本質論として「心=日本語=霊性」という観点に立てば、「潤滑油」とか「出したものが鏡となって戻ってくる」という教えは、ちょっとズレている(わかりやすいが)。

ものすごくコワイことだが、はたして『混んでいる電車の中で足を踏まれたとしましょう。その時、あなたは怒ってはいけません。にこやかな顔で、「あなたの靴が私の足の上に乗っているのですが」』と言える人が世の中に存在するのだろうか。

心の素、というものは、とっさに現れてしまう。また、大地震の生命の危機や食糧飲料水不足のときなど、心の素を隠すことはできない。

この心の素であるが、聖人のような側面もあれば、夜叉のように怒りたい側面もあるのが人間だろう。日本人はおしなべて従順で温和という傾向があるにしても、だれにでも心の多面性はある。

そうした多面性を、まず、自分自身が受け入れているかどうか。その多面性のさまざまな局面を認めることができるのかどうか。そういうコワサが、「心=日本語=霊性」という観点にはつきものなのだ。

先ほどの電車のエピソードを再び持ち出すなら、ふつうの大部分のひとは「足を踏まれて怒って当然=踏んだ奴が悪い」という心を起動する。「怒って当然」なので、「怒っている状態を客観視する余裕がない」。そのとき、心は勝手に感情体になってしまい、理性的に自分を客観視する主体はどこかに消えてしまっている。

そのとき、「怒りの心=暴言・喧嘩腰=霊性の消失(暴力性の出現)」という状態になる。

言葉というものは、そんなふうに、よくもわるくも素の心を反映してしまう。だから、コワイのだ。

また、冒頭の文章でも触れたけど、「嘘に嘘を重ねる、心不在の言葉」、というのもコワイものがある。権力者やマスコミや虚業の商売人(弁護士等)にとって言葉は武器であり、ヨロイであり、飾りであり、ツールにすぎない。だから、彼らのメンタリティでは「心≠日本語≠霊性」という常識が岩のように確立している。彼らにとって、言葉はマネーや工学や数式とおなじようなツールにすぎない。むしろ言葉は、法文(条文)の下僕であり、まちがっても「霊性や心をのせる舟だ」なんて理解は微塵もない。だから、心を偽ることが習性となり、もはや、心をますなおに表す言語を有しておらず、それはつまり、自分で自分の心を偽り、コロシ、ゆがめ、無視することにつながる。心の奥底からの叫び声、良心が発する真摯な声、そういうものをだれしもが持ってはいるのだが、彼らは、それをいともかんたんにねじまげる。それが習性だから、もはや、そのことに気付くことも立ち止まることも、修正することもない。だからコワイ。とことんコワイ。じぶんを知り、気付く最良の相棒である言葉を捨ててしまって、エゴのツールにしてしまっている。ほんとうにコワイことだ。

では、コワクない状態・・・・つまり、平穏で、安寧で、安らかに言葉が使える状態とはなんだろうか。

言葉が、風の凪いだ湖面のように、みずからの心の奥底を映し出してくれる状態とは、どういう状態だろうか。

そして、言葉が心の友となり、親友となり、伴侶となり、言葉と共にじぶんのあらゆる局面を映し出し、それを見、それを認め、それを受け入れ、それを理解し、それとともに存在できる状態・・・というのは、あなたにとってどういう状態であろうか。

このような状態こそ、「心=日本語=霊性」という状態だと言えないだろうか。

そして、日本語が外国の多様な言語を受け入れ包容してしまうように、わたしの使う言葉もまた、わたしの中の多様な感情を受け入れ包容してしまうとしたならば、自己に対する不信や心細さ、不安などもまた、言語化することによって客観視することができ、それゆえに正確に原因と感情の関係性を理解することができ、根拠のない感情や、思い込みでねじ曲がった感情にふりまわされることもなくなっていくのではないだろうか。

つまり、「心=日本語=霊性」という本質は、ある意味ではコワイほど冷徹に事実をつきつけてくるし、ある意味では冷静に事実を客観化してよきパートナーとなってくれるといえる。

そして、これからは動乱の世となっていき、その中では、偽物と本質との分離が行なわれていくとみる。

ほんらい人間の知的活動の基盤は、「心=日本語=霊性」という本質に基づくものであるから、本質に反する「心≠日本語≠霊性」という言葉の使い手は、これからの乱世において行き詰まり、苦しい自己矛盾に直面していくのではないだろうか。

そう仮定したとき、「心=日本語=霊性」という本質は、コワイどころか、ヤサシイものだったとしみじみ思えるのではないだろうか。

いつも、いつも、陰になり、日向になり、親が子を見守り、いくつしむように。日本語50音に内在する神は、その使い手である人間を優しく見守っているのではないだろうか。

それゆえに、日本語を使う文化圏に生まれさせてくれた幸運に感謝し、これからも日本語を心をこめて使えるようになりたいと、思うのである・・・。


アセンション実践倶楽部 http://asejitsu.jimdo.com/




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