集団アレルギー?を越えて

学校などの集団に対して、目覚めている「はぐれ者」たちは、学校を唯一絶対視することなく、子供達を自立的に育てているようだ・・・。(以下・会話より)

【蘭丸909さん談】 ‏朝から「プールカードがない〜〜」と探し回ってたs(息子の名前)。「別にいいじゃない〜連絡帳に書くよ〜」って私が言ったら、「プールカードを提出しないと全体責任とかでプールには入れない」んだそう。なんじゃそりゃ?団結!とか、全体責任とか、気持ち悪いからやめてほしいです。。。。。

【Solysombraさん談】勝手にクラス分けしておいて全体責任もないよねぇー。別に偶然同時期に学校行ってるってだけで何が全体責任なの?日本の教育、本当に阿呆すぎる。

【ゆーりんどうさん談】連帯責任かな?一時期、絆とかも、流行り言葉のように目標やテーマなどに使ってて、とっても違和感ありました。先生の指導が入ってたからなのか、単に世間であまりにも使われてたから何となく使ってしまったのか・・どちらにしても気持ち悪かったです。

【Solysombraさん談】相変わらずくっだらない「全体責任」ルールがあるのね〜。小学校から軍隊教育に余念のない日本だわw 糞

【蘭丸909さん談】そうそうそう。馬鹿馬鹿しいの。息子が出来ないからと、先生が家まで指導に来るんだよ^_^もう、????未だに?????ですよ〜うん。1週間くらい毎日来たよ。「うちは、その件に関して、みんなと同じじゃなくていいと思ってます^o^」って、にこやかに答えたのに、怒られた。答えが決まってて、それに従わないとブラックリストに載せられるらしいよ。私は勿論、ブラックリスト!(笑)          みんな一緒にしようとしないでほしい。けど、そんな事、先生に望んでも無理だからさ〜学校をいかに適当にやり過ごすかが大事(笑)私達は、たくさん楽しい世界をプレゼントしてあげようね^ ^      エリナちゃん、義務教育は糞以下だよ。糞は肥料になるし役立つよ。

【Solysombraさん談】その糞を肥やしにして日本の政治家や官僚がカネのなる木を育ててるのよねー。うまく回ってるんだわ〜w 糞

さて、この学校という集団についてなんですが、わたしも、中学時代から学校の規則がキライで先生がキライで、社会人になってからは組織や格式がキライで、そんなことからフリーで生きてきたはぐれ者の一人です。ですから、集団に対してアレルギーをもつ気持ちはよくわかる。むしろ、反体制という立ち位置の方がすんなりくる。で、あるが、だからといって次の社会に生まれるであろう集団を全否定するものではありません。

では、「次の社会に生まれるであろう集団」とはなんなのか?すこし見ていきましょう。


いま、小学校で押しつけられてくる「集団としての規範」。ルールのことです。集団の規範とは、形としての規律性(大量生産時代にロボット的に有効だった)を後生大事にして、最終は軍隊的に下達圧力で集団を維持するための策だとおもうんだ。あるいはスタートが軍隊で、それをお手本として会社や学校を規律化しているといってもいいけどね。

だから、集団というものに形式しか見いだせない「はぐれ者」からみれば、集団の秩序や規範が無意味にみえるんだ。それはいいとして、問題は『ならば、内容のある、価値方向を同じ目的で追求する集団』の場合は、集団と個人との関係性がどう変わるのか、そこが焦点になるとおもうんだ

現代の日本人は、『内容のある、価値方向を同じ目的で追求する集団』の経験を忘れてしまった。古き良き部族社会の大家族みたいなものを完全に忘れてしまった。そのかわり明治維新以降に軍隊式の形式集団だけをあてがわれた。

【Solysombraさん談】ああ、悲しい程同意です〜。さらに悲しいのは現代日本人がこのあてがわれた形式を「昔から日本や日本人はこうだった」と思い込まされて疑う余地すら無いこと。学校でも近・現代日本史をまともに教えないところにこの悪どさがハッキリ見えます。

私たち「はぐれ者」が、集団に対して本能的に感じるウサンくささ、ピラミッドの息苦しさ、形式性、統率だけを優先する内容の希薄さ、内部の者同士がホンネで疎通出来ないギスギスした感じ・・・我々が察知しているのは、集団アレルギーというものでしょう。そして、ともすれば「集団アレルギー」が強過ぎて、全ての集団を毛嫌いし否定することにつながっているのではないでしょうか。

しかし、全ての集団が、形式化・硬直化してしまうものなんでしょうか?

というのも、資本社会の崩壊とともに、ホによる社会システムの崩壊も不可避です。そうすると、我々は好むと好まざるにかかわらず、既存の交換社会に代わる新たな交換関係(協働関係)を地域社会で見いだしていかなければなりません。それは自治体主導で上からおりてくるものではありません。(自治体も実質、機能停止する)

そして、既存の学校制度も役に立たないでしょう。学校卒業後送り出す社会が崩壊するため、学校の位置づけも存在意義も喪失し、集団の権威づけもきかなくなるでしょう。そうしたときに、個で生き延びると宣言するひともいますが、個では生き延びることはなかなかできないとおもうんです。

どうしてかというと、過去の日本の農村社会がもっていたような土地生産の場と大家族がになった労働力、それがいまはありません。ですから、食糧の確保だけとっても各種の生産農場との関係性が大事になるし、専門的な大工や民間医療などの技術も関係性のなかでつちかっていかねばなりません。

おそらく我々の通常の認識においては現代の高度分業化した専門社会に染まり切っており、社会システムの崩壊という状態をおもい描くことができないため、わたしの言ってることもうまく伝達再生出来ないこととおもいます。簡単に言えば、電話一本でカネ出せば何でもできた時代は終わり、関係性のみが重要になる時代がくるとでもいいましょうか。

その新集団の形成には、既存の学校や会社組織が合わなくてやめたり弾かれたりしたひと達が、むしろ、中軸となって活躍していくことになります。従来の集団の命令者(ロボットのようなひと達)は混沌の社会では自己判断での創造的な身動きできなくなります。そして、新集団では、従来の集団責任とか号令主義とかは消え失せ、自覚的&自立的な人々はあたらしい集団としてのつながりを形成していくようになります。

‏ですから、いま私たちは「集団=旧式の価値観のカタマリ=悪」という先入観だけで捉えるのではなく、混沌化した時代に個がつぶされずに生き残るために、まあたらしい仲間づくり(集団形成)をどのようにしていったらいいか、かんがえて用意していくことがひつようです。

Solysombraさんはオージー在住ですが、オージーソサエティのなかでも、古物バザー仲間とか、すばらしい価値観をもった人々がいて、それが地域ネットワークをつくる主体になっていくことでしょう。もちろん、日本においても農地を媒介としてなんらかのつながり共有がうまれてくることでしょう。

どのようにしてその仲間が生まれていくのか・・・。いま、世界中で散発的自発的に、その試みが生まれつつあるはずです。もちろん、日本でも・・・。そして、仲間づくりのマニュアルはありませんし、おしつけの規範もありません。ただ、いままでの集団組織が硬直化して行き詰まってしまう原因は、それぞれの仲間集団が感覚的に乗り越えて行ってるようです。

アセンション実践倶楽部  http://asejitsu.jimdo.com/

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